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第二十八話 ランチャーム

「まず奥さん、今までにこれを見たことは?」


 楓は例の白い薬の容器を、中村氏の妻の前にそっと差し出す。


「ええ、最近朝食後に夫がいつも飲んでいるので……本人は栄養剤だとか言っていましたけど」


「なるほど、で、中村さん、あなたは帰宅したら、いつもスーツを自分で片付けているのかな?」


「いえ、妻に渡して片付けてもらっています」


「ふむふむ、では奥さん、あなたはこの容器に触ったことはある?」


「さあ、特にないと思いますけど……」


「ふーむ……」


 再び考え込む楓。僕は再び胸騒ぎを感じる。


「楓様、検査結果出ましたーっ!」


 皆が黙りこくっていた時、ドタドタという元気な足音とともに、ネズミが検査伝票を、合戦後の戦国武将がぶらさげる生首よろしく腰に引っさげて帰ってきた。


 どうやらエプロンの隙間に挟み込んできたらしい。


「おお、早かったな」


 さっそく伝票を速読した楓は、「想像通り」と、ニヤリと邪悪に微笑み、凄いドヤ顔になった。


「今、ようやく中村さんの採血結果が出たが、それによると、バルプロ酸ナトリウム濃度がどうみても低い。


 あなたの言われる量のシロップを、毎日欠かさず飲まれているわりにはね」


「そ、それはどういう意味なんです!?」


 中村さんの表情が幾分気色ばむ。何やら不穏な空気が室内に満ちてきた。


 こういう時、空気を読めないバカは何をしているのか気になってちらりと様子をうかがうと、なんと奴は中村乙女さんと隅で話し込んでいた。


「なんてあなたは綺麗な人だ……。


 先程あなたの麗しいお背中をお流した時、実は興奮して手が震えていたんですよ……」


「あら~、どうしましょう~、でも、私はソーセージちゃん一筋なのよ~」


 駄目だ、こいつら、早く何とかしないと……。


 と僕がバカどもに気を取られているうちに、楓は検査結果を一堂に披露していた。確かに血中濃度はやけに低い。予想通りだ。


「血中濃度はその時の体調によっても変化するが、ここまで極端に変わることはない。これは明らかに人為的な悪意を感じる。


 何者かがこの薬にこっそり水を入れ、薄めていたのだ!


 実はさっき容器の中身も調べてもらったのだが、表示濃度より明らかに低かったんだよ」


 楓はいつの間にか、興奮していつもの調子に戻っている。こういう時は説得力があって良いかもしれないけど。


「で、でも、何のために!?」


「何の為にって、あなたに発作を起こさせ、事故で殺すために決まっているだろう!


 実際たった今、あなたは重責発作に陥っていたじゃないか!」


「いや、しかし、自分はてんかんじゃないんです!


 発作なんか起こすわけないじゃないですか!」


 中村氏が悲痛な声を上げる。


「えっ、てんかんでもないのに、抗てんかん薬を飲まれていたんですか!?」


 ネズミも狐に騙されたような顔をしている、て言葉にするとなんだかややこしいな。


「驚くのももっともだが、実は、この薬は恐ろしいことに、しばらく飲み続け、濃度が高まっているときに急激に減量するか、もしくは中止すると、離脱症状として、てんかん様の発作を起こすことが往々にしてあるのだよ。あまり知られていないことではあるが」


「そ、そんな……!」


「もっとも、てんかんで飲んでいる人が、急に減量しても、てんかん発作を起こしやすくなる点では一緒なので、犯人が先程説明した薬の特性を知っていて行ったのかどうかは不明だがな」


「……」


「ところでおたくは、燃えないゴミの日はいつかな?」


 急に楓が変なことを問い質した。


「はぁ!? い、いえ、知ってますけど、来週の水曜日ですが、それがどうかしたんですか?」と狼狽しながらも答える中村氏。僕も質問の趣旨が良く分からない。


「ま、これが意外と重要なんでね。ね、奥さん?」


「さあ、何のことですか? 私には分かりかねますが……」


「じゃあ、こう言い変えようか。ランチャームって知ってます?」


 途端に中村氏の妻の顔色が、瑠璃のような真っ青に変わる。ど、どういうことだってばよ!?


 ランチャームとはどこかで聞いたような単語だが、さっぱり思い出せない。


 シーザーが波紋を練り上げて石鹸水から作り出した……ってそれはシャボンランチャーだっ!


「今、あなたの家のゴミ箱に残っているそれを調べれば、一発で全てが分かるはずだ。


 例えこの容器には指紋を残さず注意深く作業したとしても、使い捨てのランチャームになぞ気を回さないだろうからな。


 そしてその中を調べれば、バルプロ酸ナトリウムが検出される可能性もあるだろう。


 あなたがランチャームを捨てずにわざわざ取っておいたのは、後からスポイト代わりに使うためだったんじゃないのか?」


「ど、どうしてランチャームのことを……!」


「昨日、そこのソーセージ……じゃなくて介護ロボットが、乙女さんから聞いたおたくの食卓話を教えてくれたんだ。


 それでピンときたよ。なんでこんないい服を着ている奥さんが、わざわざみみっちい真似をしたのかって考えたらね」


 楓の名調子はとまらなそうだが、一つ気になった僕は、話の途中で悪いけど水を差した。


「あのー、楓、僕昨日、そんなこと言いましたっけ?」


「今一番いいとこなんだから邪魔すんなこの腐れまるぶとハムめ!


 おまえが中村さんちの寿司桶の話をしたんだろーが!


 あとカレー付けた俺の白衣弁償しろ!」


「ああ、ランチャームって、ひょっとして……」


「なんだ、今頃わかったのか。お前でも知らないことがあったんだな」


 楓はいじめっ子の顔で、憎たらしげにほくそ笑んだ。


「そうだよ、醤油入れのお魚さんのことだ!」


「じゃあ、薬を薄めた人っていうのは……」


「……あなた、ごめんなさい」


 急に奥さんがへなへなとその場に頽れる。


「ま、まさか、直子……」


 中村氏がベッドから跳ね起き、奥さんを抱きかかえる。おっと、点滴が抜けそうだ。


「ええ、私がやりました……ぁぁぁぁぁああああああああ!」


 診察室は、彼女の深い慟哭に包まれ、世界の果てのような絶望に押し潰される。


 重苦しい雰囲気の中、僕たちは、ただ無言でその様を見詰めることしか出来なかった。


 外では疲れ知らずの雲が、無尽蔵なぼた雪の大群を魚の産卵の如く吐き出し続け、ややグレーがかった外の事故現場も、更なる白に覆い隠されていった。

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