どうして……?
俺は喫茶店に入るなり、目を疑う光景に全身を硬直させた。
ここが公衆の眼前でなければ、俺は間違いなく数メートル先で、家族と座る男に掴みかかっていただろう。
なんとか平静を装い、こっちに手を振る妹のところまで歩き、隣に座った。
「祐太……」
男の口が、ゆっくり開いた。
「帰れって……言ったはずだ……!」
俺が絞り出すようにそう言うと「お兄ちゃん」と、隣から咎める声が聞こえた。
「すまなかった……!」
「…………」
なにも言えなくなった。
ふざけるな、なにを今さら……!
そう呟く俺と。
やっと、俺の知ってるこの人になった……。
そんなふうに考えている自分がいて、自分で自分の気持ちがわからない。
「こんなものでお前の気持ちが晴れるなんて思わない、もちろん許してもらおうとも。でも、今の私ができる精一杯の謝罪の気持ちだ。……受け取ってくれないか?」
目の前に差し出された通帳。きっと、この人が汗水かいて働いて、稼いだ金だ。
「なんなんだよ……」
出てきたのは、そんな言葉だった。
「お兄ちゃん……」
心配そうなみおりの声が聞こえた。
その声が、ぐちゃぐちゃな俺の頭の中を、多少落ち着かせた。
「今更、こんな……こんなことするくらいなら、最初から裏切ったりするなよ……!」
父は黙って、俺の言葉を受け止めているようだった。
「すまなかった……」
もう一度、そう言って頭を下げた。
父さんが大好きだった。
かたい言葉使いで、厳しい顔をしてて、誤解されがちだけど、本当は優しい人だって知ってた。
休日はいつも遊んでくれた。厳しく叱られた後はいつもそっと、お菓子を枕元に置くとこ、何度も見たけど、黙ってた。
父さんが大好きだった。
だから、許せなかった。
裏切られたから、自分はこんなにも慕っているのに、信用してるのに、それを全部裏切った。
ふるわれた暴力なんかより、そっちのほうが俺にはつらかった。
「男の子が一番最初に憧れるのは、特撮ヒーローでもマンガの主人公でもなくて、父親なのよ、政人さん」
母さんは、まるで俺の心を読んだかのようにそんなことを言いだした。
「あなたは、祐太の目標で居続けないといけないの、これからもね」
母さんに頷きを返し。父は俺に三度目の言葉を投げた。
「すまなかった」
俺は、しばらくの間、なにも言えずにいたが、やがてゆっくり呟いた。
「もういい」
父が顔をあげる。
「許す気はないけど、もう顔も見たくないほど怒ってるわけじゃない」
父の顔にほんの少し、安堵の色が広がった。
「でも、この通帳は受けとれない。母さんへの謝罪に使ってくれ」
「しかし……」
「勘違いしないでくれよ」
俺は父親を睨みつけた。
「怒ってないって言ったのは、俺にしたことについてだけだ、母さんにしたことには、まだ、顔も見たくないほど怒ってる」
通帳を突き返すと、俺は立ち上がった。
「母さんに許してもらえたら……そしたらまた、話すから」
「……ああ、わかった。許してもらえるよう、最大限努力する」
俺はやっと、わずかにも笑えた。
「だけど、俺の家族にまた手を出したらその時は……今度は俺が、ブン殴ってやるから」
「それは痛そうだな」
父もわずかに笑った。
「行こう、みおり」
「えっ?」
俺は戸惑うみおりの手を引っ張って立たせると、母さんを見た。
「じゃあ、先に帰るから」
「わかったわ」
父も頷いた。俺はそれを確認してから、みおりを連れて店を出た。
「良かったの?」
帰り道、みおりが突然聞いてきた。
「なにが?」
「お父さんと、もっと話さなくて」
不安そうにこちらを覗きこむみおりに、俺は笑ってみせた。
「いいんだよ、今は母さんに謝らせたいし、まだ怒ってるのは本当だし」
そこまで言ってから、俺は笑顔を崩して、みおりを睨みつけた。
「それより、お前の仕業だろ? これ? なに考えてんだよ」
「あ、えーと……」
イタズラがばれた子供みたいに、目をそらすみおり。それでもジト目で睨み続けると、観念したのかバッと振り返った。
「あ、あの人に、ちゃんと謝らせたかったの!!」
俺があっけにとられていると、その無言を納得していないととったのか、みおりはさらに早口でまくし立てた。
「だ、だって、お金だけ渡して帰ろうとするんだもん! そんなの許せないし、お兄ちゃんにも、その……ちゃんと話し合って欲しかったし。お兄ちゃんに、あんな目したままでいて欲しくなかったし……」
まったく……。
「あのなぁ……お前が父さんと一緒にいるのを見て、俺は心臓が止まるかと思ったんだぞ」
「あ……」
なにかに気づいたように、みおりはふふっと微笑んだ。
「なんだよ?」
「た、大したことじゃないよ。それと、私のことなら心配ないよ」
「え、なんで?」
「だって、手を出したらブン殴ってくれるんでしょ?」
「な……」
俺は羞恥で、顔が熱くなるのを感じた。
「こんなとこで恥ずかしいこと言うなよ……」
「さっきは喫茶店で言ったくせに」
「そ、そうだけど」
「それに、もう家の前だよ」
顔をあげると、確かに目の前だった。
「はあ……」とため息をつく。
「また、ため息?」
「今のは嬉しいため息だよ」
「なにそれ?」
みおりがクスッと吹き出した。
玄関の扉を開いて、中に入る前にみおりを振り返った。
「ありがとな、みおり」
しばらくきょとんとしていたみおりだったが、すぐに「どういたしまして!」と、俺の背中を押してきた。
「でも、お礼なんていいんだよ? 私、いっつもお兄ちゃんに助けてもらってばっかだから、たまには私がお兄ちゃんを助けないとね」
俺を押し込みながら、みおりはそんなことを言った。
「それこそ、お礼なんかいらないって。お前を助けるなんて当たり前のことなんだから」
「どうして?」
「そりゃあ……」
妹だからな。という言葉を俺はなぜか飲み込んでいた。
義理の妹だからためらったとかじゃなくて、なぜかその言葉がスッと出てこなかった。
どうしてみおりを助けたいのか。その答えはもちろん、大事な家族で、多分一番心を許せる相手だから。でも、今はそれ以外の感情もある。
「嬉しい……」
「……え?」
みおりはわずかに頬を染めながら、俺の背中の服をぎゅっと掴んだ。
「妹だからって、言わないでくれた」
「み、みおり?」
みおりに押し込まれ、二人の体が家の中に完全入り、バタンと扉が閉まった。
夕陽の光が遮断され、視界が一気に暗くなる。俺の背中を掴んだままのみおりは、顔を伏せてしまっていて、表情を読み取れない。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
しばらくの沈黙の後、みおりは背中を握る力を強めながら、小さく呟いた。
「な、なんだ……?」
「今だけ、誤魔化さないでちゃんと答えて」
顔をあげたみおりは顔を真っ赤に上気させながら、小さな声で、でもはっきり決意を感じる声で、問いかけてきた。
「妹だからって言わなかったのは、どうして……?」
次で終わります。




