第六十三話 旅路の果て
「ぬおおおおお、やめろ、俺にソーセージを食わせるなーっ!」
楓がよく分からん寝言を助手席で叫ぶ。一体どんな夢を見ているんだ?
苦しそうに身体をよじらせているかと思えば、「うおーっ、わしゃわしゃーっ!」と、今度はやけに嬉しそうな声を立てる。場面展開の早い夢なんだろうか。
「だいぶ疲れとったがねー」
運転席の矢田が、隣のデイドリーム・ビリーバーかつクイーンに、タオルケットを掛けてやる。車内に落ちていた、僕のものだけど。
「本当に今日は疲れましたよ……」と、二人の間に寝転がっている僕も、心の底から心情を吐露する。
身体の節々(?)が痛むので、今日は久々に、ネズミに湯船にでも入れてもらおう。
青いヴィッツは一迅の風となって、海沿いのドライブウェイをひた走っていた。
墨汁を垂らしたように黒い、冬の日本海の荒れ狂う波が浜辺に打ち寄せ、白く雪化粧した砂浜は、まるでスキー場のゲレンデだ。
帰り道はどうしても海を見たいという楓嬢のご要望を受け入れ、早くも専用ドライバーと化した矢田が、空気の読めない割に気を利かせてくれたのだが、そもそも言いだしっぺが爆睡していては話にならない。
だが、何も知らない赤ん坊のように幸せそうな寝顔を見ていると、わざわざ起こす気にもならなかった。
「しかしドーテーくんも、よく身を引いてくれたっちゃねー」
矢田は、彼のいきなりの豹変ぶりに驚きを隠せなかった。
あれほど執拗に僕たちを付け狙うと宣言した彼が、手のひらを返したように、もう取り戻すことは諦め、こちらに二度と手を出さないと誓ったのだ。
「EDの解決法を教えてやったのが良かったんですかねー」
僕は彼との会話を思い出す。父親殺しの発言の録音をもってしても応じなかった彼が、ソーロー改善薬の秘密には素直に驚き、あまつさえ僕にお礼の言葉まで述べたのだ。
彼は、別れ際に、「悪かった」ときまり悪そうに言い、「自分の祖母が言っていた通り、さすがソーセージくんは優秀だよ。
自分以上に医者にふさわしい」と最大級の賛辞を贈ってくれた。
これも、医療の持つ魔法の力の一つだろうか。
今まで僕と楓は、せん妄に侵された吉村老人を処方の混沌から救いあげ、偽てんかん発作を起こした中村貫太郎氏の謎を解き、不穏で暴れるネズミの真の病名を見出した。
全て、医学知識のたまものだ。僕は、記憶の中にはいない、医学を勉強していた過去の自分に深く感謝し、これからも勉強を続けていこうと心に誓う。
まだまだ世の中には見たこともない症例や、新たに判明した知識が、限りなく生まれいずる生命の如く、後から後から出現し、いくら切磋琢磨しようとも追いつくことは至難の業だ。
真理に至る道は険しく、人生は短い。ソーセージの寿命がいかほどかは不勉強にして知らないが、まだまだ頑張らねば、医学の進歩についていけず、相棒に笑われるだろう。
ま、そんなこんなで、ヴィッツに乗り換えた僕と楓は、矢田の運転の元、警察が来る前になんとか事故現場を立ち去ったわけだ。
ドーテーくんには、悪いが自損事故を起こしたことにしてもらい、現場に残ってもらった。
「それにしても」と、僕は改めて楓の横顔を眺める。
「とっても、とっても苦労したんですね、楓……」
楓の激動の半生は、文字通り僕の全存在を揺さぶった。
僕の前世ともいえるディーの話は、まったく覚えが無いので、まるで他人の話を聞いているかのようだったが、楓との深い繋がりを改めて思い知らされた。
楓と僕は、いや、ケイとディーは、友達以上の、まさに魂を共有した双子だった。
陰と陽、月と太陽、ネガとポジ。二人はそれぞれの足りない部分をそれぞれ補い合う、併せ鏡に映った存在で、二人で一人だった。
二人が離れ離れになった時、ケイ、即ち楓は、半身を失うようなショックを受けたことだろう。その喪失感は察するに余りある。
彼女はそれ以来ずっと、失った片割れを探し求め、暗黒の世界を一人彷徨っていたのだ。
「だのに、僕は何一つ彼女の事を覚えていなかったなんて……」
楓に対するあまりの申し訳なさに、知らず、涙がこぼれ落ちる。たとえソーセージになったこの身でも、涙腺の機能は失われていなかった。
「なーに、お前はちゃんと覚えていてくれたじゃないか、『海辺で会おう』って誓ったことを」
出し抜けに楓が薄眼を開け、僕は心臓が止まりそうになった。
彼女はヴィッツの天井を突き破らんばかりに「うーん」と大きく伸びをすると、窓の外を指し示す。
雪の吹きすさぶ中、冬の午後の日本海は白く泡立ち、波の花でも浮かんできそうなくらい、寒々としていた。
「ここは俺とお前が再会した場所の近くだよ。覚えているか?」
そう言われれば、季節の違いこそあれ、あの晩見た風景と、どこか似ている気がする。
「お前は俺の事は忘れても、交わした大事な約束は海馬の最も深い部分に刻みつけ、忘れないようにして守り抜いた。
そして、身体がボロボロになるのも構わず、生命を振り絞って、どこまでもどこまでも海辺を求め、旅し続けた。
それに比べたら、俺の苦労なんて、小せえ小せえ。象の大便とミジンコの鼻糞ぐらい違うよ」
「もうちょっときれいな比喩表現をして下さいよ! せっかくのいい話が大なしじゃないですか!」
「ハハハ、すまねえな。でも、お互い苦労して、違う姿になったけれど、再び出会うことが出来たんだ。それで十分じゃないか」
「そうですね。ムラージュの神様に感謝しないといけませんね」
「そんな神様がいればだがな」
「二人とも、そろそろ着くっちゃ」
「えっ?」
矢田の声に、再び外を見ると、道路の前方に、雪に埋もれながらも辛うじて立っているボロ小屋が姿を現す。あれこそは、まさに楓が僕を助けてくれた場所の証し。
「お、着いたか」
そんなことを楓も言う。と同時に矢田がブレーキを踏み、スピードを落とす。え、まさかここで降りるの!?
「外は寒いですよ! こんなところ寄り道しなくていいですから、早く我が家に帰りましょうよ!」
「だから、ここがそうじゃないか?」
僕はその台詞に、全身に氷水を浴びせられたような感じがして、目を見開いた。
楓は、お前は一体何を言っているんだといいたげな、きょとんとした顔付きをしている。
雪はいつの間にか降り止んで、空は朱金色の陽光が、雲間から後光のように斜めに差し込んでいる。どこかでカラスの鳴く声が聞こえてきた。
……魔の時間帯、夕暮れ時。
その瞬間、僕は、全てを悟った。




