続く道のり
「やっていけそうか?」
神崎はそんなこと聞く。止めさせてくれる気など全くないくせに…。
「『海の翳り』でもらったお金、全額寄付したらチャリティーツアーやらずに済みますか?」
「無理だろうな。金額の問題じゃないってお前が言ったわけだし」
「そうですね。じゃあ終わるまで頑張るしかないですね」
「終わったらやめるのか?」
途端に厳しくなる眼差しから目を逸らす。お前は歌いたくないのか、と問いつめられるようで息が詰まりそうになる。
歌うことは好きだ、と杏香は言った。歌うことも弾くことも好きなのだと。それなのに何故この世界に背を向けようとするのか。
才能を与えられ、歌うことを許され、しかも求められる存在というのはそんなにいるものではない。神崎自身はその一人であると自負しているが、それ以上の存在として杏香を認めている。だが彼女はそれをよしとしない。
「ずっと一人で歌って、一人で弾いて、それで十分満足してました。私が歌うことで誰も傷つけず、不快にもさせず…。私にはそれで十分です」
自分の歌う姿を、自分の声を、封じたい相手が居る。そのことに気付いてから、杏香はずっと臆病になった。誰かに嫌がられるなら誰にも聞かれずに歌えばいい。
自分は歌いたいだけなのだ。誰かに聞いて欲しい訳じゃない。歌うことの心地よさは観客がいなくても成り立つ。そしてそれは杏香のささやかで平凡な暮らしを保証してくれる。
「聴いて欲しいという気持ちがないのか…」
神崎は唖然とした。ほとんどの歌い手は、いや奏者も含めて、自分の作る音楽を誰かに聴いて欲しいと願う。自分の声や音を誰かに認めて欲しいから歌うのだ。
それによって得る名声や金への欲を削いだとしても、認められたいという思いは消せない。それなのに、伊沢杏香は違うのだという。私はただ歌いたいだけなのだ、ただ弾きたいだけなのだ、と。
その純粋な思いこそが彼女にこの才能を与えた根拠なのかと思う。何も求めず、誰からも認められなくても、彼女は歌う。だからこそ、観客は彼女に引きつけられる。髪の毛一筋ほどの顕示欲も交えない純粋な音楽を求めて…。
「神崎さんには申し訳ないと思う。横田さんにも、戸川社長にも…。でも、私は歌いたいときに、歌いたい歌を、歌いたいように歌う自由を失いたくないんです。売れ行きとか動員数とかそんなものに振り回されたくありません。外を自由に歩いて、気持ちの良い風に当たったら自然に歌い出したい。その度に周りを人に囲まれる生活なんて考えたくもありません」
それは伊沢杏香の本心に違いない。歌わない限り、誰も彼女に注目しない。その暮らしをずっと愛してきたのだ。だが、メディアに露出してしまえばそんな暮らしは出来ない。そして彼女は勘違いしている。まだ間に合うと思っている。チャリティーツアーが終われば、そんな暮らしにまた戻れるのだと…。
「手遅れだ」
非情にも神崎は言い切った。
「日本中の人間がお前の声を知っている。そしてお前の姿を見た。チャリティーをやれば カメラはお前を追い続ける。お前が行方史枝であることはもう隠せない。今まであった自由はもうない」
それを壊したのは紛れもなく自分だ。彼女の声を、姿を、世界に晒したのは神崎怜司だ。 それでも、彼女の思いを聞いても、悔いる気持ちは湧かなかった。伊沢杏香の声は独り占めしていいものではないと確信している。メディアに載せて、世界の隅々まで届けるべき光である。
彼女が歌うことで傷つく人間がいると杏香は思っているらしいが、そんなものはほんの一握りにすぎない。その何百万倍もの人間が、彼女の歌を求めそれに癒されるだろう。その癒しを奪う権利はない。それはいわば杏香に与えられた使命ですらある。
「もう、お前は歌うしかない。ただ、お前が歌う自由だけは俺が守る。何があっても、どんな圧力からも、俺が守ってやる。歌いたくないと思う場面で歌わずに済むよう、歌いたくない歌を歌わずに済むように最大限の努力をする。」
「神崎さん…」
「だから、おまえの歌を聴く権利を奪わないでくれ。俺の歌を歌ってくれ」
杏香の歌が、歌いたいために歌う歌なら、神崎の歌は、歌って欲しいから作る歌だ。歌い手という存在によって、世界に届けるための歌。自分がこれまで歌わずに来た理由はそれだった。自分が歌うよりも誰かに歌って欲しい。
けれど、伊沢杏香という歌い手は、誰かのための歌を、神崎のための歌に変えた。神崎自身のための歌も存在しうるのだと彼に教えた。
自分のための歌を歌うことが、こんなに心地よいとは思わなかった。さらに、今までメインで書いてきたデュオのための曲を自分と杏香で歌うときに生み出される世界に魅了され、その世界から抜けられなくなった。二人で作る世界は決して独りよがりなものではなく、その価値はミリオンセラーという結果で証明された。
今なお『海の翳り』以後の神崎の曲はオリコン上位を独占し続けている。『誰かにための歌』は『杏香のための歌』になった。自分のために書いた曲ですら、杏香のアレンジなしには完成したと感じられない。彼女と居ると自分の未熟を暴露される思いがする。それでもなお、伊沢杏香とともにありたい。それが神崎怜司の偽らざる気持ちだった。
「神崎さんの書く曲は、神崎さんが思っているよりずっといい…。」
何が言いたいんだ、と思うようなことを杏香は言った。腕組みをしたまま聞く神崎に、更に続ける。
「私が歌わなくても、今までずっと売れてきました。私が変にいじらなくても。
もしかしたら『海の翳り』だって、元のままでよかったのかもしれないし、他の人が歌っても同じぐらい売れたでしょう。神崎さん以外が書く曲であんなに売れ続けるものなんてありません。曲さえ良ければ歌い手なんて関係ないんです」
彼は日本音楽界の天才という名を恣にしてきた男である。ぽっと出の自分になど構う必要もない。神崎怜司は神崎怜司だけで十分だ。
「あ…でも、神崎さんが神崎さんの曲を歌うときは特別です。作者よりも曲を理解する歌手なんていませんから。しかも神崎さんとびきり上手いし、声いいし」
と慌てて付け足した杏香に薄く笑う神崎。
「フォローありがとう。でも、お前以上に俺の歌を歌える奴はいない。お前は俺よりも俺の曲をわかってる」
彼女の声に載って初めて、自分が描きたかったのはこれなのだ、と思わされることが何度もあった。意識の裏に隠されて出てこない思いを杏香の声が形にする。その奇跡を一度知ったらもうありきたりな歌い手など考えられない。
「売れるとか売れないとかは置いておいても、俺はお前に歌って欲しいし、お前と歌いたい。だから、それもこれもぜんぶまとめて『悪く思うな』だ」
お前の声を世に出したことも、その姿にスポットライトを当てたことも、この先自分のそばに置き続けることも、歌うことを止めさせないことも、全てを許して欲しい。そんな風にしか言いようがなかった。
「悪く思うに決まってます」
「だから謝ってる」
「謝ってるようになんか聞こえません、絶対」
「そうかな」
「そうです」
それを最後に杏香は部屋を出て行った。もうそれ以上の遣り取りは必要なかった。神崎は静かに微笑む。それでいい。俺のそばで歌え、それ以外の道など考えなくていい。
疲れた…。
障子で仕切られた部屋に入り杏香は布団に体を投げ出す。障子の向こうからは横田のいびきがまだ聞こえてくる。
あのいびきと一晩付合うのか…というか、あの横で眠れるのか、神崎は…。と少し気の毒になる。人の数倍も繊細な彼の耳が耐えられるだろうか…。
神崎怜司は罪作りだ。最初から罪作りだったのだが、その罪はどんどん深くなる。
杏香の生活は彼のお陰で一変した。地味な事務員だった自分を歌い手という立場に引っ張り上げ、今度は更にビッグアーティストに仕立てようとしている。
今日は会場からまっすぐこの宿に来たから平気だった。だが明日以降、神崎怜司と行動をともにする限り、どこに行っても周りを人に囲まれる生活になる。神崎怜司にはいつでもスポットライトが当たっているのだから…。
久しぶりに会った彼はやはり彼でしかなかった。神崎怜司はどこにいても神崎怜司だ。常に強い意志を持ち、絶対に曲げない。彼の意志の前では杏香の抵抗など無に等しい。
何より困るのは、何を言っても彼と歌うことも、彼の曲を歌うことも、杏香にとっては楽しいという事実だ。
お前は誰よりも俺の歌を上手く歌う、と彼は言う。だが、その逆も真なり、で、神崎怜司は誰よりも杏香を歌わせる。彼の作る歌は杏香の声を一番魅力的に響かせる。人より遙かに広いと自覚している声域を限界まで引き出され、更にそれは、同じぐらい豊かな声域を持つ神崎の声と合わさって、どこまでも美しいハーモニーを作り出す。
杏香に言わせれば、神崎怜司こそが天才だった。その天才に引きずられて自分はいったいどこに行こうとしているのか。
杏香の人生の地図に、突然書き込まれた新しい道。その行く手に、なにがあるのか。
先を見ようと目を凝らしても、杏香には何も見えなかった。
凝らす目を遮っているのが自分の心の闇なのか、神崎怜司という眩しすぎる光なのか、それすらわからなかった。
(『風に乗った楽譜 第二章』 へ続く)
中途半端なところで区切って申し訳ありません。
連載開始当初のガイドラインの読み込みが甘く、
今になって、今後の展開がR15ではなく
R18相当だと気づきました。
読んで頂いた方には非常に申し訳ありませんが
ここで一端インターバルとし、
以後の部分は第二章として別立てといたします。
(「風に乗った楽譜 第二章」4月12日より)




