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第四十四話 詰問 その1

「どなたですか……って、あなたは昨日の!」


「あ~ら、健ちゃん、今日も来てくれたの~?」


「ええ、親父が、自分の代わりに見てきてくれって言って……」


 何時からリビングにいたのか、先程話題に上っていた、中村乙女さんのお孫さんの健一郎くんが、褐色のコートを羽織ったまま、まるで存在感を感じさせずに、影のように佇んでいた。


 コートの下にもいろいろ着込んでいるようだが、ひょろ長く、頼りなげに見え、短く刈った頭は、この季節、いかにも寒そうに見える。


 表情は乏しく、ころころ変わる乙女さんよりも、むしろ父親に印象が似ている。


 国家試験を受ける年齢と言うことは、最低でも23、4歳なのだろうが、幾分それよりも若く見え、見ようによっては高校生ぐらいに見えないこともない。


 茶色っぽい髪とコートが、なんとなくおとなしい室内犬を連想させる。


「所長さ~ん、この子が私の孫の、健一郎ですのよ~。


 所長さんと同じお医者様になろうと、大学で頑張って勉強していますの~」


「何か、御用ですかな?」


 楓が急に居住まいを正し、威厳を取り戻そうとしてか、1オクターブ低い声で話しかける。最早手遅れですけど。


「はい。実は、先生に、父についてお聞きしたい事がいろいろありまして、ここでは何ですから、別の場所でお話し出来ませんか?」


 彼は無表情だが、落ち着いた様子で礼儀正しく用件を述べる。


「……新しい情報は特にないと思うが、それでもいいのか?」


「ええ、結構です。あと、そこの介護ロボットさんも、一緒に同席をお願い出来ませんか? いつも祖母からお話を聞いていて、一度じっくりお話ししたかったんですよ」


「え、僕? まあ、いいですけど……一応、所長の許可を貰わないと」


 予想外の展開に、僕はうろたえてしまった。僕なんかの話を聞いて、どうしようと?


「役に立つとは思えんが、俺は一向にかまわんぞ」


 楓はむしろホッとした様子で快諾する。この人、本当に僕の事を、アドバイザーロボットかなんかだと思っているのな。別にいいけど。


「どうもありがとうございます」


 その時、初めて彼の表情に変化が生じた。


 薄い唇の片端が、ひきつるように持ち上げられ、ニィッとした酷薄ともいえる笑みを形作る。


 それを眼にした僕の心中に、昨日去来した言い知れぬ不快感が再び訪れ、心が押し潰されそうになった。


 僕は必死に感情の波が荒れ狂いそうになるのを理性の力で抑え込み、なんとかその場をやり過ごそうと腐心する。


 幸い、今回も不安発作のような症状は、夏の通り雨のようにたちどころに過ぎ去り、誰にも異変を気付かれた様子はなかった。


「じゃ、診察室の方に行って話そうか。行くぞ、ソーセージ!」


「は、はい!」


 僕はカラ元気を出して、威勢良く答えると、楓が開けたドアの隙間から、のそのそと這い出した。


 廊下の寒さが、今ばかりは火照った身体を冷やしてくれて、心地よく感じる。若干すっきりした頭で、僕はようやく思考を再開する。


(一体さっきの感覚は何なんだ?)


 それは不安と焦燥と恐怖に満ちた、とてつもなく邪悪なもののように思われた。


 そしてその不快な感情は、僕の失われた記憶の深淵から立ち上ってくるような気が、直感的にした。


 例えるなら、神によって地獄の底に封じられたサタンが、なんとか戒めの鎖を引きちぎって地上に復活しようとしている様を、傍らでただただ眺めているしかない哀れな亡者の魂の心境か。


(……いや、単なる気のせいかもしれない、最近多くの事があったし、ネズミほどじゃなくても、僕もお疲れモードなんだろう)


 そう心に言い聞かせて、たちまち僕を追い抜いた二人の後を追うも、気分が晴れることは到底なかった。



「で、中村貫太郎氏について、何が知りたいんだ?


 すまんが今、従業員が寝込んでいるため、こう見えても忙しくてね」


「いえ、お手数は取らせません。すぐ終わります」


 僕が診察室にようやく辿り着いた時、話はちょうど始まったところだった。


 楓はエプロンを外しもせずに、診察室の医師用の肘掛椅子に、足を組んでふんぞり返っている。とても偽医者とは思えない。


 対する健一郎君は、患者用の丸椅子に腰かけ、抑揚のない声で答えている。


 もし国家試験に受かれば、今年の春には本物の医師として活躍するのだろうか。そう考えるとなんとも奇妙な構図だ。


「先生には昨日、見事な推理力で母の企みを突き止めて頂きましたが、一つ奇妙な点があったんです」


「ほう、何かね?」


「母はごく一般的な主婦で、医学に関してほとんど何も知りません。


 そんな彼女が、たとえ父をてんかんだと疑ったにせよ、何故抗てんかん薬を薄めて、事故を起こさせることを思いついたんでしょう?」


「それは、最近ニュースなんかで言っているからじゃないか?


 内服が不規則だと、てんかん発作を起こしやすくなるとかなんとか」


「ええ、でもそこから濃度を薄めるという発想には、なかなか至らないでしょう。


 水を混ぜてもちゃんと薄まるのか、味はそんなに変化ないのかとか、素人なら躊躇するでしょうし、普通はまず、なんとか飲み忘れさせようと考えるはずです。


 それに母は、バルプロ酸ナトリウムが抗てんかん薬だなんてことを、どうやって知ったんでしょう?」


「そ……それはネットとかじゃないのか? 今の世の中、検索すれば、一発で分かるだろう」


「それにしては、バルプロ酸ナトリウムが気分安定薬としても使われるという、調べれば一発で分かるようなことも、何一つ知りませんでした。


 そもそもうちの母は、コンピュータ音痴で、まったく使うことが出来ないんですよ」


「あ……そうなのか?」


 凄い。昨日は自信たっぷりに独壇場状態だった楓が、見る見るうちに追い込まれ、何とも情けない声まで出している。


 挙句の果てにはこちらをちらちら見る始末だったが、とはいえ僕も、健一郎君に対して反論することなど出来ず、固唾を呑んで見守るばかりだった。

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