リアルクローズの歌姫
神崎は、心地よい酔いを感じながら、何故か申し訳なさそうな顔で、テレビ画面に見入っている杏香を眺めていた。
ピアニストが来ない、と言う知らせが楽屋を走っていたのは知っている。
神崎には関係のない話だったが、他の出演者はどうするのかと気にはなった。青ざめていたリーダーの甲斐という男が、しばらく後に楽譜を抱えて走っていき、ステージ上のピアノの位置をずいぶん脇に下げさせた。
何とか手当が付いたらしいと人ごとながら安心した。乗りかかった船である、最悪、数曲ぐらい自分が弾いてやってもいいと思っていたが…。
急ごしらえのピアニストの姿は見えなかった。ピアノの陰にうまく隠れて、観客からも自分からもほとんど死角に入り込んでいる。衣装もメイクも全く間に合わなかったはずなのでそれも仕方がないことだろう。音さえ出ればいいのだ。急場しのぎである。驚くほど凄腕のピアニストがおあつらえ向きに転がっているはずがない。
そんな神崎の思いは、最初の一曲で飛んだ。
この音は…こんな音を出せるのは…とピアノの前に座る女性に目を凝らす。
「杏香…」
横田がステージ裏を回り込んで、反対側に確認に走った。息を切らせて戻ってくる。
「間違いありません。伊沢さんでした」
「こんなところにいたのか…」
五ヶ月ぶりに見た伊沢杏香は、以前と全く変わらない風で、どうせ初見に違いない聴いたこともないような曲を片っ端から弾き上げている。ピアノに引っ張られて、普段より二割増しの出来になっているだろうマイナー歌手達が、自分たちの声に驚いていた。
そりゃそうだ、今、お前達の伴奏をしているのはあの行方史枝だ。本来なら絶対にお前達の伴奏などしない天下の歌姫だ。せいぜいありがたがっていろ。もう二度とこんな機会はない。あの歌姫は俺の専属だ。俺以外の人間と歌うことも弾くことも許さない。
そんな思考に至って神崎怜司はぎくりとした。なんだこの気違いじみた独占欲は…。
それ以上考えると、辿り着きたくない島に泳ぎ着いてしまいそうで、思考を止める。代わりに行方史枝、いや、伊沢杏香を再び自分の元にたぐり寄せるための作戦を立て始めた。もう二度と行方不明になどさせない。
『碧い大地』を歌い終えた後、杏香を誘い出すために言葉を紡いだ。ゲストライブ会場で話すことなど滅多になかったが、杏香を連れ戻すためなら何でもやる。
子どもたちのためにという名目に逆らえず、歌い出した杏香の声は、観客よりもスタッフよりもまず神崎の心に激震を与えた。
この声だ。この歌い方だ。これが俺の求めて止まない伊沢杏香の歌だ。
ピアノにマイクが届いて、腹をくくった杏香が近づいてくる。アイコンタクトで席を替わる。デュオで歌う曲のうち、彼女が弾くことになっているのは二曲。この場の雰囲気なら当然バラードではなくアップテンポだろう。
四カウントでいきなり弾き出した曲は予想通りで、歌い出しからぴったり声が重なった。 何度歌っても、どこで歌っても、彼女と歌う限りいつもそうなる。感動を与えるはずの歌い手がまず感動させられてしまう。それが伊沢杏香だった。
やられっぱなしにはしない。それは、『海の翳り』のCDを作ると決めたときの遣り取りにも似て、神崎は笑うしかなかった。
杏香は観客達に一万件というノルマを突きつけた。神崎が出した『行方史枝の参加』という条件にさらに数字を載せてしまう。
本人はやらなくて済むように…なんて言っているが、実際は支援者の数を増やしたい、子どもたちの孤独を何とか癒したい、そんな気持ちだろう。
金額としての数字は杏香や神崎たちが稼げる。でも人の数はそれだけでは増やせない。日本中の人たちが自分たちを支えてくれるという確信が、どれだけ孤児達を鼓舞することか。 まだ開催も決まっていないチャリティーでそんな効果まで生み出そうとするなんて、大した玉である。
数字は伸び続ける。チャリティーはほぼ確定だった。
そして伊沢杏香は歌い続ける。この俺と…。その事実がたまらなく嬉しかった。あとはいかにして、彼女を自分のそばに置き続けるか、歌わせ続けるか、であった。
テレビの画面はまた増え続ける数字に戻った。除夜の鐘を映していた数十分の間にも数字は順調に伸びて八千五百を超えた。
「募金金額の途中集計が出ました」
とアナウンサーが叫ぶ。金額は大したことはないだろう。何せほとんどが学生に近い若者達だ。夜中にうろうろするのはそんな年代に決まっている。
ところが手書きでホワイトボードに書き殴られた数字は、思いの外大きかった。
「なんでこんなに…?」
と神崎を振り返っても、彼にだって解らない。アナウンサーの言葉を待つ。
「総合衣料メーカーUから大口の寄付があったようです」
杏香はとっさに自分が着ていたマイクロフリースを思い浮かべた。あれか…。
「今夜のステージで行方史枝さんが着用されていた服のメーカーです」
ミリオンセラーアーティストが自社製品を着てステージに立ったことなどなかったのだろう。一目見て「うちのだ」と喜んだ社長が多額の寄付を振り込んできたという。
「多分、そのフリース、今頃大増産かかってるな。コピーに『あの行方史枝ご愛用の…』って書かれるぞ」
「馬鹿みたい…」
「馬鹿でも何でも、実際に金が入るなら結構なことだ」
「まあそりゃそうだけど…じゃあ次はIとかSのストアブランドで固めようかな」
「どうせなら、もっと高そうなところにしたらどうだ?」
「そんなの珍しくもないでしょ?『着させてやってる』って感じになります。だいたい、神崎さん、いい服着てますけど、そのメーカーから何か言ってきたことありますか?」
「せいぜい、CMにでてくれないか、ぐらいだな」
「でしょう?募金なんてしてくれませんよ」
「なるほどね」
「そういうことです。さて…年も明けたし、横田さんは爆睡、私ももう寝ます」
そういうと杏香は立ち上がった。
「なあ…」
神崎が呼び止める。
「なに?」
「お前、ステージで歌ったの、今日が初めてか?」
「当たり前でしょう」
「上がらなかったのか?」
「どうして?」
不思議そうに聞き返す杏香。仙台ほどの人数ではなかったけれど、今日の福島はそれなりに大きなステージだった。
神崎怜司の出演が決まって最初に予定していた倍以上の広さの会場に変更したのだ。ずぶの素人ならそのステージに立つだけで足が震えるだろう。それなのに杏香は平然と歌い、そして弾いた。
「普通なら緊張でガクブルだぞ」
「そういえばそうかも」
「おまけにお前、伴奏だって予定になかったんだろう?」
「あったらもうちょっとましな格好してましたよ」
「だよな」
「強いて言えば、」
「なんだ」
「伴奏は平気。だって誰もこっちなんて見てないのわかってるし」
「残りは?」
伴奏ピアニストではなく、行方史枝として立ったステージはどうだったのだ、と聞く。
言うべきか、言わざるべきか迷うような顔をしたあと、意を決したように彼女は言った。
「引きずり出した誰かさんに腹が立ってそれどころじゃなかった!」
こんなやり方はないだろう、とずっと憤っていた。その怒りが歌や演奏に影響しないように押さえるので必死だったのだ。
許すまじ神崎怜司!の思いに占領され、緊張している暇なんてなかった。それでも、その神崎怜司と一つの音楽を作ることは、覚えているよりもずっと心地よくて、二人で奏でる音に包み込まれる感覚に酔っていた。
相反する感情の波は杏香を飲み込み、困惑を連れてくる。一発屋に終わらせてくれそうにない男の存在の方が目の前の観客よりもずっと怖かった。




