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第四十一話 灰色の世界

 どこをどう走ったのか、まったく覚えていない。


 ただ、気が付くと、実習室内で拾った白衣を身体に引っかけた姿で、ひたすら夜の浜辺を走っていた。


 履物は見つからず、素足のままだったので、小石がちくちく足裏に突き刺さるが、いちいちかまっていられない。


 無理矢理点滴を引っこ抜いた右腕からの出血は、既に止まっていたが、左腕の剥き出しの筋肉に、潮風は容赦なく突き刺さり、これまでに経験したことのない痛みを覚えた。


 点滴薬が切れたせいかもしれない。


 ただ、涙だけがあとからあとからこぼれていた。


「ごめん、ディー、あたしだけ逃げて……」


 さっきからずっと、そればっかり繰り返して言っていた。


 その掠れ声は海鳴りにかき消され、自分の耳にすら届くことはなかった。


 今となっては確信できる。ディーはあたしだけを逃がそうとしたんだ。


 自分が脱走できないとわかって、それであたしにリモコンを投げて、先に逃げる口実を与え、自分は敢えて残ったんだ。このあたしなんかのために!


「ディー! ディー!」


 野犬の遠吠えのように絶叫しながら、あたしはどこまでも続く砂浜を疾駆する。


 陸側には見事な松林が連なり、その奥に大きな旅館のような建物が黒々とそびえている。


 ごめん、一緒に逃げようって、あの晩誓い合ったのに。こんなことになるなんて。


 いっそ今から引き返そうと何度も思ったが、そのたびに「決してここに戻ってくるなよ!」というディーの叫びが遠雷のように木魂し、あたしの心を激しく揺さぶる。


 そうだ、彼女の言うとおり、今戻っても何もできない。むしろ二人とも捕まってしまう可能性の方が高いだろう。


 実はここに来るまでに、何度もけたたましいパトカーのサイレン音を聞いた。皆、あたしの進行方向とは逆、つまり元来た方向へと向かっていく。


 今頃、解剖実習棟は警察官だらけかもしれない。


「でも、だからって、ディーを見捨てられないよ! どうすればいいの?」


 心身ともに疲れ切ったあたしは、遂に足を止め、木陰に座り込む。なにもいい考えが湧いてこない。


 ディーは絶対後から海辺に行くと言っていた。今までディーが約束を破ったことは一度だってない。だから信じて待ってみるか?


「いや、そんなのよくない! 今度はあたしが彼女を助ける!」


 あたしは声に出して決心を固める。


 そうだ、今の彼女は無力そのもので、あいつら野獣の手にかかれば、とても逃げ出すことなんてできないし、最悪事件の主犯として処分されてしまうかもしれない。急がなければ!


「とにかく早く戻ろう! でも、この身体の痛みはなんとかならないものか……ん?」


 足の裏や左腕の疼痛にさすがに耐えかねていたあたしは、そのとき白衣のポケットのふくらみに気付いた。


 そういやあの時ディーから受け取ったリモコンを、ここに突っ込んでいたのを今まですっかり忘れていた。


「バッカだなー、これを使えば痛みなんて一発で消えていたのに……ハハハ」


 一人苦笑いをしながら、あたしはリモコンを自分に向け、「温痛覚」のボタンを押そうとした。


 だが、疲れのためか、焦っていたせいか、それとも汗のせいか、手元がわずかに狂ったあたしは、なんと「解剖」のボタンを押してしまったのだ!


「ああ……」


 後悔する間もなく、あたしの身体は一気に力を失い、魂の抜けた死体のように、砂浜に横倒しに倒れる。感情の波がどんどん平坦になり、何を見ても何も感じなくなる。


「ディー……」


 世界が灰色と化す直前に呟いた言葉も、楽の音のような松籟のうねりに飲み込まれていった……。



 それからのあたしに起こった出来事は、まるで他人の体験記録を撮ったモノクロフィルムを、転寝しながらぼんやり眺めている程度にしか覚えていない。


 松の木の根元で寝転がっているあたしの元に、浴衣を纏った男性が来たかと思うと、いつの間にやら車に乗せられ、遠ざかる風景を後にして、長い長い道のりを旅して、とある街の立派な豪邸に辿り着き、まるでロイヤルホテルの一室のような広くて立派な部屋に寝かせられ、点滴や腕の治療を受け、瞬く間に数日間の時が流れ去って行った。


 その間のことは暫定的にしか覚えておらず、あたしはただ、人形の様に、なすがままになっていた。


 あたしの意識が正常に戻ったのは、ある朝、あたしの左腕の包帯が取れ、きれいな肌が現れた時のことだった。


 どこかで聞いた覚えのある、ピッという微かな電子音が走ったと思うと、たちどころにあたしの心の海は鏡面のような凪から、うねりを上げる大波へと変化し、風景は色彩を取り戻した。


「ご機嫌いかがかな?」


 黒いリモコンを握り締めたその男は、30代後半から40代前半ぐらいだろうか。


 立派な背広を着て、威風堂々とし、馬の鬣のような見事な毛髪と、獅子のように鋭い相貌をしつつも、優しくあたしに微笑んだ。


「……あまり、よく、ない」


 キングサイズのベッドに横たわったあたしは眉をしかめながら、正直に答える。


 どこかで交わしたようなやり取りだな、と思いつつも、誰との間であったのか、すぐには思い出せなかった。


「直に慣れるさ。君は本当に運が良かった。私に拾われて」


 男は日焼けしたたくましい顔をほころばせ、あたしの髪にそっと触れる。


 その言葉や仕草から、突如あたしは一番大切な友達との出会いをフラッシュバックし、絶叫した。

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