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第三十話 薬

 相変わらず、診察室は沈黙に支配されていた。


 まるで臨終間際の患者の病室のように陰気に静まり返り、誰も発する言葉を持たなかった。


 中村氏の妻・直子さんの小さな嗚咽だけが、時々しゃっくりのように木魂していた。


「何故……こんなことを?」


 沈黙を破ったのは、中村氏だった。途方に暮れた顔で、どこか遠くを見るようなまなざしを、直子さんに投げかけている。


 まるで家族がまったくのアカの他人かもしれないという、カプグラ妄想に侵された患者のような目付きだ。


 ようやく泣き止みつつある妻は、まだ時折ひく、ひく、と喉をひくつかせていたが、まだ蠢いているその白い喉元から、地の底から響くような陰鬱なとどろきを発した。


「何故って……あなた、忘れたの? 以前私に手を振り上げた時のことを……」


「あ、ああ、もちろん覚えているとも。


 ただ、あの時は酔っぱらっていて、ちょっと気が大きくなっていたんだ。あの後ちゃんと謝ったじゃないか」


 中村氏の声が急に弱気になる。妻はそんな夫に対して刺すような視線を放ち、怨念のこもった言葉を投げかける。


「ええ、確かにあなたは謝ってくれた。


 でも普段からあなたは暴力を振るわないまでも、怒鳴ることがあったし、私はそのたびに不安だったのよ。また暴力を振るわれるんじゃないかって!


 しかも栄養剤だと偽って、てんかんの薬を飲んでいることまで私に隠していた。


 そんな病気があるなんてなんで教えてくれないのよ!」


「それは誤解だよ! 確かに嘘をついていたのは悪かったけど、本当にてんかんじゃないんだ!」


 中村氏は必至で反論するも、直子さんの耳には届かなかったようだ。


「さーて、どうだか。私に弱みを握られるのが怖かったんじゃないの?


 しょせんあなたなんて、私の父親に財産があるから結婚しただけだし、離婚されるのが嫌だったんでしょ?


 でも、そういうことなら私だって黙って見過ごせないわ。


 また突発的に私を殴っても嫌だし、それくらいなら先に、死なないまでも、交通事故でも起こして動けなくなってしまえばいいって……ぁぁぁぁぁあああああああああああああ!」


「そ、そんなことを考えていたのか……」


 再び号泣しくずおれる直子さんを見下ろし、皆呪詛にかけられたように身動き一つ出来なかった。


 普段は諧謔的な、乙女さんやネズミ、矢田も、沈痛な面持ちで立ち尽くしている。


 かくいう僕も、どういう言葉をかけて慰めればいいのか、何一つ思い付かなかった。


「奥さん、抗てんかん薬の別名って知ってます?」


 ただ一人、まるでテレビのベテラン司会者みたいな口振りで、優しく問いかける者がいた。一同の視線が集中する。


 白衣を纏った楓が、聖母マリアの如く慈悲の笑みを浮かべ、純白の百合のように、先程の白い容器を捧げ持っていた。


「い、いいえ……」


 一瞬泣き止んだ直子さんが、やや疲れた声で返事をする。だが僕にはわかった。


 そうだ。これこそがこの事件(?)の肝だ。


「全てではないが、抗てんかん薬の多くは、躁状態を抑える効果があり、気分安定薬と呼ばれている。カルバマゼピンとか、バルプロ酸なんかがね。


 これらは双極性障害などの疾患によく用いられる。旦那さんが現在通っているクリニックってのは、心療内科系なのでは?」


「え、ええ、その通りです!」


 中村氏の双眸に、突然生気が蘇る。いつの間にか涙を止めた奥さんも、黙って静かに聞いていた。


「旦那さんは自分の怒りっぽいのを自覚しており、なんとか改善したいと思っていた。きっとアンガー・コントロールの本なんかも読んだかもしれない。


 でもあまり効果がなく、心療内科の門を叩き、そこでこのバルプロ酸ナトリウムシロップを処方された、ってとこじゃないかな?」


「そうです。よく分かりますね……」


「ま、商売柄、ね」


 もうこうなると楓先生の独壇場だ。講談師よろしく見てきたかのように滑らかに喋る。


 医者というのは古来教師や呪術師の側面も持っていたというが、素晴らしい語り口だ。


「じゃ、じゃあ、そのお薬を飲んでいたのは、てんかんの治療のためではなかったんですか?」


 涙を拭きつつ訥々と話す直子さん。


「ええ、全てあなたへの贖罪のためだ、奥さん。だけどそんなこと格好悪かったんで、栄養剤だなんて嘘を言っちゃったんでしょう?」


「御見それしました……」


 一同まさに、印籠の前に跪く悪代官とその一味の如く、楓の演説に圧倒されていた。


「旦那さん、奥さん、というわけで、ここは俺の顔も立てて、仲直りしてくれないかな? 


 こんなことで警察沙汰にしたくはないし、今のところ旦那さんも無事なんでね。


 車はだいぶがたがきちゃったけど、まあこれを機会に買い替えればよろしい、てとこでどうです?」


 楓はこう話を締めくくると、満面の営業用スマイルを浮かべる。


 途端に場の空気が弛緩し、全員緊張感の糸から解き放たれたように喋り出す。


「で、でも、こんなことをしでかしてしまった私なんかを、許してくれるの、あなた……?」


 とまたもや涙ぐむ直子さんに向かって、「そんな、自分こそ怒鳴ったり、手を出してしまって本当にごめん。


 これからもっともっと気を付けるし、酒も飲まない。


 それに俺が好きなのは、お前の財産なんかじゃなくって、お前自身なんだ! だからこちらこそ、許してくれ!」と懺悔する中村氏。


「やっぱり夫婦は円満が一番よ~。良かったわ~。私も早くソーセージちゃんと再婚しなくっちゃ~」と呆け全開の乙女婆さんに対し、「僕と言うものがありながらなんてことをマダム! 一緒に風呂に入った仲じゃありませんか!」と通報レベルの台詞をのたまうモジャ公。


「よーし、腹ごなしに昼飯は寿司でも取るかーっ! 皆、今日は俺のおごりだーっ!」とやけに気前のいい楓。


 そんな中で、中村氏の息子さんと、いつもはうるさいネズミだけが、相変わらず彫像のように押し黙っていたのが気になった。


 ま、僕だって別にはしゃいでいたわけではないんだけど。

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