表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/11

注意 女性に対する暴力表現があります。嫌いな方は気をつけて。

「高いなぁ……!」


北兎の毛皮にすっぽりと身を包んで、飛龍の背に乗り――リュイは、はしゃいだ。

眼下、山あいに自分たちの集落を見つけて思わず指をさす。


「叔父さんの家だ……!」


白壁に、青みがかった屋根の家。

本宅と離れとがちょこんと玩具の箱のように、仲よさ気に並んでいて、なんともかわいらしい風情だ。

少年のように声を弾ませたリュイの背後で、ジェンミンが笑った。


「おお、本当だ。よくわかったな」

「目はいいんですよ、僕。……あれが、僕たちの家かな」


村の集落から、ぽつんと離れて一つある家……。あれが、イファとリュイの家だろう。リュイはそこも指差して、ふ、と口元を綻ばせた。


「小さい」


己の家だけでなく、視界に飛び込む、全てが小さい。

リュイの村はルアンの北に位置していて、高い山の合間にある。そう、知識としては知っていたが……ずいぶんと高い土地にあるものだ。


そして、高い空から見渡せば、広いように思っていた村の、なんと狭い事だろう。


伸ばした手の先を広げて、掴んで、それから、押し潰してしまえそうだ。


あの小さな世界が、リュイの全てだ。


(いいや、……全てだった)


リュイは伸ばした手の先を愛おしむように、ゆるりと握りこむ。


「ねぇ、ジェンミン様」

「なんだ」

「……結婚の話は、どこまでが本気だったんですか?」

ジェンミンは、うん?と斜め上を見る。

「段々、イファも呆れてましたよ――『あの人、遠路はるばる、碁を打ちに来ただけなんじゃないの?』って」


ジェンミンはとぼけた顔をしていたが、やがてくつくつと喉を鳴らして笑い出した。

ぽん、とリュイの肩を叩く。


「……俺の戸籍にイファがいるのは本当だよ。領主の件もな。父が出した命の馬鹿さ加減に呆れて、さっさと籍を抜こうと思ったが……父が旅費を出すと言うし、ユイの娘なら会ってみたいと思って……考えなおしたんだ」

「無理にイファを、連れて帰る気はなかったんですか?」

「俺もいい年だから、イファが同意してくれるなら、連れ帰って妻にするのも、よかったが」


ジェンミンは優しい目をした。


「残念ながら、イファには、リュイが好きだからとフラれてしまった」


すこしも残念そうでなく、むしろ楽しげなジェンミンに、リュイも釣られる。おかしな貴人だ。おおらかと言うか、いい加減と言うか。

ジェンミンは笑顔のまま、続ける。


「――俺のすぐ下の弟は馬鹿がつくほど真面目な男で、新婚だ。そのうえ官吏をやっていると来ている。遊び人の俺よりも余程、領主には適任だ……本当は領主になりたいだろうに、母の身分が低いからと正妻腹の俺に、遠慮しているんだ」

「……初めから、弟君に譲るつもりだったんですか?」


ジェンミンは首をかしげた。


「ううん、どうかな。そこまで無欲でもないぞ?――俺は領主には向かんが、ユイの娘が、俺の妻になってくれるなら、転がり込んで来る領主の椅子に座るのも、楽しかろうと思ったんだ……まぁ、賭けだな。イファが来てくれるなら継ぐもよし。無理なら諦めようかと」

「いい加減だなぁ」


だろう、とジェンミンはなおも上機嫌に、目を細めた。


「……だが、イファに断られたところを見ると、やはり領主には縁がなかったらしい……いい加減な事を考える輩には、そうそう運は向かんということだ、残念なことに」


口調と裏腹、全く悔いがなさそうな様子にリュイは半ば呆れて、はは、と笑った。本当に、変な人だ。どこまでが本気で真実か、よくわからない。なんだか、憎めないけれど。


「ユイの娘が元気そうで、よかった」


その言葉だけは本当なのだろう。真摯な声音で言い、ジェンミンは微笑んだ。

ユイ、とリュイは口の中で繰り返す。

イファの母の名だ。リュイも存命中の彼女に会ったことがあるはずだが、幼なすぎて、記憶にはない。


「……ユイさんは、ジェンミン様にとって大切な方だったんですか?」


ジェンミンは懐かしむようにふと黙り込み、遠い目をする。


「優しい娘で、俺は姉のように思っていたよ。元は身分ある士人の娘だったが放蕩者の身内の借金のカタとして、我が父に嫁ぐ筈だったんだ……紆余曲折あって借金を返して、父は袖にされてな?あんないい娘が父の嫁にならずに済んで、俺は……正直安堵した。父は蓄財の才はあるが、男としては、まあ、最悪な部類でな」

「困った人なんですか?」

このやりとりは、以前にもした気がする。

「かなりな。しかし、あれでも父なので、なかなか縁が切れん」


あんまりな言い草に笑った途端、咳が出た。ジェンミンはいかんな、と呟いて上空を旋回する。戻ろう、と告げた。

残念に思いながらも、背中にわずかばかり悪寒がする。これまでだな、とリュイはぎゅ、と拳をにぎりしめた。

見る間に、近づいていく村を眺めながら、リュイはぽつり、と言った。


「ジェンミン様……イファを、このまま、連れ帰ってくれませんか。ルアンは、危ない。……きっと危なくなる」

ジェンミンは穏やかに、首を振る。

「イファには断られたよ、リュイ」

「だけど、ルアンは貴人に冷たい国です。イファにはきっと、暮らしづらくなる」

「お前が守ってやればいいじゃないか」

明るい口調に「そんなこと!」と強い口調で返してから、リュイはしおしおと、萎れた。


本当は、ずっとイファの側にいて、守ってやりたい。


いいや、本音は違う。


守ってやるとか、そんな偉そうな事でなくて、ただただ、彼女と一緒に在りたいだけ。

情けないことに、本音を突き詰めれば、ただ、それだけだった。


ずっと側に居てほしい。

死ぬまで、居てほしい。

ひとりきりは、寂しい。


だから、婚姻でイファを縛った。

義理がたく優しいイファが、リュイという病がちな寂しい男を死ぬまで見捨てずにいてくれるように。

……死んだ後も、覚えててくれるように。


彼女がどんなに危険でも、本当は手放したくない――けれど、ジェンミンにイファを連れて逃げてほしい。


ぐちゃぐちゃと整理仕切れぬ感情が胸の奥で混ざって、息苦しい。

リュイにとって、子供の頃から、死は隣り合わせだった。

そう遠くないうちに死ぬだろうからと、出来る限り人にもモノにも執着は持たぬよう、感情は波立たせぬようにして来た。


だから、きっと、自分は、綺麗に静かに死ねる気がしていた。けれど、そんなのは全くの錯覚だった。驕りだった。

どう過ごして生きたって、執着は残るのだ。

人生にも、妻にも。


(未練だらけだよ――)


「……僕はもう、永くはないでしょう。それでも、僕がいるうちはイファを庇ってやれる……僕に甘い叔父も、僕を憐れんで、イファを守ってくれる。だけど、僕がいなくなった後で……イファがどうなるか……だからイファを、どうか……助けて」


つとめて理性的にしゃべるリュイを見ていたジェンミンは何か言いかけ、つと、顔をあげた。


「どうしました?」

「妙だな。――リュイの家の門が空いている」


促され、リュイは家の方角を見る。

二人が家を出たときは門扉は閉められて居た。イファは几帳面な性質だから来客があれば、出迎えて門扉をきっちりと閉めて行くだろう。


「誰か、来たのかな」

こんな雪の日に?――何やら、胸騒ぎがする。

「急ごう。しっかり捕まっていろよ」


ジェンミンが笑顔を消す。

琥珀の瞳がきらりと光って刃のように見えた。






イファは、震える指で役人二人に茶を出した。熱い湯をそのまま注いだせいで、美味くはないだろう。


(ビンワがくれた茶葉だったのに)

花のような香気が漂う、優しい茶はイファの好みにあった。

(それをこんな奴らに出さなきゃ、よかった)

役人は乱暴に湯のみを掴むと一口含んでまずい、と床に投げつけた。


「きゃ」


破片が飛んだ先にスーメイが居て、彼女は身を竦める。

怯えた幼なじみに、思わず駆け寄ろうとすると、もう一人の役人が、イファに足をひっかけ、無様に転んで受け身を取れずに頬をしたたか打ち付ける。

思わず悲鳴をあげたイファを二人はゲラゲラと笑った。

イファは、悔しさに歯噛みした。


「奥さん、旦那とラン国の野郎はいつ帰ってくるって?」

髪を掴んで無理矢理起こされる。

「しり、ません!そんなひと、いな……つぅ!」

髪を乱暴に離されて、また、床に打ち付けられる。

痛みより、恐怖に身がすくんだ。


スーメイが両手を組んで身を屈めた。床にこすりつけるように頭を下げる。


「お、お役人さまっ、私は単にこの村の住民です。この家とは関係ありません、も、もう行ってもよろしいですか!」

役人は、ふん、と鼻を鳴らした。

「構わないが、後で寄ってくれよ?後片付けをしてもらわなきゃ、ならない」


スーメイは怖々立ち上がると、まろぶように部屋を出て行った。

イファは背筋が凍った。


(……後片付け、何の?)


恐る恐る、二人が腰にさした刀を見る。この村では見かけない――ジェンミンが持っていたものは除いて――長い刀だ。

脅しだ。脅しに決まっている。

いくら役人とは言え、村長の甥とその妻に乱暴を働けるわけもない。けれど、本当にイファを害するつもり、だったら?

それが許される触れが出ていたらどうしよう。恐ろしさに、震えた。


「お、お役人さま、どうかお許しください……私はルアン人です、本当です。この目がお気に触ったなら謝ります。だから、どうか……夫や客人にはひどいことを、しないで……」


イファが震える声で言うと、二人は顔を見合わせた。


「だってよ、どうする?」

筋骨逞しい男が、灰色の髪をした男に問うた。

「口でならなんとでも言えるさ。なぁ、あんたが本当にルアン人なら」

「本当です!ラン国になんて知り合いの一人だって居ないのよ!ルアン人以外の何者でもないから!」

言葉を遮って叫んだイファをニヤニヤと下卑た目で見て、しゃがみ込む。

イファの怯えた目線を合わせて、囁いた。


「俺達は、御役目の長旅で疲れててなぁ。ろくな喰いもんもないし、王都までの路銀もつきそうだ。あんたが本当にルアンの民なら、役人(おれたち)に尽くして貰わなきゃあ、困る」


金か。


イファはぎりり、と唇を噛んで、それでも箪笥を指さした。

「そこの、二段目に……」

男達は上機嫌でイファを突き倒すと、箪笥を漁りはじめた。涙で滲んだ瞳で見上げていると、



「何をしている?」



低い静かな声が扉から聞こえて来た。イファと役人達が弾かれたように、顔をあげる。


「イファ……!」

リュイが叫んでイファに駆け寄り、妻を抱きとめた。庇うように背にイファを置いて立ち上がる。


「ようやく、お帰りか。貴様、貴人だな?何の許可があって、この村にいる!」

「そうだとも、ラン国人の移動は許可されない!神妙にしろ、役所に突き出してやる」


ふんぞり帰った男達の袖には、イファが貯め込んでいた硬貨を数珠繋ぎにしたものが入っている。じゃらりと音を鳴らして恥じない不埒者を、殴ってやりたい、と悔しく睨みつけたとき、ジェンミンが、リュイとイファを背にして二人に対峙し――――くつくつと笑い出した。


「許可なく?それは違うな。ほら」


ジェンミンは、通行手形を出して卓に置いた。イファが覗き込むと、ルアンの文字が読め、さらにはジェンミンの氏名も書いてある。

二人の男は、戸惑ったように顔を見合わせた。


「字が読めるなら、わかるだろう。それは、ルアンの正式な通行手形だ。ルアンの王都で正式に発行された印がある。さて、お二方、何の罪で俺の訪問を妨げる?どこの役所の許可あって我が同胞の娘を傷つけた?」


「触書だ…、触書に、書いてある。ラン国人には何をしても、よいと」


はぁ、とジェンミンは溜息をついた。


「触書の内容は、正確にはこうだ。ラン国人に限らず、五人以上の異国人のルアン国内での集会を禁ず。異国人の移動と長期滞在を禁ず、ただし一日一両以上を使う者はこの限りではない、とな。何のために俺が、湯水のように散財していたと思うんだ」


ジェンミンを、馬鹿みたいに金を使う浪費家だと思っていたイファは、痛みを忘れて彼をまじまじと見つめた。

彼の金払いの良さには、そんな理由があったのか。


「国同士の小競り合いが始まろうと、そう、すぐには規制を厳しくは出来ぬものだよ――猶予期間と言うものがある。まあ、この調子ではすぐに厳しくなるやもしれんがな。……雛びた村の民ならともかく、役人がこれを知らぬ事は有り得ぬ……ははぁ、さてはお前達、偽物だな?」


シュリン、と軽やかな音がしてジェンミンが刀を抜いた。白刀が煌めく。鏡のように磨かれた刃に、怯んだ役人二人の顔が映る。


「なんだと?俺達を馬鹿にするのか、化物の分際で!」


いきり立った二人が、腰の刀を抜く。ジェンミンは馬鹿にしきった表情を浮かべた。


「お前達を偽物だと断じるのは、何もお前達が馬鹿だからではないぞ……ルアンの役人が地方へ派遣されるとき、普通は三人で行動するものだ。――この国では、ルアンの三公、それぞれが軍を持つからな?役人に癒着があってはまずい。だから一公の軍それぞれが、人を配する」


役人二人は、あっと息を呑んで、イファとリュイは思わず顔を見合わせた。軍に、そんな、決まりがあったのか。異国とは言えさすがにジェンミンは士人だ。国の決まり事に詳しい。


役人は頬を引き攣らせて、刀を構え直した。

「……生意気な野郎だ、あと一人は旅の途中で急用があって一足先にけぇったんだよ!」

男の反論に、片割れもそうだ!と同意する。

やれやれ、とジェンミンは首を鳴らした。


男達は、二人がかりでジェンミンに斬りかかる。

数瞬あとの惨劇を予測して、イファは悲鳴を声をあげて、夫にしがみついた。リュイがイファを庇って抱きしめる。二人が息を止めた次の、瞬間、骨を砕く音がした。


何かが投げ飛ばされる大きな音に二人身を寄せ合って、耐える。音が止むと、悲鳴も、呻き声も聞こえずに、しん……と静寂が落ちてきた。


わずかな埃が部屋を舞い上がり、ぱらぱらと落ちていく。


怖々夫妻が目を開くと、静かになった客間に悠然とたった客人(じぇんみん)は、ごみを払うように己の手を二回打ち付け、ひっくり返って泡を吹いている二人に舌を出した。


阿呆(あほう)め。俺が、ルアンの軍規など知るわけがないだろう。三人一緒になど、出任せだよ」

「ジェンミン様……」


リュイに呼ばれて振り返り、ジェンミンはにこりと笑った。

「二人とも、大事ないか……イファは……痛むか?」

イファは首を振った。

「大丈夫です、これくらいなら自分で治せます。あの、ジェンミン様、ありがとうございました」


そうか、と、一息ついてジェンミンは荷物を背負う。伸びたままになっている二人を一瞥する。

リュイは、聞いた。


「この二人は――役人のように見えますが、本当に偽物なんですか?」

ジェンミンは頷いた。

「三人云々は俺の出鱈目だが、本物ではないだろうな……官服が偽物だ。第一、官位を示す徽章がどこにも見当たらない、それに幾ら敵国人を捕縛するからと言って役人が執行に当たって所属を名乗らないなど、まず有り得ない――奴らの自慢はそこだけだからな」 

リュイは詳しいんですね、と感心した。


「こいつらを、ここに置いておいては具合が悪いな……」

言うが早いか、気を失った役人もどき二人を、飛龍の背に乗せると、荷物のようにくくりつけた。

飛龍が重さに不満そうに鳴くのを「どうしても我慢出来なかったら途中でふりおとしていいから、な」と物騒に宥める。


「……リュイ、イファ」

二人は、事の成り行きについて行けずに、ジェンミンをみた。


「慌ただしい事はこのうえないが、調度いい。俺は、悪さをしたこいつらをルアンの役所に届けてから帰ろう」

「そんな」


ジェンミンはにかっと笑って飛龍に飛び嫌そうに首を振る龍を宥める。


「ジェンミン様」


思わず駆け寄ったイファに微笑みかけて、ジェンミンは尋ねた。


「イファ、最後にもう一度聞くぞ。俺と来ないか。ルアン国は危険だ。リュイと別れて、俺だけの妻にならないか」

リュイが息を止めて、妻と……ジェンミンを見つめた。

「行かない。リュイと一緒じゃなきゃ、死んでもいかない」

きっぱりと、即答だった。


ジェンミンは、二度もフラれてしまったなあ、とぼやいて、安堵したような、苦しそうな……、リュイを見た。


「――また遊びに来るよ……近いうちにな。リュイ、それまでは、石にしがみついてでも生きていろ、いいな?」


飛龍が、不満げになおも鳴いて、主を促す。ジェンミンは、すまんすまん、といいながら、軽やかに騎乗し、手綱を握った。


「ではな、我が妻と……その婿殿よ。また、会おう!」


別れの言葉を聞くことすらせずに、ジェンミンは空へと舞い上がる。

慌ただしい別れに、二人は呆気に取られてただ、フラフラと飛んで行く飛龍を、見ている。


スーメイが大急ぎで呼んできた村長とヒジョが、家の戸を蹴破る勢いでやってくるまで、イファとリュイはただ、ジェンミンの影を追っていた。








ラン国首都フーシェン。


その華街(はんかがい)の一画に位置する老舗の酒家、幻燈楼では、本日も慌ただしく人が立ち働いて居た。


髪を二つに分けて団子に結った店主のメイヨウは、店の真ん中に仁王立ちになると、男衆にあれこれと指示を飛ばしていた。


「チャン!さっさと仕込みは終わらせて、はやく酒屋に今夜の酒を取りに行ってきな!……ハオユー、さぼらない!掃除っ!」


店主(おに)がいないうちに、とのんびり噂話に興じて居た使用人二人は、ひぇ、っと怯えて瞬く間に仕事に戻る。

メイヨウは猫のように釣り上がった瞳で二人を睨むと、腕を組んでくるりと後ろを振り返った。


メイヨウの結った髪は黒、瞳は琥珀。


典型的な貴人の色味をした娘は歳の頃なら二十歳前の花盛りだが、使用人の誰よりも長く生きている。

平民(にんげん)のチャンもハオユーも、子供の頃からこの酒家の主の顔見知り……もっと言えば、おむつを替えて貰った恩義があるので、逆らいがたい。

散らばった男二人を見送り、メイヨウは残った使用人――否、居候を睨みつけ、彼が寝そべる長椅子を蹴飛ばした。


「旦那、寝たふりせずにさっさと起きてくださいな!」

男はやれやれと半身を起こした。

「メイヨウ、お前のキンキン声はもう少し、どうにかならねぇのか。煩くて昼寝も出来やしねぇ」

「黙れ、居候。起きろタダ飯喰(ぐらい)。もうお天道様も高いんだ、働いとくれ!」


居候の瞳は橙を(まぶ)した艶やかな金色(きん)

貴人だと一目でわかる特徴だが、この男の場合はすこしばかり他の貴人と様子が異なる。

肌の色は西国(たいす)の出自を示す茶をして、長く伸ばした髪はそれとは対照的な、雪のような白。

それを絹の黒紐で無造作にくくって後ろに流している。

ラン国の貴人の平均的な男性よりも頭半分背が高く、武芸者のような鍛えた身体をしていた。

顔つきもラン国の者ではない。――北山から来た、……異国に住まう、貴人だった。


彼が起き上がると一緒に寝ていたのか、まだ十にもならない幼女がむくりと起き上がった。

幼女もまた、貴人だろう、まざりけのない金色の目をぱしぱし、と眠そうに瞬いた。


「まぁ、シャオリン様!いらしてたんですか」

幼女はうむ、と頷く。


男は、傍らの幼女の髪を撫でながら、首をかしげた。


「オテントウサマ……初めて聞く言葉だな、どんな意味だ?」


苛々としたメイヨウは、そんなん後で調べな!と手に持った箒を男の横に振り下ろした。


「危ないな」

男が鼻にしわをよせて立ち上がる。

「俺の仕事は、用心棒なんだから、夜だろう。それまでは寝かせとけ。それに、宿代は払っているだろう」

再び寝転がる男に、メイヨウは(まなじり)を吊り上げた。

何が用心棒だ。大抵飲んだくれるか、常連客と盤上の遊戯に興じているだけだ。

メイヨウはビシッと箒で男を指した。


「払ってるのは、旦那じゃなくて、ジェンミン様ですからねっ!旦那は、た・だ・め・し・ぐ・ら・いっ!そこを、間違えないっ!」

男は涼しい顔でうそぶく。

「お前の懐に入る金額には代わりないだろう?奴の事だ、どうせ留守の間の分も、払って行ったんだろ?あいつが居ぬ間に、俺が使う。実に合理的だな、何が悪い?」


にこり、と甘く笑われてメイヨウのこめかみに青筋が走った。

そのご面相が、そんじょそこらで滅多にお目にかかれない程丁寧な造りなのがまた、腹が立つ。


幻燈楼は酒家だからメイヨウは若い娘を雇って華やかにやりたいのだが、このジェンミンの古なじみだという男が一年ほど前からジェンミンの借りる部屋に転がりこんだせいで、それもままならない。

雇う小娘共が皆、この野郎に熱を上げてしまって、仕事にならないのだ。


「いい年した爺が、昼間っから寝るなって言ってるんですよ!」

糞爺め、と声に出さずに全身で伝えると、男はああ、怖い、と怯えるふりをした。殴りたい。腹が立つ。


「爺だと、ひどいな、シャオリン。俺が爺ならお前さんは婆さんだ」

人形のように可愛らしいシャオリンは珊瑚の唇でうむ、と頷いた。


(わらわ)は、見た目に反して、ずいぶん年だからのう」

「まあ、シャオリン様。そんなつもりでは」

「よい、構わぬ」


おろおろとするメイヨウに、幼女は鷹揚に首を振る。シャオリンが幾つなのかは知らないが、とりあえずはメイヨウがまだ幼女の頃からこの姿でこの時代がかった口調を使っている。

メイヨウの母親も「シャオリン様」と呼んでいたので、おそらく、母親よりも年上だろう。


貴人の中でも珍しいほど年をとらない、そして恐ろしく高位の娘だった。


「今日は何用でこちらまで?」


メイヨウが険をおさめて聞くと、シャオリンは残念そうに呟いた。


「ジェンミンに遊んで貰おうと思って来たのじゃがなぁ」

可愛らしい幼女の悲しげな風情にまぁ、とメイヨウは吐息を漏らした。


「俺が居たからいいじゃねぇか、年寄り同士、仲良く遊ぼうぜ、婆さん」


無礼な言葉に、シャオリンは眉をしかめて男の秀麗な両頬をつまんで横にぎゅーっと引っ張った。


「ふぁにひやはる」

「黙りゃ、酒糟(さけかす)。切り刻んで白米の上に置くぞ?ジェンミンの厚意をかさにきて飲んだくれてばかりでよいと思うておるのか、メイヨウの言う通りじゃ、働かぬか」


そうだ、もっと言ってやれ!

優男の無様な姿を鼻で笑って溜飲を下げ、メイヨウはそれがね、と呟いた。


「それが、ジェンミン様は、ここ二月ばかり隣国(るあん)にお出かけなんですよ……おうちの集まりから帰ってくるなり、嫁が居たから貰って来る、って」


メイヨウは考え込んだ。

ジェンミンの事だからまた冗談口だとは思うのだが、ずいぶんと留守が長い。本当に嫁でも貰って来たらどうしよう、第一夫人には、あたしが成るつもりだったのに、と唇に手を当てる。


「心配なんですよねぇ」


考え込むメイヨウをぱちくりと見て、シャオリンは首を傾げた。飽きたのか男の頬から手を離すと、ぴょん、と椅子を飛び降りて、メイヨウを手招く。


「心配には及ばず、帰って来たようじゃ」

「え!本当ですか?」

やだ!あたし、こんな髪で、と途端に髪を整え出したメイヨウを白髪の男は呆れたように見た。

ちっ、と舌打ちする。

「どんな髪型だろうとたいして変わんねぇよ、しょせん、食えない団子に変わりねぇだろ」

「……何かお言いかえ、穀潰し」

喉元に凄まじい速さで箒の柄をつきつけられ、男は口の端をひくつかせた。


「……いつでも君は可愛いよ、メイヨウ」

「わかれば、結構ですよ、旦那」


二人がじゃれ合っているうちに、扉が勢いよく開けられて、酒家の居候その一、ソン・ジェンミンが現れた。


「ただいま戻った」


明るく言い、メイヨウがいつもより高く、しとやかな声でジェンミン様、お帰りなさいませ!と告げる。

ジェンミンは、メイヨウににこやかに笑いかけると、シャオリンを見つけて、これまた人懐こい顔で、破顔した。


「これは、シャオリン様!よかった、探しに行く手間が省けた」

幼女はうん?と首を傾げた。

「ジェンミンは、妾に用があったのか?」

うん、とジェンミンは頷く。

「シャオリン様にしか頼めぬ事だ。頼む、力を貸して欲しい」


それから、とだらしなく寝そべる居候の男に手を振った。


「よかった、イェン。お前もまだ居たな」

「暇だからな」

男――イェンがふん、と鼻を鳴らす。半身を起こして、ジェンミンに聞いた。

「そういや、お前――花嫁を連れて来るとか言ってなかったか。見たところ手ぶらなようだが。新婚早々逃げられたか?」

嘲りを意に介さず、ジェンミンは楽しそうに目を細めた。

「いいや、花嫁はちゃんといるぞ。――今から、迎えに行く。このまますぐに、ルアンに戻ろうと思っている」


え!とメイヨウが血相を変えて叫び声をあげたが、ジェンミンは気付かず、イェンは黙殺した。

シャオリンは興味ぶかそうにジェンミンの顔を覗き込みながら、イェンの膝の上にちょこん、と座って、おさまった。


「なぁ、イェン。お前、退屈は嫌いだろう?」

にかり、と笑う。

「死ぬほど、嫌いだ」

イェンは、片眉を器用にあげた。

「それはよい。そんなお前を見込んで頼みがある。俺とルアンに行かないか?」

「何をしに?」

「花嫁と――ついでにその婿を盗みに行こうと思ってな」


「はぁ?」

イェンは目を丸くし、シャオリンもポカンと口を開けた。


何か、どっかで見たことがある奴がいる!

と思って下さった方は、どうもありがとうございます…!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ