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見つけた歌声

 十年前、形になりそうでならない曲を抱えて神崎怜司は悩んでいた。

 とても美しい旋律が頭に流れ、それを楽譜に落とそうと躍起になっていた高校三年の春。

 頭の中で部分的に聞こえる天使の歌のようなメロディはどうしても一つにつながらず、無理矢理型にはめ込もうとしては暴発して終わる。

 何度も何度も書き直して、未完成なまま弾き直して…。そんな作業をあてどなくやっていた。夜も昼もその曲が頭を離れず、眠りは浅く疲れは深く…。

 あの昼休みも、何度となく曲を弾き直して、まただめだ…と頭を伏せた一瞬で楽譜を風に攫われた。どうせ未完成だ…かまわない、そんな気持ちで後を追うこともしなかった。

 まさにその曲が聞こえてきたのはホームルーム中のことだった。

 神崎怜司のいた教室では、担任教師が一日の課業後の連絡をしていた。窓際の席でぼんやりそれを聞いていた怜司の耳に飛び込んできたのがその曲である。聞いたこともない女性の歌声を載せて…。


 たった一回の演奏だった。

 しかも神崎の教室から音楽室はかなり遠くて、余程耳をそばだてなければ聞き取れないぐらいの声。それを聞き取ったのは彼の耳がきわめて有能だったのと、頭を離れない旋律だったから。

 何度書き直してもすんなりと流れなかった音符は見事にアレンジされて天上の調べとなっていた。しかもその歌声は神崎がまさにこう歌って欲しいと考えていたとおりのイメージを辿る。

 これを歌っているのは誰だ!と気持ちが焦った。ホームルームが終わるやいなや、教室を飛び出し音楽室に走った。だが、そこには誰もおらず、ピアノの前には昼休みに神崎が飛ばしてしまった楽譜がきちんと置かれているだけだった。

 翌日から、謎の声の主を捜した。音楽部関係者ではない。神崎はもう既にそのころ音楽関係の才能を偉観なく発揮していたお陰で、合唱部も吹奏楽部も、軽音楽部からですら、曲のアレンジや構成のアドバイスを求められ、一年生から三年生まで全ての部員の声や演奏を知っていた。一度聞いたら忘れないというのも特筆すべき彼の才能で、当時100人以上いた音楽関係部員を全て把握していたのである。

 そして同じ学年の女生徒の声も概ね解っていた。でも、声の主はその誰でもない。あのピアノ演奏も聴いたことがない。神崎の全く知らない生徒だった。あれだけのテクニックと歌唱力である。すぐに解るはずだと思った。あの才能に合唱部や吹奏楽部が、少なくとも音楽教師が目をつけていないはずがない。

 けれど、どれだけ調べても彼女が誰かは解らなかった。あの声も演奏も二度と聞くことはなかった。

 全校生徒が必ず参加する合唱コンクール。一、二年生の全てのクラスを回り、練習中の声を聞いた。まだハーモニーを構成しきれないバラバラの状態の時は、個人の声が判別しやすい。それでも…彼女を見つけることは出来なかったのである。

 結局、失意のまま卒業を迎えた。彼女の歌声と演奏から書き取った楽譜は素晴らしかった。神崎が書いた曲の中に残されていた耳障りな部分が全て削られ完璧な一曲に仕上がっていた。それなのに、それを歌った人間が見つからない。自分で歌ってみても、他の誰かに歌わせてみても、あの一曲にならない。

 大学を卒業し、作曲家として世に出てからも、あの曲を歌って欲しくて、あの声を探し続けた。もうほとんどライフワークとして一生探し続けるしかないのかもしれない。そう思い始めた矢先に依頼先で出会った女性。

 旅行に出た家族に頼まれて、飼い猫の餌をやりに実家に行った。恩知らずな猫は餌を差し出した手を豪快にひっかいてくれた。あっと思ったときに横田から電話を受け、やむなくそのまま車に乗ったが、痛みはひりひりと浸み、だんだん辛くなった。

 その右手を手当てしてくれたプロモーション会社の事務員。聞けば、ピアノも弾けるらしい。それなら…と伴奏を頼んだ。元々期待などしていなかった。とりあえずイメージだけでも…とせがまれて歌うだけのことだ。

 最悪アカペラでも仕方がないと思ったが、それではあの曲のイメージが半分も伝わらない。ピアノと女性の声というのは二大要素なのだ。それを男の声で歌うことだけでも納得がいかないのに…。それならばにわかでもピアノの音が入った方がましだろう。

 四小節の前奏から入ると宣言して弾き始めた彼女の最初の一小節を聞いただけで、背筋が凍りそうになった。

 彼女の伴奏に自分の声を載せたら今度は凍った背筋を一気に溶かし、沸騰させるような熱が襲ってきた。歌い終えたときにはほぼ確信していた。それを更に確かな物にしたくて、もう一度伴奏を頼み、さらに無理矢理のように歌わせた。

間違いない。あのときの歌声、あのときの演奏だった。十年間探し求めた歌姫。


「だから、この曲は君の物だ」

「楽譜を書いたのはあなたです」

「でも、未完成だった」

「ちが……」

「君が完成させた」

「でも……」

「君が完成させなければ、今でもこの曲は未完成だった」

「そんなことない…」

「そうなんだよ」

 もしかしたら適当に形はつけられたかもしれない。だが、あの天上の調べにはほど遠かっただろう。この曲をこの仕上がりにしたのは紛れもなくこの女性だった。

「君、名前は?」

「伊沢杏香です」

「本当にデビューする気はない?」

「嫌です」

「困ったな…」

「困りません」

 そういって杏香は押し黙った。

 そこに横田と戸川がやってくる。二人が2スタに入ってから既に一時間近く経過していた。

「やはり駄目ですか?」

 恐る恐るといった風情で横田が神崎の顔色を見る。神崎は黙って杏香を見た。

「すみません、お役に立てないみたいです」

 複数の意味を込めて杏香は頭を下げた。神崎はなおも彼女を見つめている。

 絶対に目を合わせまいとする杏香を。そして、彼はとても痛そうな、それでいてひどくすまなそうな目をした。

「悪く思うな」

 それが自分に向けられた言葉だと気付いたときには遅かった。神崎はポケットからボイスレコーダーを取り出していた。何事かと見守る横田と戸川の前で再生ボタンを押す。

「やめて!!」

 ボイスレコーダーを奪おうとダッシュした杏香を軽くかわし、更に音量を最大にした。レコーダーから流れ出す杏香の歌声と演奏。

「いつの間に…」

 二度目の演奏で確信を持った神崎は、ポケットの中で、常に持ち歩いているボイスレコーダーの録音スイッチを押したのだ。高機能のボイスレコーダーは彼女の歌声をしっかり録音していた。


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