第二十話 ちんちん
「やれやれ、昨晩はひどい目にあったな」
ぽりぽりとコーヒー味のカロリーメイトをかじりながら、地元紙の朝刊を読んでいた楓がぼやく。
「まったくですね」
僕も、擦りたくても擦れない寝ぼけ眼をなんとか開けながら、呟いた。
昨晩からの雪はまだ降り続いており、やむ気配はない。曇天模様の空と同じく、僕たちは寝不足の腫れぼったい陰気な顔で、居間で食卓を囲んでいた。
今朝はいつもより遅く起きたんだけど、眠くて仕方がない。
先程玄関でチャイムの音がしたような気がするけれど、デイサービスは今日は午後からなのになーとか思いながらまどろんでいた。きっとネズミが対応しているだろうけど。
「まず、あの男の発する言語が理解できん。あれは一体何語なんだ?」
楓が朝刊のテレビ欄を見ながら、不機嫌な声を投げかける。
「いや、だから富山弁だと思いますけど、確かに翻訳が難しいときがありますね」
「あれを聞いていると頭が痛くなってくる。まだ呆け老人の話の方が分かりやすいぞ。翻訳コンニャクを朝飯に食わせろ!」
「ないですよ! って、そこまで言わなくてもいいと思いますけど……」
「まいどはや~」
カチャッとドアを開けて、話題の中心人物が、空気も読まずに入ってきた。
鳥の巣のようなもじゃもじゃ頭は相変わらずだが、いつの間にやら髭を剃って、だいぶすっきりしている。ややほっそりした大泉洋といったところか。
「な、何だって?」
さっそく理解不能な挨拶に直面した楓がうろたえる。
「きんのはどうも、泊めていただいて、きのどくなございましたっちゃ」
空気を読めない男、すなわち矢田は、楓の発言など無視して、深々と頭を下げた。長い髪が食卓の醤油入れに当たりそうで、非常に心臓に悪い。
「い、いや、そんなに気を遣わなくてもいいぞ」
「そいで、こんなことをたのんこっちゃするのはまことにすまんですが、しばらく泊めてもらえませんか?」
「……」
楓は苦み走った顔で、カロリーメイトに節分の恵方巻きのようにガブッと齧り付き、何も言わなかった。
「いや~、ご迷惑なのは、重々承知しておるがいけど、財布をうしなかしてしまって路銀がないんやがいちゃ。雪がもうちょっこおさまるまででいいでっから」
矢田は楓の般若のような形相にもおかまいなしに、相変わらずマイペースで話し続けている。僕はこの場にいることが、だんだん苦痛になってきた。
もうすぐ核実験があるかもしれないのに、住み慣れた家を離れることが出来ない住民の気分で、胃が痛くなってくる。何とかこのバカを黙らせる方法はないものか?
「そ、そういえばネズミは何をしているんでしょうね? 今朝はまだ姿を見ませんが……」
僕は話題を変えようと、会話の途中で割り込んだ。
「忘れたのか? 今日は入浴日だから、今入所者を風呂に放り込んでいる真っ最中だろう」
楓が冷酷な眼差しを僕に向け、冷たく言い放つ。
「そ、そうでしたね、ど忘れしてました」
本当だ。確かに今日は週二回の風呂の日だった。普通に入浴できる人は皆無なので、いつもネズミが入所者全員を風呂に入れ、介助している。
結構な重労働で、午前中が潰れてしまうため、風呂日のデイサービスは午後だけだ。
「あれ、風呂ならさっきおわがこうりゃくして、ちょーど終わったところやが?」
「こ……こうりゃく?」
「手伝うって意味やが。おわ、お年寄りがでー好きだから、とっても楽しかったちゃ。
ひっちんちんのお湯やったけど、皆よろこんでいたちゃ」
「ち……ちんちんだと!?」
「熱いって意味だちゃ。まったく、話が進まんたーたやぜ」
「き……貴様っ!」
真っ赤な顔でカロリーメイトを握りしめ、いや、握りつぶしてゴミ屑に変えた楓が、爆発寸前となったまさにその時、どたどたという足音とともに、ドアを開けてネズミが走り込んできた。僕は救世主が降臨した瞬間を目撃した。
「皆さーん、お早うございまーす!
今日は矢田さんのおかげでもう入浴が終わって、本当に助かりましたよー!」
「なーん、気にしられんな」
「ほ、本当にもう終わったのか!? まだ9時だぞ?」
ネズミの登場で、急に毒気を抜かれたようになった楓が、驚きの声を上げる。確かに早い。
「いやー、男の人って本当に力持ちさんですねー!
太っておられるんでいつもなら苦労する高橋さんも、あんなに軽々と入れて下さって、とっても言葉では言い表せないくらい感謝していますよ! これこのとおり!」
なんと床の上に正座して土下座までしだすネズミ。冷たくないのか? それともこれは、冷やし土下座というやつか?
「いんやー、そげに言わんでもいいっちゃ。ちんちんかきなさんな」
「ち……ちんちんだと!?」
「正座って意味だちゃ」
そろそろ本格的に翻訳機の導入を検討したくなってくる会話だったが、先程よりも明らかに雰囲気は和やかになってきている。
僕は少しほっとして、冷めてきた食事に口を付けた。




