第三十二話 秋の夜長 その2
あたしは解剖中の感情などをオフにしているから、あまり記憶ははっきりしないが、医学生たちは時々教授と呼ばれる年取った人に、いろいろ質問攻めにあう日があるようだった。
ディーによると、それを諮問と言うらしい。
「あー、あれね。かわいそうに、まーたドーテーくんがいじめられるなー、キャハハハッ」
ディーは、とてもかわいそうとは思ってい無さそうな声音で笑い、相好を崩している。
「え、彼っていじめられてるの?」
「まーね。明らかに教授ってやつに目をつけられていて、この前なんか、『お前の作業をずっと見ていたが、1時間経ってこれだけしか腱を露出できんのか!?』って皆の前で罵倒されちゃってね。泣きそうだったよ。
もっとも、彼がバカ話ばっかりしてたのも悪いんだけど、他の人に比べると明らかに手元がお留守でさ。一言でいうと『要領が悪い』ってやつだろうね」
ディーはさすがに少し憐れみを帯びた口調になる。あたしもちょっとだけドーテーくんが気の毒になってきた。
話を聞く限りでは悪い奴じゃなさそうだし、いろいろと不器用なんだろう。
あたしもディーと一緒にいると、未熟なことを思い知らされるし、まだまだ勉強しなければと反省した。
「でも、時々ボクは、彼らが無性にうらやましくなる。
怪我や病気で困っている人を救えるってのは凄く素敵なことだと思うよ。
ボクも、もしここを脱出出来たらそんな仕事をしてみたいって常々考えているんだ。
世界には、ボクたちみたいな社会から見捨てられた人間がひしめいているし、そんな人たちを助けてやりたい。
それこそボクがこの地上に生を受けた意味じゃないかって気がする。
ま、今まで学んだ知識を試してみたいってのもあるけどね」
ディーはいつの間にやら熱く夢を語っていた。
世の中が助けてくれない人々を救うために医者になる……それはあたしのちょっと後ろ向きな心にも、やってみたいと思わせる何かがあった。だが……。
「でも、あたしたちって、医師国家試験って受けれるのかな?」
「さぁ、どうだろう? でも、もし断られたら、更衣室にあった漫画みたいに、偽医者になればいいんだって! きっとボクたちなら本物以上に上手くやれるよ!」
「あんたねぇ……」
その時、急にガンガンガンと、外の鉄製の階段を上る荒々しい足音が聞えてきた。
「あれ、守衛ならさっき来たばかりなのに……どうしよう、ディー!?」
「それも一人じゃなく、複数人みたいだね。いったい誰だろう?」
「とりあえず、元の位置に戻りましょう! 時間がないよ!」
「そうだね。ケイのボタンは押さずにおいておくよ。
ひょっとしたら泥棒さんかもしれないしね。いいかい、寝たふりして、動いちゃだめだぜぃ」
あたしたちがひそひそ話をしている間にも、入口のドアを開く音が聞こえ、ガヤガヤという話声まで響いてくる。
やがて一同はどこかの部屋に入ったようで、すこし声は遠ざかった。
「どうやら医学生のようだね。たぶん更衣室で白衣に着替えているんだよ。
どこかで聞いたような声だったし」
ステンレスの台をずりずり動いて移動中のディーが、そっと囁く。
なるほど、それなら鍵を開けられるのも頷ける。
きっとどこかでマスターキーかなんかをちょろまかしてきたのだろう。
「で、でも、こんな夜更けに実習する気なの?」
「さっき君が言ってたじゃないか。明日、諮問だって」
「あっ、そうか!」
あたしは思わず大声を上げそうになり、慌てて押し黙る。
「どうも彼らは諮問の積み重ねが成績に影響するらしく、点が悪い奴は留年、つまりもう一度この学年をやるはめになるらしい。
隅の方で陰鬱な班があるんだけど、あれが留年班だっていう噂話を聞いたことがあるんだ」
「へぇー、そりゃ必死にもなるわね」
「静かにして、来たよ!」
その時ギィっという音とともに、外から一陣の風が吹き込み、腐臭に満ちた空気を洗い流していく。
カツカツという足音とともに、「ちくしょう、何で予習なんかやらなきゃいけないんだ!」という怒鳴り声が飛び込んできた。
「……ドーテーくん!?」
なんと、静かにしろと言ったばかりのディーが、小さなうめき声をあげ、あたしはびっくりした。この易怒的男がドーテーくんだって!?
幸いディーの声は靴音にかき消され、闖入者の耳には届かなかったとみえ、二人は止まることなくこちらへまっすぐ向かってくる。
「まあまあ、そういうなって、付き合ってくれよ。お前も赤点間際だろうが」というもう一人の男の声が耳元に近付く。
ドクンっと鼓動が他人に聞こえそうなくらい、激しく打ち出す。
あたしは必至で片手で胸を抑え、嵐が過ぎ去るのを祈るばかりだった。




