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第五十一話 悪夢の旅路 その4

「で、でも、じゃあ僕はどうやって逃げ出したっていうんだ?


 走ることすら満足に出来ないこんな体なんだぞ!」


 僕は、新たに生じた疑問を投げかけた。


「ああ、それを言われると鬱になっちゃうよ……」


 今まで躁状態バリバリでアゲアゲな健一郎が、珍しく語尾を濁らせる。


「君は覚えてなさそうだけど、あの夜、ようやく完成したソーセージタイプのニューモデルの君がアパートに届けられ、自分は最高にハイってやつだった。


 新しいトランクスを履き、いそいそと部屋を片付け、君の寝床のケージや抗菌トイレまで用意した。しかし、いざ臨戦状態となった時……」


「ひょっとして、またソーローだったの?」


 こんな時でもつい、いつもの突っ込み癖が発動してしまう。


 ルームミラーに映る彼の顔は赤黒く、怒りの皺が刻まれていた。


「違う! 逆だ! まったく無反応だったんだ!」


「い、インポってこと?」


「ああ、そうだよ、悪いか! 怒りのあまり、自分は君を蹴り飛ばし、ボーリングの玉のように転がっていった君は、網戸を突き破ってベランダの隙間から転げ落ち、外に飛び出していったんだ!」


「そ、それって、皆あんたが悪いんじゃ……」


「しょうがないだろう!


 慌ててトランクスを履いて、服を着て、階段を降りて外に飛び出すも、君の姿はどこにも見当たらなかった。


 自分の部屋はアパートの二階で、ベランダの下は道路に面している。下水道にでも落ちたのか、どこかのトラックの荷台にでも運よく乗ったのか、その後のことは皆目分からなかった。


 まったく、どうやってこんな北の地まで辿り着いたんだ?」


「……そんなの、僕が聞きたいですよ」


 記憶をいくら探っても、彼の言ったような出来事は欠片も覚えていない。


 ただ、一つだけ、深淵の遥か果てから、糸を手繰るように浮かび上がってきたことがある。


 そう、楓と出会う前、ただひたすら、「海辺に行かなくては!」という行為心拍的な考えに支配されていたことだけは、彼と話しているうちに、ぼんやりとだが思い起こされてきた。


 そうだ、僕は海辺に行きたかったんだ。


 誰かと大事な約束をして、それで夏の満月の夜、産卵するため大移動するカニのように、わき目も振らずに海辺を目指し、旅していた。


 どこかの小説に、「知らない町を旅することは、夢を見ていることに似ている」と書いてあったが、僕の場合は、全てが悪い夢の中の出来事のように、霞の向こうに幻影のように揺らめいていた。


 ただし、夜の浜辺にやっとの思いで到着し、そこで楓に会ったシーンだけは、はっきりと脳裏に焼き付いている。


「君を探し出すのは本当に苦労したわ。迷子ソーセージ探しを引き受けてくれる探偵なんていないしな。おかげで車の運転が上手になっちまったよ、ほら」


 信じられないことに、彼は雪道を、手放し運転でかっ飛ばしている。僕はちょっとちびりそうになった。


「でも、灯台下暗しだったぜ。実家の近くのグループホームもどきに、ソーセージ型の介護ロボットがいるって噂をネットで見たときは、飛び上らんばかりに驚いたよ。


 まさかとは思ったけど、何とか確証を得られないものかと考え、ちょうど呆けかかってきたうちの婆さんを、知り合いの医師に頼んで、介護保険の診断書をちと重めに書いてもらって、両親を説得して、入所まで持って行った。


 いや~、結構手間がかかっちゃったよ。


 そもそも祖母は、認知症っていうよりも、うつによる仮性痴呆っぽかったけどな」


「そこまであなたの作戦だったんですか?」


「ま、ちょうど部屋が空いていたのもあったけどね。


 案の定祖母は君を気に入り、何かにつけて君のことを語ってくれた。本当にマタ・ハリも顔負けの優秀な天然スパイだよ。


 そして自分は確信した。赤いカラコンなんかでごまかしたって無駄だ。こいつは間違いないって!」


「……」


 僕は心中、カラーコンタクトが、楓が僕を追手の追跡から守るための偽装工作だと気付くとともに、こいつの邪悪な執念に舌を巻いた。


 確かに乙女さんは認知症っぽくないと思ってはいたが、どちらかというと気分の波がある気分障害に近いのかもしれない。


 彼女の息子の貫太郎氏もそうだったし、この不肖の孫息子も、多弁、気分高揚、易刺激的と、躁症状のオンパレードだ。


 双極性障害って、どれくらいの頻度で遺伝したっけ? この緊急時に、ふとそんなことを考察してしまう自分が、ちと悲しくなった。


 だが、今までの彼の話から、水底から浮かび上がる泡のように、脳裏に出現した仮説があった。


 もう少し突き詰めてみないと分からないが、もしそれが正しければ、彼の言動のいくつかを、理論的に説明することが出来るのだが……。

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