第五十八話 十姉妹 楓 その3
山のような仕事と同様、ディーのその後の行方探しも遅々として進まなかった。
「どうやら、君たち曰く『ドーテーくん』の元を逃げ出したという情報もあるんだが、真実か否か定かではない。
夜空を舞う巨大ソーセージが見られたという、まるでUFOの目撃話みたいなもんで、裏も取れていないんだ」
幸助の流してくれる調査報告は、しかし俺の胸を弾ませた。
「やっぱディーは俺との約束を守って、脱出に成功したんだ! 間違いないよ!」
「だといいんだが、はたしてどこにいるものやら……」
「そんなの海辺に決まっている! ディー、待ってろよ!」
というわけで、その頃、俺は、田原剛さんに夜勤をお願いすると、人が寝静まった夜更け、一人で海辺を散策していた。
愛車のヴィッツで海岸沿いをかっ飛ばし、人影があれば、すばやく目を走らせ、時には確認のため、車を止めて、近付いた。
全てはディーを探すために他ならない。たとえ異形の姿になったとしても、彼女のことなら一目で判別できる自信があった。
だが、海岸は果てしなく広く、夜はあまりにも短い。
日が昇る前までに楓荘に戻ると、俺は寝不足の朦朧とした頭で、日々の業務を再開した。
まったく、この時ほどあのリモコンで睡眠欲を消せたらと思ったことはない。そんなモードはないんだけど。
ネズ公と出会ったのは、そんな夜の浜辺だった。
ボロボロのTシャツにジーンズという、家出少女丸出しの恰好をした小柄な彼女は、まだ若いのに、全てを諦めた、光のない瞳をしていた。
放っておいたら、狂気に侵されたオーフェリアのように、水面をぷかぷか流れて行ってしまいそうな雰囲気を纏っており、柄にもなく俺は、気付いたら「どうした、少女A?」と声をかけていた。
夜中にこんなところを歩いている俺を不振がることもなく(お互い様だが)、その少女は訥々と自己紹介をした後、俺の促すままに、壮絶な過去を語り始めた。
だが、幻覚と妄想に彩られた物語を聞くうちに、俺の医師としての好奇心に火が付き、過去に読み漁った文献が、脳内で次々にダウンロードを開始する。
「お前の疾患はDLB、すなわちレビー小体型認知症だよ」と俺は即座に断言する。
「可愛そうに、それでは治らないわけだ。今まで間違った治療法を受け続けてきたわけだからな」
「で、でも、お医者様が、皆、口を揃えて、統合失調症だって……!」
「勉強していない、肩書だけの医者の診断が何になる。そいつらは論文を読んで勉強することよりも、ゴルフ場で日焼けすることや、夜の酒場で散財することの方にご執心なのさ。
いいか、俺は本物の医師ではなく、偽医者をやってはいるが、それ故に本物以上に己を鍛え、知識や技術の習得に励んでいる。
時に世の中は、本物以上に偽物が輝くときがあるんだ。たとえ偽物の人生でも、研鑽を積んで、努力を欠かさなければ、いずれは本物を超える時が来る。それを俺は友達に教えられた」
俺はいつになく熱く語っている自分に気付き、そこで、照れ隠しに、「ま、そういう意見もあるってことだ」と呟き、夜風に紛れ込ませる。
彼女は、良く見ると可愛い大きな目をくりくりっとさせて、俺の熱弁に聞き入っていた。
「私も……本物の人生を送ることが出来ますか?
毎日百鬼夜行に囲まれて、何が本物で何が偽物かすら分からなくなっているんです!
もしかして、自分が見ている世界そのものが偽りの幻影じゃないのかって思ったり……!」
「大丈夫だ、俺を信じろ。
お前の病気は、わずかの抗精神病薬を使うことで、幻覚症状を抑えることが出来る。
今まで失敗続きだったのは、普通量の薬剤を使用していたためだ。
また、完全に悪化を止めることは無理だが、ドネペジルやメマンチン塩酸塩という薬を使用することによって、ある程度進行をゆっくりに出来る」
「ほ、本当ですか!?」
初めて少女の双眸に光が宿る。夜空に輝く月光にも似た、希望の光が。
その時俺は確信した。彼女は鍛えればものになる、と。
「どうだ、根津とやら。行くところが無ければ、しばらくうちに来ないか?
実はオープンしたばかりで人手不足で困っているんだ。宿代替わりに働いてくれればありがたいんだけどな。
俺も仕事の合間にお前を診察してやることが出来るし、どうだ?」
「こちらこそよろしくお願いします! 何でもやりますから、お傍に置いて下さい!
あなたこそ、私にとっては本物のお医者様です!」
彼女は丸い瞳を輝かせたまま破顔し、砂浜に土下座までして俺をうろたえらせた。
こうして俺は、無償で従業員をゲットした。
彼女は想像した以上によく働いてくれ、おかげで俺は、幸助の所に「往診」に通う時間も頻繁にとれるようになった。
彼の雇った優秀な探偵の調査により、彼女に関する裏は取れ、捜索願も出されていないことに、ひとまず安堵するも、相変わらずディーの行方は杳として知れない。
それでも真夜中のお散歩に精を出す俺に、心配性の幸助が、実の母親のように小言をいう。
「楓、もう少し用心深くなった方がいいよ。君だって脱走犯なのは一緒なんだから、雲州大学の捜索の魔の手が及ぶかも知れない。
活動的になったのは良いことだけど、危険は極力避けるべきだ」
「んなこた分かってるって!」
とは言ったものの、俺は大した注意も払わず、ただひたすらディーを探し続ける。
春も、夏も、秋も、冬も、そしてまた巡ってきた春も、俺は夜毎浜辺をドライブし、まさに日本全国津々浦々を渡り歩いた。
もう一度、彼女に会いたい。会って、あの夜の事を謝りたい。会って、いろんな医学の話がしたい。会って、もう一度髪の毛をわしゃわしゃしてもらいたい。
幼き日に別れた母親の影を慕うように、いや、引き裂かれた半身に恋い焦がれるように、俺は彼女を追い求める。
いつの日か、いつの日か、いつの日か……!




