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崩れ始める日常

「とりあえず一度弾いてみて」

 グランドピアノの横に立って神崎が簡単に言う。もういいや…と杏香も腹をくくる。どうせやらねばならぬのならさっさと終わらせてしまおう。

「発声練習いりますか?」

 神崎が普段どの程度歌っているのか解らない。もしも日常的に発声していないなら、この曲の音域はかなり辛い。

「いや…いらない」

 声帯までは引っかかれなかったらしい。

「じゃあ、もういきなりで良いです。前奏4小節ではいりますから」

 言うなり、杏香は演奏を始めた。

 曲としては決して複雑ではない、ただ美しくて物悲しいだけの曲をなめらかに奏でた。耳に入ってくる神崎怜司のまだほとんど聞いた人がいない歌声に殴られたようなショックを受けながら…。

 とりあえず一番だけ…と思っていたのに、あまりの美声に、もっとずっと聞いていたくて弾き続け、最後まで止められなかった。

 自分の弾くピアノの音と彼の声が重なって作り出す調べはあまりにも美しくて震えてしまいそうだった。

 最後の一音を叩き終わり、その余韻が消えても、杏香はしばらく呆然としていた。

 美声の主をそっと伺う。あちらはあちらで何故か色を失っている。そんなに下手だったんだろうか…。人前で弾いたことがないから自分の演奏を評価されたこともなかった。だから駄目だと言ったじゃない…。

 杏香はそっとピアノを閉じて立ち上がった。

「ちょっと待て」

 2スタを出ようとした杏香を神崎が止めた。

「すみません。お気に召さなかったみたいで…」

 頭を下げてドアを開けかけた手をまたつかまれてピアノの前に連れ戻された。神崎が乱暴にピアノを開けて楽譜をセットする。

「もう一度弾いて」

「何度弾いても同じですけど…」

「いいから!」


 怒鳴るように言われて、仕方なくもう一度頭からその曲を弾いた。

 神崎は今度は歌うことなく、ピアノに背を向けたまま目を閉じて聞いている。長さとしては五分少々の曲が永遠に終わらないような気がした。

 それでも何とか弾き終わり、振り返って神崎を見た。彼は振りむきもしないままに、さらに注文をつける。

「歌えるだろう?」

「無理です!!」

 私は歌手じゃないし、例えそうだとしてもこの人の前で歌うなんて出来ない。

「無理なはずない!歌えるはずだ!!」

 ああもう私はいったい何に巻き込まれているの!?誰かなんかおかしな召還かけたんじゃないでしょうね!と、ありもしない異空間通路を探す。

 滑った覚えも墜ちた覚えもないのに召還もくそもあるはずがない。

「頼む。歌ってくれ!」

 絶対頼んでない口調でいう神崎。命令にしか聞こえない…。

 それでも杏香は歌った。あきらめたというよりも、その歌を歌いたかったから…。

 十年前に一度だけ歌った歌は今でも忘れられない。他人のオリジナル曲だと解っていたから勝手に弾いたり歌ったりすることは出来なかった。でも、今は、その作者が許可している。それならいい。

 頭の中で何度も歌った曲。一度だけしか見ていないのに、歌詞も曲もすっかり頭に入っている。だから、何の苦もなく弾き語りができた。歌うことは好きだ。ピアノを弾くことと同じぐらいに…。それは十年前から少しも変わっていなかった。


「君、海碧学園にいたことあるだろう?」


 聞き終わって、大きなため息を一つついた後、神崎怜司は言った。転校する前に杏香がいた学校だ。図書館に続く渡り廊下で拾った楽譜を一度だけ弾いて後にした学校。

「二ヶ月だけ」

「二ヶ月?」

「入学してすぐに父親が転勤になって…」

「転校したのか?」

「はい。」

「転校する前に放課後、音楽室で…」


 ばれたんだ…と杏香は項垂れた。拾った他人のオリジナル曲を勝手に弾き語ったというのはどういう罪になるんだろう…。

「すみません。渡り廊下で楽譜を拾って…昼休みから聞こえてたあんまりきれいな曲だったから…」

「それで弾いてみたのか…」

「本当にごめんなさい。でも、あのときだけです。楽譜もちゃんと返したし、あれ以後弾いたり歌ったりしてません!!」

「転校したのはいつ?」

「その日です」

「え…?」

「間違いなく『弾き逃げ』です」

「まったく…俺がどれだけ…」

 と、神崎は自嘲めいた笑いたっぷりに杏香を見た。そう、上から下まで舐めるように。

「訴えるとか…?」

「何の罪で?」

「なんだろう…著作権侵害…かな?」

「私的利用だろう。しかもたった一度だけの」

「ですよね」

 とりあえず、訴訟沙汰にはならなそうだ…と杏香が安心しかけた矢先、とんでもない言葉が飛んできた。

「この歌、君にやろう」

「はい????」

 くれる物なら何でももらう、がポリシーの杏香だったが、さすがに曲を、しかも市場価値無限大の神崎怜司の曲を、はいそうですかと受け取るわけにはいかない。

「意味がわかりません」

「簡単だ。この曲、君が歌え」

「さらにわかりません」

「悪い頭だな」

「さすがに失礼です」

 何でそんなこと言われなくてはならないんだ。そもそもそんなことぐらいちゃんと自覚している。

 私の頭は悪い。成績は悪くはなかったが、根本的になにかを間違えているとよく言われる。だからこそ真面目に生きているんだ。そうでなければとっくに世界征服とか企んでるわよ!と怒り心頭である。

「この曲を、君の会社と俺のプロモートで、君が歌って売り出せ」

「えええええええ!!!!それありえない!!!」

 要するに、杏香にデビューしろと言っているわけだ。何が哀しくて二十六才にもなって

歌手デビューしなきゃならないのだ。しかも、神崎プロデュースとか…やっぱり召還されてるかも…。

「何でそんな話になるのかわかりません!」

「デビューに興味はない?」

「全然ありません!必要要件もありません!体力も根性も皆無です」

 あと、若さとビジュアルも!と足すべきだっただろうか…。

「なるほど、芸能人が体力と根性勝負だってことは知ってるんだな」

 当たり前だろう。弱小とはいえ、部門違いとはいえ、プロモーション会社の社員である。

 凄いスケジュールで走る回る芸能人をどれだけ見ていると思っているんだ。彼らの日常はそれはもう大変だ。眠る時間すらほとんどなしに、今日はレコーディング、明日は営業、その次はバラエティ出演…日替わりならともかく、ひどいときは一日でその全てをこなさねばならぬ日もある。とてもじゃないけれど杏香には無理だ。

「真面目な話をする」

 と神崎はそれまでのからかうような口調をがらりと変えた。

「なんですか?」

 今度はどんな作戦だ…と杏香は怖じ気づく。

「この曲を完成させたのは君だ」



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