アクシデント
「大晦日のチャリティーライブ、神崎怜司の出演が決まったんですって!!」
そう叫びながら『空色の屋根』の事務室に駆け込んできたのは、堂園知恵。
主に未就学児童の生活をケアしている職員で、大学を出てすぐにここに就職した二十四才である。
杏香と違って正職員だが、実家が近い。必要に応じて宿直もするが基本は通いだった。
「ほんとですか!?」
事務室にいた職員が総立ちになった。実は『空色の屋根』は公的施設ではない。やはり早くに両親を亡くし、苦労して会社を立ち上げ成功した地元の篤志家が私的に作った施設であるが、その篤志家は既に亡く、景気の悪化もあってどんどん援助が薄くなっていた。
そこに来てこの震災で受け入れねばならない子供が急増。正直火の車である。
園長の野田浩三はあちこち走り回って寄付を募っているが、どこも厳しい状況は変わらず先行きは不安なばかりであった。
そんな施設が東北のあちこちにあって、現状を見かねたNPOが少しでも足しになれば…とチャリティーライブを企画したのだ。だが、大晦日の実施とあって東京から来てくれるというアーティストがなかなかいない。企画倒れかと思った矢先にあの神崎怜司である。色めきだつのは当然だ。
「よくそんな大物引っ張り出せたね!」
野田浩三も興奮している。もう還暦も超えて、日頃から血圧が高いと騒いでいるのに、そんなにテンションを上げちゃまずいだろう…と杏香は心配になる。
「仙台の方のスタッフの伝手だって話ですが、本当によくぞ!ですよね」
知恵が喜んでいるのは、チャリティーがうまくいくだろうという目論みと、生神崎が見られるという期待の両方だろう。
年頃の娘のご多分に漏れず、彼女も神崎怜司に首っ丈である。その騒ぎを聞きつけて、子どもたちも集まってくる。今回のチャリティーライブには『空色の屋根』の子どもたちも手伝いに行くことになっている。ほとんどは会場準備とか掃除とかの軽作業だけれど、もしかしたら生神崎を見られるかもしれない。そんな期待で溢れかえりそうになっている。愛理と紀一に至っては感動で言葉もない。
困っているのは杏香だけだった。
思いは、よりにもよって…神崎怜司かよ…である。例え風評メッカの福島といえども、神崎が出るとなったら近隣から人が押しかける。チャリティーイベントとして集客数が多いのは喜ばしいことである。きっと会場変更もあるだろう。その凄い数の観客に紛れてしまえば、彼の目にとまることはない。そう信じるしかなかった。
「杏香さんってば!」
ぼんやりしていた杏香は知恵が声をかけているのにしばらく気付かなかったらしい。
「ごめん、なんだっけ?」
あわてて返事をする。
「杏香さん、前はプロモーション会社にいたんですよね?イベントとか慣れてるでしょ?」
慣れてるはずがない。私は単なる事務員だったんだから。
「だって私、経理事務員だったんだよ。イベントなんてやったことありません」
「えーでも、ちょっとぐらい解ってるでしょ?」
「ぜんぜん。」
「そういわないで~。裏方手伝ってくれる人足りないんですって」
「裏方?何をやる人?」
「控え室のお世話とかじゃないですか?」
「それなら知恵さん行けばいいでしょ。生神崎見放題かも」
「もちろん私も行きますけど、まだ足りないんです。お願いしますよ」
「じゃあ、チケットのもぎりぐらいなら…」
そこが一番アーティスト達から遠い場所のはずだ。まさかこのイベントで何の手伝いもせず無視を決め込むわけにはいかない。それならば安全地帯確保が一番だ。イベント会場にすら入らずに済むもぎりは杏香に最適だった。
それから半月はチャリティーライブの準備に奔走した。子どもたちも自分たちのためのものだと解っているだけに必死になって手伝ったし、普段の生活においても、なるべく職員に面倒をかけないよう、職員達がイベント準備に時間を取れるよう、最大限の努力で臨んでいた。それはもう涙ぐましいほどで、何とかうまくいきますようにと祈らずにはいられなかった。
それなのに…。
「ピアニストが来られない!?」
企画スタッフの準備室でリーダーの甲斐通史が絶叫した。その声はもぎりをやっていた杏香の耳にまで届いた。もちろん、彼女が大変優秀な耳をしていたからではあるが…。
観客は既に入り始めている。まだ開演には30分近くあったが、この時点でピアニストが来られないとしたら、代打を捜すのは大変だ。なにがあったのだろう…。
「どうしたの?」
出演者控え室にお茶を出しに行って戻ってきた知恵に聞いてみる。
「なんか、仙台からこっちに移動する間に事故ったらしいの。本人に怪我はないみたいだけど車が動かないし、高速道路上だからタクシー拾うわけにも行かないでしょ。今、迎えの車を出したけど、多分間に合わないと思う。やばいよねー」
「え…でも、ピアニストなんていらないでしょ?自分で弾けるじゃない、神崎怜司」
「神崎怜司は良いけど、他にも出演者がいるでしょ?バンドがついていればいいけど、そうじゃない人もいるし…」
「バックバンドの手配してないの?!」
「それがね…」
と知恵は顔色を曇らせる。それだけでわかった。今回出演するのは、神崎を除いてマイナーなアーティストばかりだ。東北にゆかりのあるアーティストといえども、大晦日は特別だ。国民的番組に出ていないとしても、ちょっと名が知れている者なら他局の年越し番組に出演する。そんな状況で、このイベントのバックを引き受けてくれるバンドなどほとんどない。さらに開催地が福島である。「フクシマ」を敬遠するものいるのである。
「それでなんとか、地元のピアニストだけを確保して格好つけて後は音響で…ってわけ」
それはまた…なんと厳しい…その頼みの綱のピアニストが来ないとは、運も尽きた。
「どうするんだろう…」
「リーダー真っ青になってるわ。出演者はもう揃ってるし、お客さんも入っているし…」
なんてこったい…せっかくみんなで頑張ってきたのに…ここに来てこんなアクシデントなんて…。
「知恵さん、ちょっとここ頼める?」
「いいけど…?」
怪訝そうにしている知恵にもぎりを頼んで、杏香は企画スタッフ準備室に行った。
「今日、伴奏が必要なのは何人ですか?」
頭を抱えている甲斐を捕まえて確認する。
「出演者は十組。グループバンドが三組、神崎怜司は自分で弾けるから…六人かな。
メジャーな人はほとんどいない。だから…」
余計に質が悪い。メジャーなアーティストならば耳にする機会も多くて、どこかで楽譜を拾って弾いたことがある曲もあるだろう。だが、中途半端な売れ方ではそれも望めない。
「ピアニスト用の楽譜は?」
「事故ったピアニストには渡してあるけど、ここにはない。あっても即弾きは無理だ」
「どこかにコピーありませんか?」
「仙台にはあるかも」
「下さい!」
「どうする気だ?」
「私が弾きます」
「え?!」
「いいから急いで!!!」
甲斐は弾かれたように準備室から走り去り、十分で戻ってきた。
「ファックスで送ってもらってる、これでいい?」
普通紙ファックスだったのがせめてもの救いだった。なんとか読み取ることが出来る。 六人分の楽譜は相当な枚数ではあったが、とりあえず最初の一人分が手元に来た。残りは今も受信中らしい。自転車操業もいいところだった。
「伊沢さん、ピアノ経験あるの?」
もぎりを終わって入ってきた知恵が驚いている。いろいろ説明している時間が惜しい。とりあえず残りの楽譜が届き次第、届けてくれるように頼んで、杏香はリハーサル用の部屋に走った。
既にリハーサルは完了して、誰もいない。ピアノを開けて指を慣らす。
大丈夫だ…ちゃんと動く。六曲の楽譜が全て届き、流し弾きが終わったのが、開演五分前。杏香はそこで初めて自分の服装に気がいった。
「あーこれ酷いな…」
動きやすいようにと選んだリアルクローズのジーンズとフリース。この格好でコンサートってちょっと例がないかも…。
でも仕方ない。正規のピアニストが来ないことが解った時点で、ピアノは思いっきりステージの袖に寄せてもらった。出演者からも、観客からもほとんど死角になるように…。だから、杏香の姿に目をとめる人間はそんなにいないだろう。
違う意味で、目にとめられて一番怖いのは、言うまでもなく神崎怜司だが、幸い彼が歌うとき、杏香は引っ込んでいられる。だから大丈夫だ…。そうでなければならない。
それでも舞台裏で出くわしても嫌なので、杏香はスタッフ用のキャップを深く被り、コンタクトレンズ使用者の知恵が埃よけに使っているだて眼鏡を借りた。
大丈夫、ばれやしない、と何度も自分に言い聞かせて…。




