仮面少女と男の子
「実の父親……か」
私はだれに言うでもなく、一人呟いた。
あれから1時間は経ったけど、お兄ちゃんは部屋から出てこない。今日の授業でよくわからなかった、英語の文法問題を教えてもらおうと思ってたのに、あの様子じゃ無理そうだ。
お兄ちゃんの実の父親……確か政人さんとか言ってたと思う。あの人のことは、お母さんから少しだけ聞いたことがある。
家族に暴力をふるう、いわゆるDV。
たまたま日本に来ていた私のお父さんに助けられ、幸い犯罪沙汰になる前に離婚して縁を切ることができたって言ってたけど、今更この家に来て、一体なんの用なのだろう。
さっきのお兄ちゃんの目、初めて会ったときと、おんなじだった。
「お兄ちゃん……」
私はぼんやり、遠い記憶が蘇るのを感じた。
私が5歳の時、母親が事故で死んだ。
まだ物心ついたばかりの私には、人の生死をちゃんと理解することなんて出来なかったけど、大好きな母親にもう二度と会えないんだということだけは、なぜかはっきりとわかった。
それから1年、私は多忙な父親の代わりに日本の母親の実家で育てられた。そのころの私は、元気のいい活発な女の子だった。なんでかわからないけど、つらいともなんとも思わなかった。
おかげで近所の評判もよく、祖父母にもよく褒められた。
そんなある日、父親に連れられ、私は父の借りたマンションに引っ越した。そこには一人の女性と、同い年くらいの男の子がいた。
それが私と、千尋さんとお兄ちゃん――坂口祐太との出会いだった。
そこでも私は元気な女の子だった。千尋さんにはすぐに気に入られ、打ち解けた。
でも、祐太とは違った。
彼は私と徹底的に距離をおいた。いつも、私のことをいないように扱い。何度も、取っ組み合いの喧嘩をした。祐太の目はすべてを拒絶していて、母親である千尋さんにすら甘える姿を見たことはなかった。
そんな祐太の態度に納得できなかった私はある日、千尋さんが出かけたのを見計らって、祐太を問いただした。私のなにが気に入らないのかと。
祐太は拒絶した目のまま、静かに答えた。
「お前は、俺にウソをついてる。ウソつきはきらいだ」
「なに言ってるの? 私はウソなんか……」
「じゃあ、どうして泣かないの?」
私は言葉を失った。
今まで私を支えていたなにかが、大きく揺れた気がした。
「べ、別に……泣きたくなんか……」
「ウソ、俺にはわかる。お前、いつもニコニコしてるけど、わらってない」
「え……?」
「うまく言えないけど、顔はわらってるのに、なんか悲しそう」
その時、私はわかった。
私は知らぬ間に、心を閉ざしてたんだ。
お母さんがいなくなって、つらくなかったんじゃない、つらくないふりをしてただけだったんだ。
この気持ちをさらけ出せる相手がいなくて、自分の中にしまい込んでただけだったんだ。
気付けば、私は祐太に抱きついて泣いていた。
自分のつらい気持ちに気付いてくれていたことが嬉しくて、お母さんにもう会えないことが悲しくて。
千尋さんが帰ってくるまで、祐太に抱きついたまま、ずっと泣き続けた。
その日から、祐太は私のお兄ちゃんになった。
祐太は私には、拒絶するような目をしなくなったし、私も、祐太の前では無理に笑うことをしなくなった。
その後、祐太が本当に私のお兄ちゃんになって、私も自然に笑えるようになったし、祐太も最初の頃みたいな目はしなくなった。
だからもうあんな目をして欲しくない。
「とにかく、話してみよう」
私はポットとカップ、クッキーと紅茶葉パックをお盆に乗せて、二階ああがろうとした。
窓の外に、政人さんを見つけるまでは。
「……なんの用ですか? 他人の家の庭に入り込むなんて、通報されても知りませんよ」
「いや、なんのことはない。私は祐太の置いていった鞄を返しにきただけだ」
窓越しの政人は、お兄ちゃんのスクールバックを胸の位置に掲げた。
「玄関にまわってください。チェーンがないと不安です」
政人は「わかった」と返しつつも、わずかに口角を上げて苦笑した。
玄関に向かい、扉を開けると、待ち構えていたかのように、政人が顔を覗かせた。バックだけ中にいれるよう注文すると「ずいぶん警戒されてるな」と、また苦笑された。
「当然です。兄にあんな目をさせる人を、信用なんてできません」
政人はハハハと微笑んだ。厳しい顔をしているわりに、よく笑う人だ。
「祐太はずいぶん慕われているな」
「そうですね、理想の兄ですから。それで、用は済みましたか?」
「いや、まだだ」
私が露骨に怪訝な顔をすると、政人はまた苦笑しつつもバックを私に渡した後、茶封筒を差し出してきた。
「祐太に渡しておいてくれないか。中身は通帳だ、私立文系の大学なら4年間通えるくらいの金額が入ってる。あいつがいなくなってから、必死で働いて稼いだ金だ」
ふざけるな。そう思った。お金を払えばなかったことになるほど、単純な問題じゃない。
私の思いが伝わったのか、それとも顔に出ていたのか、政人は眼鏡のレンズ越しの目を伏せた。
「もちろん、こんなもので許してもらおうなどと考えてはいない。こんなものはただの自己満足だ。それでも、渡したいんだ」
伏せていた目がふいに上がり、私の目をまっすぐ見つめた。
「頼む、渡しておいてくれ。金輪際、祐太にも、千尋にも、もちろん君にも、会わないと誓うから」
私は返事の代わりに、そっと手を伸ばした。
茶封筒が、少し前に差し出される、私の手が伸びていき、しっかりと掴んだ。
――政人の手首を。
「お兄ちゃんは理系です。そんなことも知らないんですか?」
政人は突然のことに茫然としていた。
厳しい顔をしていた人が呆ける様に、ついクスッと笑ってしまった。
「お金だけ渡して逃げる気ですか?」
「しかし、祐太はもう私なんかに会いたくは……」
「なら最初から、お金だけ送ればいいでしょう?」
私は手首を握る手に力を込めた。
「お兄ちゃんに、直接謝っていってもらいます!」




