最終話 人生
「ケイが死んでいたことを、今の今まで忘れていたなんて……!」
寒空の下、僕は嗚咽を繰り返す。そう、あの時以来、全てを思い出すことを拒絶した僕は、ただひたすら海辺を求めて彷徨っていたのだ。
そして、僕の真の名前、D-5092が意味する病名を、先程のヴィッツ(あれもまぼろしだが)の中で、僕は天啓のようにひらめいた。
そのヒントは、幻覚の様々な場面にちりばめられていた。
失われた記憶、ぎこちなくのろのろした動き、そして妖精の如き金髪の美少女……。
Dementia with Lewy Bodies、つまりレビー小体型認知症こそが、僕の疾患名。
僕は、10代の若さで亡くなり、死後解剖された、ロシアの少女のクローンだったのだ。
ネズミは、僕の深層心理が生み出した、もう一人の僕だ。
おそらく僕は、ロシア人少女の症例をどこかで読んだが、忘却の彼方に押しやり、記憶の底に封印したのだろう。
実際認知症症状のおかげで、忘れてしまったのかもしれない。
それを掘り起こし、僕に思い出させる為、彼女というキャラクターが造られる。
彼女を哀れに思う僕の気持ちは、そのまま自分自身に対するものだった。
「ネズミと小鳥とソーセージ」も、きっと、以前読んだことがあったのだろう。
ケイとの共同生活に憧れていた僕は、ケイを小鳥に見立てて、ネズミと僕を一緒に住まわせたのだ。楓の名字が十姉妹なのはその為だ。
そして、3人の生活に絡んでくる余所者のカラスは矢田だろう。
フルネームが矢田香良洲なのは、日本神話に出てくる八咫烏から無意識に付けたに違いない。
悪食の不吉な鳥は、ババア好きの怪しげな鳥の巣のような髪型の青年へと脳内変換され、しかし神話のように、主人公たる僕たちを密かに助けてくれた。
そしてドーテーくんの役柄は、さしずめソーセージを襲った犬といったところか。
冷静に考えれば、ケイを助けた人がたまたま実力者の息子の県議会議員だったり、僕がこの北の果てで、そこで医者になった彼女と巡り合ったり、ドーテーくんの実家がたまたまここだったなんて、あまりにも出来すぎている。
だが、幻覚の中にいたせいか、僕はそれらをちっともご都合主義的だとは考えなかった。
これもストーリーをうまく繋がらせる為、脚本家であり演出家であり監督である、僕の脳の深いところが辻褄を必死に合せたのだろう。ご苦労様なこった。
全ては、僕が再びケイたる楓と再会し、蜜月を過ごすために僕の深層意識が創り上げた大いなる幻覚だった。
彼女を失った事を認めたくない僕が、自分の病気の力を借りてまで想像し、創造した、まぼろしの理想郷。水平線に浮かぶ儚い蜃気楼。
それこそが楓荘で過ごした騒がしくも楽しい日々の真実。
今なら、楓が僕を探し求めた気持がよく分かる。あの身心を焼き尽くすような熱い情熱は、僕自身が彼女を希求する心の叫びに他ならない。
正に彼女は鏡に映った僕そのもので、二人は鏡像関係にあるも、もう二度と重なり合うことは出来なかった。
「ケイ、本当に、もう会えないんだね……」
僕はうつむきながら、一人つぶやく。
辺りは早くも夕闇が押し寄せ、急速に藍色に染められていく。
一日のうちで一番幻想的な時間、いわゆるマジック・アワー。
その時脳内に、楓がこの海辺でネズミに語りかけた言葉が、天上の音楽のようにリフレインした。
「時に世の中は、本物以上に偽物が輝くときがあるんだ。
たとえ偽物の人生でも、研鑽を積んで、努力を欠かさなければ、いずれは本物を超える時が来る。それを俺は友達に教えられた」
「楓……!」
僕は、楓の言葉の一字一句を噛み締める。
そうだ、幻覚の楓は、決してただの幻覚ではなかった。
ネズミというヒントを通して、僕が真の病名に辿り着くよう仕向け、弱者を救うことの大切さを教え、医学の喜びに気付かせてくれた。
僕の妄想だとしても、それが僕に生きていく勇気を与え、指針を示してくれるのならば、それは真実の力を持つだろう。
僕の残り少ない命をどう使うべきか、一幕の邯鄲の夢は示唆してくれた。
僕は、心の中で感謝の祈りを唱えると、深まりつつある暗闇の浜辺に、のろのろと、だが確実に、這い進み始める。
「ありがとう、楓、ネズミ、そして矢田!
僕は自分の出来ることを見つけ、頑張るよ……!」
夜風に吹かれ、何処からともなく現れたカロリーメイトの銀色の空袋が宙を舞う。
後にした小屋の中で、小動物の駆け回るようなゴソゴソという音がする。
そして、再びカラスの鳴き声が、海の彼方に届かんばかりに響き渡った。
完




