レコーディング
それからの一ヶ月は怒濤だった。
神崎の曲作りは思ったよりも遙かに早く仕上がり、その曲数は普通にアルバムを作るに十分なものだった。
都合8曲もの楽譜が早々に杏香の元に届けられた。どの曲も間違いなく売れると思えるもので、これを一度にアルバムとして出すのは贅沢すぎると横田が止めに入るぐらいだったが、神崎はがんとして譲らない。
贅沢とか売れ行きとか俺の知ったことか、ととんでもない俺様ぶりで、最後は、歌いたいもの、歌わせたいものを歌って何が悪いと居直る始末である。
ビッグヒットを約束されたアルバムは最速で仕上がりつつあった。
「ここ、おかしいです」
憮然として杏香が言う。
ああ…やっぱりか…と神崎は舌を打つ。今までこんなに不満そうに言われたことはなかった。いや、正確に言うとこんなに噛みついてくる歌い手はいなかった。
ふてくされたようにスタジオに現れる杏香は、時折楽譜を見て眉をひそめる。
新人はおろか、ベテランのヒット歌手でも神崎の曲に文句をつける者などいなかったのに、この歌姫は平気だ。しかもそれが、神崎本人がほんの一ミクロンほど妥協した箇所に限って…と来れば、褒めていいのかけなしていいのかもうわからない。
『海の翳り』と名付けられたあの最初の曲の引っかかりを、即座に直してしまった彼女である。今回の曲作りに関してもすんなりとはいくまいと覚悟はしていた。
それでも、あっけなくあらを探され、しかも「こうすれば?」と簡単に歌われて、それが神崎の目指すところにぴたっと嵌るということが度重なれば、無敵の神崎怜司といえども落ち込みそうになる。
そして同時に、この才能を埋もれさせずに済んでよかったと安堵するのである。
横田は、そんな二人のレコーディングを目の当たりにして、これまた驚愕している。
曲の仕上がりが早いことは予想の範囲内だった。ただ、それを歌うとなったら、慣れない杏香には大変なことだろう。相当の時間を要するに違いないと思っていた。
プロ中のプロというべき神崎に徹底的にだめ出しされて、泣いて帰る日が続くのではないか…と心配すらしたのである。
ところがどっこい、いざ始まってみると、伊沢杏香という女は全く図太い性格で、神崎怜司など取るに足らないと言わんばかりの態度。逆に彼の曲にだめ出しを始めるほどだった。 でたらめを言っているわけではない。彼女の指摘するとおりに曲のほんの一部をいじる。そ れだけでその曲は以前より遙かに滑らかに耳に入ってくるようになる。
例えば、音符の長さを、あるいはシャープの位置を、わずかにずらす。それだけのことなのだ。それだけのことなのに…。
「あれは一種の天才なんだろうな…」
ヘッドフォンをつけてマイクに向かって杏香が歌っている。その曲はついさっき神崎が書き上げたばかりの曲だ。
レコーディングの最中にふと思いついたフレーズを書き留めた曲を、杏香が拾った。
『これにしましょう』と、既にできあがっているうちの一曲をさっさと捨てた。書き殴りの楽譜を、二、三度自分で弾いてみて、音を確かめたあと歌い始める。
神崎本人ですらまだ固めきれていない曲のイメージを、杏香は目に見えるほど明確に歌い上げてしまう。
どうやったらそんなことが可能なのか凡人には全く解らない。というか、杏香本人にもきっと解っていない。だからそれは天性のもの、すなわち天才というわけである。
「ああいう才能を、俺たちは予算計算やコピーに使っていたんだな…」
と戸川は床にめり込みそうな声で嘆く。新人発掘センスは結構いい物をもっていると自負していただけにショックは大きかった。
「しょうがないですよ。聞いたこともなかったんですから…」
会社の宴会とかでもカラオケでも一曲も聴いたことがなかった。歌もピアノも…。
弾けるとは聞いていたけれど、ここまでだなんて考えもしなかった。もしも一度でも彼女の歌を聴いていたらとっくにデビューさせていただろう。
杏香の声に神崎の声が被る。この二人のデュオは凄かった。インパクトの強いソロシンガーはデュエットすると我の張り合いの力勝負になることが多いが、杏香と神崎は一切戦わない。片方が押したいときは片方が引く。二人が押さねばならぬ時は全力で押すが、両方が引くことはない。その駆け引きの見事さはまねようとしてまねられるものではなかった。
杏香は神崎の震えるほどの美声を一切恐れずに歌い上げる。一端歌い出した曲が途中で止ることなどなかった。曲のアレンジが完成しさえすれば、一発本番即OKの連発、奇跡のようなレコーディングだった。




