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第三十四話 根津 美子 その2

「夕暮れ、ど忘れ、幻視、不穏、攻撃性……」


 全てのキーワードが、あるべきところに収束する。


 でも、まさか、そんな、いや、有り得ない、だが、そうとしか……。


「ネズミ、あなたは、信じられないけど、本当に、病気だったんですね……」


 ようやく惑乱の渦中から復活した僕は、万感の思いを込めて、ネズミを見る。


 つい、目尻に熱いものが込み上げてきたが、手で拭くこともできない僕は、流れるに任せるままだった。


 謎は解けた。恐らく楓は知っていたのだろうが、あまりにも残酷なその事実を、僕に伝えるのは忍びなかったのだろう。


 僕も、こんな症例は聞いたこともなかった。改めて楓に賛嘆の意を胸中で贈るとともに、深い悲しみが潮のようにどっと押し寄せる。


 もし、この推測が間違っていなければ、彼女の余命は残りわずかだろう。少なくとも普通の人生は送れまい。


 何故彼女がいつも生き急ぐみたいに慌ただしく、やかましいくらいに元気なのかがわかる気がした。


 そうでもしなければ、たちどころに深い絶望の魔の手に捉えられてしまうからだ。


「だが、今はこの場をなんとかしないと……嘆き悲しむのはその後だ!」


 僕は手元の白衣をハンカチ代わりにして涙をぬぐうと、悲嘆に沈む心を抑えつけて、前方を見据える。


 拮抗状態は続いていた。楓の細腕は、どこにそんな力があるのか不思議なくらいにぎりぎりと矢田に肉薄し、彼も踏み止まるのに精一杯なようだ。


 ふとネズミの足元を見た僕は、白い川のようなものがこちらまで流れているのに気が付いた。タオルだ。


 彼女はさっきばら撒いた洗濯物の端っこを踏みつけている。これはチャンスだ!


「矢田さん、僕が合図したら、1、2の、3で、ネズミを抑えつけて下さい!」


 僕はそう呼びかけながら、目線を彼女の足元に送る。


「わかったっちゃ!」


 空気の読めない男も、この時ばかりは即座に理解したようだ。


 僕はそっとタオルの先端を口に咥えると、矢田に目配せをして、きっちり3秒数えた後で、「それ!」と勢いをつけて、彼女と反対方向にごろごろ転がっていく。


 自然、僕の身体中にタオルがミイラの様に巻きついていき、ある時点でピンと張り詰める。


 だが、加速の付いた僕の身体はその程度では止まるわけもなく、その結果、ずりっとタオルの反対側の末端部も引きずられる。


 よって足元がお留守になったネズミがバランスを崩した刹那、矢田は電光石火の早業で大きく前に踏み込んだ。


 そのままネズミのふらつきかけた右足を、彼女の後ろに回り込んだ彼の右足で刈り上げ、見事床に転倒させる。つまりは柔道で言うところの大外刈りだ。


「ぐはっ!」


 したたか腰を打ったネズミは、肺の奥から空気を苦しげに吐き出すと、手にした注射器を取り落とす。


 プラスチック製のそれは落下の衝撃にも耐え、廊下をころころと転がっていく。


「どうするが? あれを注射した方がいいがか?」


 いつの間にやらネズミを後ろ手に抑えた矢田が、荒い息をつきながら僕に問いかける。なかなか手慣れた感じだ。


「いや、ちょっと待って下さい!」


 僕は今にも注射器に手を伸ばそうとする矢田を制止し、考えを巡らせる。


 あの注射器の中身は昨日と同じなら、ハロペリドールだろう。だがそれでは彼女に効くかどうかが分からない。


 彼女の病は極めて特殊だ。こんな古いタイプの抗精神病薬では、副作用が強く出たり、悪化する恐れの方が高い。


「ひとまず診察室に運んで下さい! そこで縛り付けてでも点滴をしましょう!」


「了解ちゃ、ソーセージはん!」


 世の中身体拘束をするときは法律だのなんだのがうるさいが、この緊急時にそんな悠長なことは言っていられない。


 どの道この施設に拘束を許可出来る資格のある人はいないし。


 ネズミの眼は未だ狂気に侵され、表情は憎しみに歪んでいる。


 矢田の事を「お父さん!?」と言ったことでも明らかだが、幻視に囚われているのだろう。


「んで、用意する物は?」


「えーっと……クエチアピン25mg錠と、シチコリン注射液を用意して下さい!」


「あいさー!」


 矢田は暴れるネズミの両手首をタオルで器用に縛り上げると、セメント袋みたいに右肩に担ぎあげ、ついでに僕まで左肩に担ぐと、意気揚々と診察室に向かっていく。


 楓に「あまり気を許すな」と忠告されていたにも拘らず、ほんの少しだけ、僕はこの風来坊が頼もしく見え、尻尾の先っぽほどだが、雪がこのまま降り続いてもいいかな、と思ったりした。

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