甲に傷持つ男
「どうされたんですか!?」
戸川の大きな声が総務課まで響いてきた。
何事かとそちらを伺えば、右手に大きなハンカチを当てた男が立っていた。なるほどあれが神崎怜司、確かに凄いビジュアル系だ、と杏香は感心する。
何で自分でステージに立たないのかさっぱり解らない。きれいな顔なんだからみんなに見てもらえばいいのに…というか、もったいないからみんなで見たい。
「ちょっと油断した…」
油断して誰かに襲われたとでも言うのだろうか。どんなバトルゲームよ…と思いながら救急箱を探す。伊沢さん、と呼ばれたときにはもう見つけていた。
「今行きます」
新しいタオルを熱いお湯で絞って一緒に持っていく。どんな怪我か知らないけれどとりあえず一度拭った方がいいかもしれない。
「とりあえず、座っていただけますか?」
190センチ近いだろう身長で見下ろされながら傷の手当てはしづらい。
事務所の椅子に座らせて傷を覆っていたハンカチをそっとどける。深く長い傷が三本…その傷を見た瞬間、杏香はまじまじと神崎怜司を見た。
「確かに…油断したみたいですね」
こみ上げる笑いを止めるのに必死だった。杏香にはよくわかっている。これは猫の爪痕だ。どんな悪さをして引っかかれたのやら…。熱いタオルでさっと傷を拭い、消毒した後、化膿止めを塗ってガーゼを当てた。包帯はなかったので紙絆創膏で固定する。
あの神崎怜司が猫に引っかかれて負傷だなんて、人に聞かれたら沽券に関わるだろう。だが、一つだけ気になることがあった。小声で確認する。
「怪我されたの家の中ですよね?」
質問の意図を測りかねたのか、彼は杏香を怪訝そうに見た。
「感染症とか…」
もしもこの怪我の加害者が野良猫だったら質が悪い。
「ああ、大丈夫だ。電話をもらったときは実家にいた」
それなら飼い猫だ。万全とは言えないが野良よりは遙かにましだ。滅多に会わない実家の猫をからかって逆襲にあったのだろう。
「じゃあ平気でしょう。でも、変わったことがあったら病院行かれた方がいいですよ」
「わかった。ありがとう」
どういたしまして、と使った物を片づける。そして問題は感染症ではないことに気が
付いた。横田があわてている。
「弾けるんですか?ピアノ…」
こんな傷はすぐに治る。でも、とりあえず今の今はかなり痛いようだし、動かし辛くもありそうだ。
「今はちょっと勘弁して欲しい感じだな」
そうでしょうねえ…猫の傷って結構痛いんだよね…と昔実家で飼っていた猫を思い出す。 ひりひりと神経に障るような痛みである。
「横田君、弾けるだろう?」
と戸川が言うが、彼は音大卒といってもはサックス専攻である。
弾いて弾けなくもないのだろうが、神崎の前で弾きたくなどないだろう。誰だって嫌だ。横田は思わず目を泳がせて、救急箱を片づけて手を洗いに行こうとした杏香に目をとめた。
「伊沢さん」
「パス2です」
「いきなり2なの!?」
横田がずっこける。
「だって横田さんがパスしたばっかりじゃないですか」
「そりゃそうだけどね。伊沢さん、弾けるよね?」
その場の全員の目が杏香を見た。なんていづらい雰囲気…。
そういえば昔、横田に、小さい頃からピアノをやっていたことを言ったことがある。こんなことなら言わなければよかった。
「君、どれぐらいやってたの?」
猫に引っかかれた男前が質問してくる。
今もやってます…としか言いようがない。学生の頃ほどではないけれど、今でも家に帰れば、電子ピアノにヘッドフォンとはいえ、ハノンは欠かさないし、時間があれば好きな曲の二、三曲は流し弾く。
「初見でも弾けるよね?」
畳みかけるように横田が言う。
「あんまり沢山の人が見ないほうがいい曲なんでしょう?」
と社外秘と判が押された楽譜を思い浮かべながら後ずさりする。
「君は口も堅いし、責任感もある。だから大丈夫だ。第一背に腹は代えられない」
「いや、横田さんはそうでも…」
縋るように神崎を見ると、彼は自分の手を握ったり開いたりして顔をしかめている。
「やっぱり、今日は無理だ。もし君が弾けるならお願いしたい」
この期に及んで断ることなど不可能だった。ああもう…どこかにもう一匹猫はいないのかしら。そうしたら私の手もひっかいてもらうのに…。
「仕方ないです。へたくそでも文句言わないでくださいね」
覚悟を決めてそういうと、杏香は横田の手にあった楽譜を攫った。
「初見はあんまりなので、せめて十分下さい」
「じゃあその十分、俺も付合うよ」
あろうことか神崎御大がそんなことを言った。
「い…いいです!拒否です!」
「拒否じゃないだろう。多少はレクチャーしないと」
「ううう…」
そう言うと、神崎御大は猫に引っかかれていない方の手で杏香を2スタに引っ張っていった。
「準備できたら呼んで下さい」
そんな二人を横田と戸川が心配そうに見送った。




