はじまり
その曲を初めて聞いたのは十年も昔のことだった。
誰が弾いているかも知らず、誰が作ったかも知らず昼休み、図書室の窓際の机に突っ伏した耳に滑り込むように入ってきた美しい曲。
あまりにも切ない調べは、その日の心境そのものだった。
伊沢杏香はその日を限りに転校することになっていた。
父が海外赴任となり、ドイツのインターナショナルスクールに転校するのだ。
行ったこともない国での暮らしがもうすぐ始まる。
私はそこでちゃんとなじめるのだろうか…。
ぼんやりと聞いているうちに曲は終わり、昼休みの終わりを告げるチャイムが聞こえた。
杏香は立ち上がり、二三度頭を振って図書室をでる。渡り廊下を通って教室へと戻る途中、目の前に一枚の紙がひらひらと舞い落ちてきた。
反射的にキャッチした紙は五線譜。
多分二階の音楽室から風に乗ってきたのだろう。けれど、今はそれを返しに行く時間がない。仕方なく杏香は楽譜を持ったまま教室に向かった。
放課後にでも返しに行けばいい。
六時限を終えて、最後のホームルームで転校挨拶をした。
まだ入学して間もないから別れを惜しむような友人もなく形通りの挨拶で全てが終わる。
机やロッカーに忘れ物がないか確認し、教室を出る。下駄箱に向かいかけて、昼休みに拾った楽譜を思い出した。
ノートの間に挟んだ楽譜を取り出して読んでみる。昼休みに聴いた曲だとすぐに気付いた。三才からピアノを習っていたお陰で曲想を読むことは簡単だったのだ。
見るからに手書きで、まだ清書もされていない楽譜は明らかに誰かのオリジナルで、それなのに高すぎる完成度は作者の類い希なる才能を示していた。これを描いたのはいったい誰だろう…杏香はその人に会ってみたい気がした。
けれど自分にはもうそんな時間もない。
音楽室は無人だった。もうしばらくすれば合唱部やら吹奏楽部の面々が出入りするのかもしれないけれど、今はまだ誰もいない。
静かな音楽室に入り、一番目につきやすそうなピアノの譜面代にその楽譜を置いた。開けっ放しになっているピアノ。
ちょっとだけ…。
杏香はおもむろにピアノの前に座り、その曲を弾き出した。
初見の楽譜を引くぐらいの腕はある。完成していない曲らしく、メロディラインは酷く美しいけれど単純で引きやすい。
ただ、ほんの数カ所、耳に引っかかる部分があった。私ならここはこう変えるのに…と楽譜にない音を織り交ぜていく。
軽く流してみてそのアレンジに満足した杏香は、最後に通しで弾いてみた。どうせこれでこの学校とはお別れだ、と思えば、楽譜にあった歌詞を歌うことも平気だった。
もともと歌うことは嫌いじゃない。声域もかなりあるし音程も
しっかりしている。でも人前で歌うことなどなかった。小中高と通じて、杏香がピアノを弾けるとか歌が上手いとか知っている級友など一人もいないだろう。
最初で最後の伊沢杏香単独ライブ。自分の声とその曲がまるで誂えたようにぴったりでとても気持ちがよかった。
いい思い出をありがとう…。
杏香は見ず知らずの作曲家に礼を言って音楽室を後にした。




