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第五十六話 十姉妹 楓 その1

 それからのあたしは、多忙を極めた。


 解剖学、生理学、生化学、病理学、微生物学等といった基礎医学はもちろんのこと、内科一般および外科一般、産婦人科、小児科、精神科、眼科、耳鼻科、皮膚科などといったありとあらゆる臨床科目の教科書を読破し、医師国家試験予備校のテキストや映像資料まで取り寄せた。


 医学部の授業に、学生を装って潜り込み、時には実習にまで参加した。


 同胞たるムラージュたちを解剖するときは、さすがに自責の念にかられたが、歯を食いしばって耐え抜いた。


 解剖する側に回ってみると、人体の神秘に驚かされるばかりで、広大な宇宙に漂う、ちっぽけな宇宙船の気分になる。


 諮問に苦しんでいた、ドーテーくんたちの気持ちが骨の髄まで理解できた。


 ある程度の知識が身に付いたところで、今度は研修医を名乗って、短期間だけ様々な研修病院で働いた。


 数多くの診療現場や手術を見学し、処方の仕方を覚え、注射や処置の技術を学ぶ。


 全て、十姉妹議員の協力があって出来たことだ。


 彼の、というか、元総理まで務めたという彼の父親の息は、地元の医学界に、アジア料理の香辛料並みにどっぷりかかっており、偽の学生証や、偽の医師免許証すら用意することが可能なことに驚く。多少のやばいことは、揉み消すぐらいの力まであるらしい。


「医師免許証に書く名前はどうする?」と十姉妹幸助が聞いてきたので、あたしはちょっと迷った。ケイという名前はとても気に入っているのだが、あたしはあくまで脱走者であり、あの夜ディーにその名前で呼ばれている。ここは偽名を使うしかない。でも、これ以上に名乗りたい名前など思いつかない。


「とくに希望がないなら、楓はどうかな? 略すと君の本名のKになるし、何よりその赤い髪にぴったりだよ」


「そうね、それでいいわ」


「じゃあ、私の養女という設定で、名字は十姉妹にしておこう」


 というわけで、あたしはケイから十姉妹楓となった。


 しかし、医学を学んでいくうちに、この国の医療の問題点が、様々な形で目に見えてくる。


 地域医療の格差の問題、高齢化社会による、施設不足の問題、小児科医や産婦人科医の不足の問題……。


 また、医療過誤の問題も、いくつかの医療現場で見られた。診断の間違いによる失敗、誤った薬の投与による失敗、手術のミスによる失敗……。


 どこまでが医療側の責任かと言われると、難しい点が多いが、知識不足で間違いを犯すことは、愚かなことだと思った。


 医者は知識がなければならない。ディーがいろいろ教えてくれたように、知識は疑問を解き明かし、未来へ進む道しるべになってくれる。


 ならば、出来うる限りの知識を身に着けよう。そう決めると、国内はおろか、海外の論文を読み漁り、最新の治療法からゲテモノ呼ばわりされる、ある意味オカルト的治療法までを調べ上げた。


 医療は、瞬く間に移り行く。


 ナイチンゲールは、タバコはストレスを軽減させる、素晴らしい精神安定薬だと褒め称えた。


 百年程前の糖尿病の治療法は、「尿から糖が失われるため、糖分を大量摂取せよ」だった。


 寄生虫が癌の原因だと唱えた医師がノーベル賞を受賞し、コールタールによる発癌性を訴えた医師は、選考で落とされた。


 過去の知識に捕らわれた権威ほどやっかいな生き物はいない。今日の常識は明日の非常識だということを、歴史は教えてくれる。


 常にアンテナを高くしていない者は淘汰され、滅び行く。それを胸に刻みつけ、餓えた狼のように貪欲に、知識の吸収を続けた。


 不確かなものばかりの世の中で、ただ一つ確かなものは、記憶の中で光り輝くディーだった。あたしは彼女に憧れていた。


 自信に満ち溢れ、饒舌かつアクティブで、男の子みたいに話すが魅力的で、知識に満ち溢れている。


 あたしは自分を変え、少しでも彼女に近付こうと努力した。


 いつしか口調は男のように荒っぽくなり、一人称は「あたし」から「俺」へと変わった。「ボク」はちょっと恥ずかしかったので、無理だったが。


 何でもとりあえず挑戦してみて、失敗と経験を重ねた。


 脱走者であるため、変装の意味も兼ね、赤髪を黒く染め、眼鏡をかけるようにしたが、なるべく外見は女性的であろうと努め、体型維持に努めた。


 肉類は、ディーのソーセージ化のショックから、殆ど食べれなくなったが、野菜類を多く食べ、カロリーメイトなどで残りの栄養補給をするようにした。


 カロリーメイトは食べ物と言うより薬品に似ており、なんだか馴染み深く、お気に入りとなった。

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