第五十三話 十姉妹 幸助 その1
「もう大丈夫かい?」
「だ、い、じょ、う、ぶ……」
あたしは、胃液で酸っぱくなった唇を、無理矢理動かし、辛うじて意味のある言語を発する。もう胃の中は空っぽで、吐けるものは何一つない。
あまりの衝撃に、ここが遥か遠くの土地だとか、自分が腎癌だとか、ICチップの除去方法だとか、最早どうでもよくなっていた。
「すまん、ここまでショックを受けるなんて、正直思っていなかった。君がそんなに彼女のことを深く思っていたとは……」
十姉妹幸助が、心底心配そうな表情で、あたしの背中を撫でてくれる。その大きな手のぬくもりが、今はありがたかった。
「いえ、あなたは悪くない……ちょっとびっくりしただけ……」
我ながら無理な笑みを浮かべ、弱々しい声で答える。
彼が壁のブザーを押すと、プロレスラーみたいに立派な体格の執事風の男が来て、あたしの吐物で汚れた床を、雑巾で掃除してくれた。
「すいません、ご迷惑をかけちゃって……」
あたしは手渡されたハンカチで口元を拭う。もう二度と、ソーセージを食べることは、あたしには出来ないだろう。
ソーセージを夢に見てうなされそうなレベルにまで、この新たなトラウマは心を切り裂き、蹂躙していった。
「いや、謝るのは私の方だ。以後気を付けるよ」
彼はどこまでも優しかった。あまりの優しさに、再び涙が出そうになる。
これまでの会話で感じたことだが、彼はあたしをムラージュとしてではなく、一人の傷付いた、か弱い女性として扱ってくれている。でも、何故に?
「どうして、そんなに親切にしてくれるんですか? たかがクローン人間もどきのあたしに?」
「いや、こんなことを言うと笑われるかと思って言い辛かったんだが……」
彼は急に、険しい顔つきを、まるで女の子と初めて喋った中学生男子のように赤らめる。
「笑わないから、言って下さい」
「絶対に?」
「絶対に」
「じゃあ、言うけど、本当に笑わないでくれよ」
くどいくらいに念を押すと、彼は、マッチョ執事がドアを閉めて部屋を出ていくのを横目で確認し、話を続けた。
「実は、妻を亡くした私が、縁もゆかりもない山陰地方に旅行に行ったのは、その地にある伝説があるからなんだ」
「どんな伝説?」
「この国に伝わる一番古い神話の話だが、とある夫婦の神がいてね、彼らは国造りに励むが、ある時出産が元で妻の神が死んでしまった。
夫の神は、亡くなった妻を取り戻すため、黄泉の国へと降りていく。その時通った穴が、あの地にはあるんだよ」
いつの間にか、彼は遠い目をしていた。
「……まさか、死んだ奥さんに会いに?」
「だから、笑わないでくれって言ったじゃないか!」
彼は茹で蛸みたいに真っ赤になって、抗議する。そんな、あたしは笑ってないのに。
「あたし、笑ってなんかないよ。続けて」
「ごめん、ちょっと被害的になっちゃっていた。
もちろん、会えるなんて馬鹿なことを考えていたわけじゃないけれど、神話の神と、自分が重なって見えてね。
どんなところか一度行ってみたかった。そして近辺の温泉に泊まった」
「そこであたしを見つけたってわけね」
「そうさ。最初は夢かと思った。白衣を上から纏っただけの、雪の精のような姿の君は、まるで死の国から蘇った白雪姫のように見えたんだ。
もちろん君は、私の妻とはまったく似ていない。
だのに、何故か、どこか同じような儚い雰囲気を感じた。
君がムラージュだと分かり、その疾患名を知って、私は思わず膝を叩いた。妻の死因は、まさに君の有する病気と同じだったから」
「腎臓癌?」
「そうだ。妻の場合、発見が遅れ、若かったこともあり、気が付いた時は全身に転移し、手遅れだった。
しかも私はその頃選挙活動に忙しく、十分に妻を看病してやれなかった。
そんな私を彼女は恨みもせず、当選が確定した私に『おめでとう』と伝言を残して、息を引き取ったという。
そうさ、私は彼女の臨終に間に合わなかったんだ。涙が枯れるほど深く後悔したのだが、時間だけは誰にも巻き戻すことが出来ないということを思い知るのみで、しばらく死んだように過ごしていたのさ」
そこで一旦彼は口を閉ざすと、深いため息を吐いた。




