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イファの住まうルアン国と、ジェンミンの住むラン国の関係は、悪い。
理由はこの二つの国の成り立ちに原因がある。
元は、この二ヵ国は一つの国だった。
しかし、千年ほど前、「北山」から人ならざる一団が千の単位でファンへと降りて来た。
鬼人達だ。
異能を持つ彼等は瞬く間にルアンを占拠し、やがてルアンの北部を彼等の土地とした。
侵略者達は時のファン皇帝の軍と争い、数十年余。争いに倦んだ両軍は鬼人達がそれ以上の南下をしない事を条件に、皇帝が彼等の建国を許すという事で決着をみた。
そして時代が下るごとに――彼等は都の支配階級と婚姻によって繋がりを強くしていく。
鬼人達の長い寿命と異能は皇帝や有力貴族の地位を盤石にするのに、魅力的な要素だったからだ。そして何より鬼人の娘達の美しい姿は、権力者を悦ばせるに足る貢ぎ物だった。
世代をこえ、彼等の侵食は緩やかにすすんだ。
皇帝や都を囲む三候の一族で、鬼人……いや、貴人の血脈を全く継がないものはないだろうし、ラン国の貴人で純血種は一割に満たないだろう。ラン国内で貴人と平民の婚姻が禁じられたのも、この二百年あまりの事で、人と貴人が世代を超えて混じりあった結果、北山に住まう鬼人達に比べてラン国の貴人達は寿命が短く、異能の力も弱い。
しかし、ファンという国にいびつに散らばったラン国の血脈を、千年たった今でもルアン国は、受け入れずに、恨んでいる。
まさか皇帝に背くわけにもいかないから、恨みは自然、ラン国へ向いた。
豊かな北部をとられ、貧しい南へ押し込められた恨みは凶作や悪天候のたびに憎悪を沸き上がらせ、恨みは、国守を通りこし、ラン国へ向くのだ。
国境を、資源を、はたまた物流の拠点を巡って、両国が小競り合いをするのは、常のことだった。
ヒジョの訪問に喜んだリュイは、少し話をした後に眠りに入った。寝息が安らかになったのを見計らうと、ヒジョはイファを座らせて、持ってきた包みを広げる。
「ろくなものを食べてないんじゃないかと思って」
「わぁ!ありがとう、ヒジョ」
山菜と鶏肉を煮込んだものと、小麦の面麺、竹の水筒で運んできた汁を温めなおすと、簡単な夕食になった。
他愛のない世間話をすると、ほっと息がつける気がした。
ここ数日、イファは治療院を閉めている。リュイの調子が良くないからだ。気のおけない軽口を叩くのも、温かな料理をつまむのも久々で、ほっとした。
「ビンワから手紙が来てね」
ヒジョは嬉しそうに言った。
ビンワはヒジョ夫婦の自慢の娘だ。
賢く、美しく、そして何より優しい。
商家の若様に見初められてルアンの都へ嫁いだ。
「産み月は来年の夏だって――生まれたら手伝いに行ってやりたいけど、あちら様には乳母もいるみたいだから、迷惑だろうねぇ」
「そんなことないわよ!ヒジョが来たらどれだけビンワも心強いか。……ビンワの子供なら可愛いだろうなぁ。若様に似ても、どっちでも」
一度だけイファはビンワの夫、ツァオとあったことがある。
結婚の申し込みをした際に、ツァオは臥せっていたリュイの病床を見舞ってくれたのだ。
たまたまリュイの治療に来ていたイファも顔をあわせることになった。物腰穏やかな涼しい目をした男で、イファにまで土産をくれた。イファの右目に気付いたろうが、驚いた風もみせずに、ビンワの治療の礼さえ言ってくれた。
「ツァオも言っていたよ」
ヒジョは持ってきた栗を剥きながら言った。
「何を?」
イファは茶で唇を湿らせながら聞いた。
ヒジョは暗さのない表情で明日の天候を告げる占師のように言う。
「国守は戦をはじめられるおつもりらしい……ツァオの店の若い衆にも次々、召集がかかっているって」
イファは湯呑みを卓へ置いた。
「国境の壁や、兵舎を強化するための、人足がいるんだって」
「国境……ラン国との?」
ヒジョは焼き栗を口に放り込んだ。
ゆっくりと、咀嚼する。
「工事のために集めた人足は、そう遠くないうちに、兵士に呼び名を変えるかもしれないね」
「……どうしてそんな事に?」
ルアンとラン国は仲は悪いが、兵を駆り出しての小競り合いとなると……ここ二十年は起きていなかったはずだ。
「馬鹿な話さ。国守のご子息が都でラン国の後継ぎと揉めたのが原因らしい――女のことでね。都に名高い妓女をどっちが落籍すか争って、女がラン国の後継ぎを選んだもんだから、腹いせに国境の変更について難癖を付けて――戦をはじめると」
ルアンの中でもイファの住まう地域は国境に近い。
戦になれば若者を取られ、税は重くなり……、上つ方に取っては痴情のもつれの腹いせでも、庶民に取っては一大事だ。
「……すぐすぐ戦なんてはじめるもんか。ルアンもラン国もどっちも皇帝陛下の家臣なんだ。お許しなく兵を動かしたらどんな目に遭うか。戦になるったって、いいとこ小競り合いだよ」
慰めるように、ヒジョはイファの肩をそっと叩いた。
小競り合いであっても、人は、死ぬ。イファは俯いて、言った。
「でも、ラン国人は、許可なく国を移動するなって御触れが……出たんだ?」
「……そうだね」
スーメイがその触れを知っているのは、ヒジョの息子のミンソク経由だろう。スーメイはミンソクの乳母で、彼女は「ぼっちゃま」を、目に入れても痛くないほど甘やかしている。
ヒジョもそれをわかっているのか、済まないねと言った。
「スーメイにもよく言い聞かせておくよ。あんたに、いちいちつっかかるな、って。あんたもあまり気にしなさんな。第一、あんたはルアンの民だろう」
「ええ…」
(私はそうだと思っているけど……この右目を見たどれだけの人間が、その言い分を、信じてくれるだろう?)
イファをちらり、とヒジョが見た。
「……だけどね、イファ。もしも、ジェンミン様があんたを、ラン国に連れて帰ってくれるんなら、そのほうがいいかもしれない……あの人、あんたの親戚なんだろう?」
ヒジョ達には、ジェンミンがイファを尋ねた理由を正確には伝えていない。彼はイファの母親の縁者で、イファの結婚の祝いに来てくれたのだ、とだけ。
「ヒジョ……」
「今はまだ、いい。あんたにはリュイがいる。代官はうちのひとの知己だから、あんたが半分ラン国人でも、病気の夫を看病する治療師の妻を、無理矢理引き離そうとはしないだろうさ」
だが、リュイが死んだら?
イファが大手を振ってこの村にいることは出来なくなるかもしれない。息をひそめて国情が安定するのを待つか、役人に点数稼ぎに捕らえられるか。
それに、イファの異能は貴重だ。
戦場に無理矢理連れていかれる事だって考えられる。
そんな酷い事にはならない、という己の声と同時に、スーメイや、イファに嘲笑と石を投げつけた村人達の顔を思い出す。
彼らに悪気があったわけではない。
彼らが取り立てて悪辣なわけでもない。
単に虫の居所が悪かっただけで、たまたま振り上げた拳の先に殴りやすい……殴ってもいいイファが存在しただけの事、だ。
――婚礼の晩。
幸せに浮かれていたイファを村長は一人呼んで、彼女の前にしゃがみ込むと、頭を床に擦り付けた。
すまない、と言い、イファに、もう一つだけ承諾してほしい事がある、と告げた。
「リュイが死んだら」
と、村長は言った。
「イファにリュイの財産はやる。だが、この村を出ていってくれないか」
イファは声もなく、村長を見下ろした。
「娘婿が言うには、ラン国とルアンの間に戦がはじまると――リュイがいる間はおまえを守ってやれる。おまえがここにいる理由は幾らでも作ってやれる。だが、リュイが死んだら……おまえはラン国に帰ってくれないだろうか」
(帰る、ってどこへ?知人の一人だって、いないのに)
イファは苦笑した。目の端に、ガラスがあって、イファの白い花嫁衣装が映っていた。ガラスの中のイファはとても幸せそうに見える。皆から祝福された、何もしらない、幸せな娘。せいぜいが、二十歳そこそこにしか見えない。
かつてはそうだったろう。けれどイファは実のところもっと歳を重ねていた。
泣いて何故!と村長を詰る若さはとうに、失われている。
(話しを聞くのは、明日がよかったな。どうせなら)
一瞬顔を歪めて、息を吐いた。
幸せな夜に、裏側にある事情を知りたく、なかった。一晩だけ、何も考えずに、幸せな花嫁でいたかった。
きっと何かあるだろう、と思っていた、けれど。
リュイは自分が死んだ後でも村で暮らせるようにと婚姻を望んでくれたけれど、村長はそうではないのだ。
リュイが死んだら、――イファを厄介払いしたいのだ。
おそらくは娘のために。
分不相応な裕福な商家に嫁したビンワは、嫁ぎ先で立場が強くないだろう。そんな彼女の里に――貴人の女がいて、その女をビンワが命の恩人と慕っていると知られたら……彼女の立場はどうなるだろう。
イファはビンワを思い出した。
優しく、正しい、ビンワ。
彼女の健康を取りどもしたイファに、ビンワは過剰な感謝してくれた。村人に何を言われてもイファを庇ってくれた。
村ではそれが許された。
だって、ビンワは村で一番の権力者の娘だもの。
けれど、それと同じ事を、戦が始まった後も、婚家で続けたらどうなるだろう?
だから、村長はイファを穏便に追い払いたいのだ。
リュイの遺産をやって。穏便に、イファが自発的に出て行った事にしたいのだ。ビンワが傷付かずに済むように。綺麗な思い出のままで。
(恵まれて、いるわ、私は)
イファは唾を飲み込んだ。
なぜだか、すこし、塩辛いような気がした。
裸一貫で追い出されるわけじゃない。
(ラン国なんて、行った事もないけど)
それまでは、この村で暮らすことを許してもらえる。
(子供の頃からずっとずっと、この村で暮らして来たのに)
リュイはイファを大切にしてくれる。
(リュイが死んだら、私を惜しんでくれる人は、誰もいないんだ……!)
村長を恨めない。
彼は、出来る精一杯の事をしてくれてきた。イファを逃がそうとするのだって、ビンワの為だけではない。純粋に、イファの事を案じる気持ちもあるのだ。
仕方ない。
全部、仕方ないことだ。
けれど、自らの責ではない事で故郷を追われるのは、酷く悲しかった。
婚礼の晩を思い出しながら、イファは曖昧に、笑った。
ジェンミンは、今夜、ルアンから去るのよ、とイファは心中で呟いた。
ヒジョにそれを告げれば、それを聞いた村長が飛んでくるだろう、「おまえのためだ」と言って、もう永くはないリュイの前からイファを善意で追いだそうするはずだ。
ジェンミンに事情を話して、連れ去りを依頼さえするかもしれない。ジェンミンもリュイもきっと賛成する。
危険から逃れるための命綱は、目の前を通り過ぎようとしている、それはひしひしと感じる。
けれど、と思う。ジェンミンに言った事を、繰り返す。リュイは、イファが去った後に、一人になってしまう。
「ヒジョ、心配してくれて……ありがとう。でも、私はリュイの奥さんだから。どこにも行けないよ。行くつもり、ないもの」
愚かしいことだと責められたって。
いずれ、国を追い出されたって。
その時、まではリュイの側にいる。
そう、決めている。
日が完全に沈み、夜の鳥があちこちで鳴きはじめた頃、ジェンミンは旅装で現れた。
リュイは夜になってようやく熱が下がり、久方振りに貴人を起きて迎えた。
「すこし、ふらふらするなあ」
いつもの軽い口調で言い、イファは寝てばかりいるからよ!と軽口を叩く。喧嘩をした後だから、妙にふたりとも振る舞いが明るい。
ジェンミンが現れると、リュイは少し目をみはった。
イファはお茶を出すわね、と引っ込む。
「ジェンミン様、その格好は?」
ジェンミンは飛龍を庭の木につなぐと、うん?と笑った。
「名残惜しいが、そろそろランに戻ろうかと思ってな。リュイに挨拶を、と」
「急ですね……」
「そうでもない。何、また来るさ」
リュイはじっと息をつめて、ジェンミンを見た。いつも笑ってばかりの男は、今日も穏やかに微笑んでいる。
「そうですか。……ジェンミン様、お帰りになる前に、ひとつ、我が儘を言ってもいいですか」
「なんなりと」
リュイは寒空の下、表へ出た。
積もってはいないが、雪がちらつきはじめている。
満月で、明るい晩だから白い息の形がよくわかる。
「冷えるぞ」
ほら、と言い、いつかみせてくれた北兎の毛皮を被せてくれる。
妙に手慣れた仕種にリュイはくすくすと笑ってしまう。まるで、父親が幼い子供にするようだ。
「お借りします」
「元々イファにやる予定だったんだ。持って帰るのも具合が悪い。お前にやるよ」
頓着ない口調に、こんな高価なものは、と言いそうになったけれど、リュイは頷いた。リュイが貰っておけば、いずれ、そう遠くない未来に、イファのものになる。
「お願いというのは?」
北兎の軽くて温かな毛皮を引き寄せて感触を楽しみながらリュイはジェンミンの琥珀の瞳を見た。
好きな瞳だ。
――ジェンミンの視線には一切の憐れみがない。大抵の人間はリュイをかわいそうなものを見る目で眺めるのに。
……かわいそうに、あの子は永くないんだよ。
そんな風にいいたげな目でみなかったのは、イファとジェンミンくらいのものだ。
「お帰りになるまえに、飛龍に乗せてくれませんか。僕、乗ったことがなかったんですよね。高価過ぎてなかなかこんな田舎には来ないし。来ても、寝込んでたし」
茶の準備をしたイファがぎょっと肩を竦めた。
「だめよ!せっかく熱がひいたのに、こんな寒空を……!!」
「乗りたいんだ。乗る機会がまたあるかはわからないし」
リュイはきっぱりという。イファは言葉に詰まった。
ジェンミンはいいとも悪いともいわず、成り行きを見守っている。二人から見られて、イファは仕方ない、と眉を下げた。
「少しだけね……身体が不調になるまえに、帰ってきてね」
わかった、とジェンミンが言い、リュイを飛龍にのせた。
二人を見送り、イファは妙に落ち着かずに部屋の中をうろうろと、する。
いきなり龍に乗りたいなんて、リュイは、何を考えているのか。
ひょっとしたら、リュイはジェンミンと何か話したい事があったのかもしれない。それなら、イファが席を外せばよかった。
「リュイの馬鹿、風邪が酷くなったら、どうするのよ!」
やはりこんな寒空に行かせるのではなかった。リュイが――また酷い熱を出したらどうしよう、と後悔ばかりが押し寄せる。
小半時もして、けたたましく扉が叩かれ、イファは慌てて扉を開けた。
「ジェンミン様!リュイに何か――」
扉を開けて、イファは固まった。そこにいたのは夫とジェンミンではなかった。
「スーメイ?」
「……、リュイは?」
イファは答えずに彼女の後ろを見た。
怯えた顔のスーメイと、背後には二人の男がいる。彼らが纏う服にイファははっとなった。
官服……。
目つきの悪い二人は、スーメイを突き飛ばすようにして押しのけると、無理矢理家の中に入り込んだ。イファは反射的に後ずさる。
「な、なんの御用でしょう。主人は生憎、所用で」
声が、震える。男達は刀を腰に差していた。
「女」
イファは反射的に頷いた。右目を節ばった指で差し示される。
「お前、ラン国の化け物か?怪しげな術を使うらしいな?」
違います、とイファは首を振った。
「何が違う」
顎を捕まれて、壁に頭をぶつけられた。イファは痛い、と叫び声をあげるのを辛うじて、堪えた。スーメイが、ひぃ!と叫んでしゃがみ込んだ。
「母が、そうでした。私は――ルアン育ちです……ラン国人では」
うるさい、と凄まれる。
イファは怯えて、黙り込む。金色の目が視界から少しでも見えなくなるよう、俯く。
「こんなところにラン国人がいやがるとはな?おまえの縁者もいるらしいな?どこだ」
「こんな田舎、つまらんばかりだと思ったが、貴人がいるなら調度いい、代官様への土産になる」
イファは反射的にスーメイを見た。
スーメイは震えながら目を逸らす。スーメイが意図したにしろ、しないにしろ、役人達をここに連れてきたに違いなかった。
「触れ書が出たのを知らないのか?許可なくラン国人がルアンに来るのは禁じられたんだよ」
イファは、首を振った。
「あ、あの人は母の親戚です。わ、私の結婚の祝いをしてくれただけで――もう、ラン国へ帰りました」
先ほどまで早く帰ってきて、と念じていたイファは、逆の事を思った。どこかで異変に気付いて、リュイを降ろしてこのまま、ラン国に帰ってくれないか。
役人の一人が、卓の上に目を向けた。
「旅支度があるな?」
「しゅ、主人のもので……」
ばればれの嘘に二人は顔を見合わせた。
馬鹿にしたように笑って、イファを突き飛ばした。
「おまえのご主人と――ラン国の野郎が帰って来るのを、ここで待たせて貰おうか」
イファの反論を許さず、卓に陣取る。
せせら笑うと、顎をしゃくった。
「ああ、奥さん。茶をいれて貰おうか。今日みたいな日は、身体が冷えていけない」




