疑心少年と女の子
それが始まったのは、突然だった。
きっかけは、多分リストラ。もちろん確証はない。でも、今思えば、あの頃確かに、父さんは仕事を変えた。
そして、それは始まった。
新しい職場は、恐らく父には合わなかったのだろう。幼い自分でもはっきりわかるほど、父は日に日にストレスを溜めていたし、常にイライラしていた。
ある日、父は母を殴った。
溜め込んだものを吐き出すように、ただただ、殴り続けた。
それは徐々にエスカレートしていき、ほぼ毎日、家の中には父が母にふるう暴力の音が響いた。
そんな父親の姿は幼い俺にとって恐怖でしかなかったが、なんどか止めようとして、俺も殴られた。
そんな毎日が、突然変わった。
詳しいことは知らないが、俺は母と一緒に、どこかのマンションに引っ越した。
そこで俺は一人の女の子と出会った。
一目見て、綺麗な子だと思った。人形みたいに現実味のない、美しさだった。そんな印象とは裏腹に、活発で明るい女の子だった。
でも、俺はその明るさに、どこか疑問を感じていた。
ある日、その女の子から、自分のなにが気に入らないのかと問われ、俺は嘘をついているからだと答えた。正直、彼女がなにを考えていたのかはわからない、けど、彼女の笑顔がなにかを隠すための仮面なのは、なんとなくわかっていた。
その後、彼女は俺に自分の悲しみをさらけ出してくれた。俺はその時気づいた、彼女を初めて見た時、人形のようだと感じた理由を。
彼女は演じていたのだ、周りから見た、理想の自分を。
女の子は、その日を境に、俺にとって他人ではなくなっていった。彼女は人間不信になりつつあった俺の、初めて気を許せる相手になった。
女の子が俺の妹になった頃には、俺の人間不信もほとんど消えていた。
なのに……
「カッコ悪いな……俺」
本人に自覚はないかもしれないが俺が立ち直れたのはみおりのおかげだ。彼女があの時、自分のすべてをさらけ出して、俺と向き合ってくれたから、俺はまた、人を信じることができた。
そんな相手の前で、あんな怒りに任せたような行動とって、トラウマで塞ぎこむなんて。
俺は嘲笑が口から漏れるのを止められなかった。
ブーッブーッブー
自らを嘲笑う声に被さるように、マナーモードのままのケータイが、その身を震わせた。
「メールか?」
確認すると、みおりからだった。
from 坂口みおり
to お兄ちゃん
お兄ちゃん、今お母さんと駅前の○○カフェにいるの、お兄ちゃんもすぐに来て。
PS 来ないと昨日の『夜』お兄ちゃんにされたこと喋っちゃうよ~。
……なにこれ?
意味深に夜に括弧ついてるし、下半分ハートマークで埋め尽くされてるし、悪意しか感じないんだけど。
「まったく……」
今度は嘲笑ではない笑みが浮かぶ。
何だか自分がバカらしくなってきた。なんで喫茶店にいるのか、甚だ疑問だが、取り敢えず行ってみよう。
念のため言っておくと、昨日の夜はいつも通り、みおりに勉強教えてただけだからな?
* * *
「これでよし!」
自信満々に宣言して、ケータイをしまうと、向かいの席に座る政人さんが不安そうにこちらを見ていた。
「不安ですか?」
尋ねると、図星だったのか顔を少し強張らせた後、誤魔化すようにブラックコーヒーの入ったカップを傾けた。
「大丈夫よ、祐太は妹には甘いんだから」
政人さんの隣に座っているお母さんが、そんなことを言う。どうやら元夫婦間の溝は思ったより浅いみたいだ。さっきからそれなりに話している。
私は今、○○カフェにいる。ここで、親子三人を話し合わせるためだ。
この場所を選んだ理由は二つ、お母さんが買い物で近くにいたから。もう一つは、お兄ちゃんに落ち着いてもらうため、こんな人の多いところなら、頭も冷えるだろう。すぐに手が出るような短気な人でもないし。
とにかく、目の前の人にはなんとしてでも、お兄ちゃんに直接謝ってもらう。お金渡して逃げようなんて許さない。
私はグラスに刺さったストローから、アイスティーを啜った。家からそんなに離れてないし、そろそろ来ると思うんだけど……。
ガラン
喫茶店の入口特有の、鈴の音が響いた。
「…………」
茫然自失って、ああいうのを言うだろうな。
「お兄ちゃん、こっち!」
固まったまま動かないお兄ちゃんに、私はいつぞやお兄ちゃんに買ってもらったシルバーのブレスレットをはめた手を、高々と振った。




