9、十年後の僕
目覚ましのアラームが鳴り、僕は短い仮眠から目を覚まし、医務室のベッドでゆっくりと身を起こした。
女医の五十嵐先生が、カーテンの隙間から顔を覗かせた。
「相馬くん、大丈夫?すごく顔色悪いわよ」
大丈夫です、と僕は言い、ベッドのふちに腰掛けた。
「単なる過労です。今日は寝てなかったから」
ヘッドボードにかけられていたネクタイを首から無造作にぶら下げ、僕は立ち上がる。
「寝言言ってたわよ。面白かった」
僕はぎくりとして、五十嵐先生を見た。
「何を言ってました」
「英語で喋ってた。ごにょごにょして、よく聞き取れなかったけど」
僕は少し安心して、ぶら下げたネクタイの端をいじっていた。
「夢を見てたんです、昔の夢」
そう、と先生は言うと書き物の手を止め、僕を仰ぎ見る。
「結んであげようか」
「いえ、いいです。マネージャーもネクタイしてないから」
僕がありがとうございました、と礼を言うと、僕よりちょっと年上の五十嵐先生は、くるりと椅子の向きを変え、「またおいで」とペンを握った手を軽く振った。
オフィスに戻るといつもどおり、ところどころの席は空席で、この部署は実に閑散としている。
今日は社内専用ソフトのアップデートの日で、僕の所属するシステム開発部の電話は鳴りっぱなしだった。
バグ検出は、まだまだ終わりそうになかったが、電話会議がひと段落し、みな休憩に出たり、不具合のある部署に出かけたりしていて、普段から全員がここに揃うことはそうそうない。
僕は週末になると、あちこちのバーなどでピアノを弾いている。
昨晩もライブがあり、自宅に帰ったのは明け方だった。
月曜の夕方は、たいてい力尽きて五十嵐先生のお世話になる。
マネージャーのロイが、あまりうるさくない人でよかった、と思う。
ロイはたまに奥さんを連れて、僕の演奏を聞きに来てくれる。
僕はメールをチェックしながら、熱いコーヒーを飲んだ。
秋になり、少しずつ温かい飲み物が欲しくなってくる。
友人から、社用のアドレスにメールが入っていた。
まずいな、と思いつつも、僕はそのメールを読み耽っていた。
「ナオキ、ちょっといいかな」
突然ロイの声が頭上から降り注ぎ、僕は思いっきり挙動不審になって慌ててウィンドウを下げる。
ノープロブレム、と僕は言い、ロイの個室について行った。
僕はメールの内容に、多少混乱していたし、ロイもいつになく生真面目な顔をしていたので、余計に緊張感が走る。
「ノゾミが、今月いっぱいで退社することになった。旦那さんの故郷に帰るそうだ」
「じゃあ、主任は誰がなるんです。マニュアルもまだ上がってないのに」
「君」
ペンを持った手で僕を指し示し、「You」と真っ直ぐな瞳で僕を見つめるロイを、僕は間抜けな顔で眺めていた。
「なんで、僕なんですか。いや、僕じゃない方がいいと思いますけど。ここ一番って時に倒れたりして、みんなに迷惑かけるし」
「いや、大丈夫だから。みんなでサポートするし、ざっと見たところ、君がどうやら適任者らしい」
僕はロイの、薄い栗色の髪を見つめていた。
前回のアップデートのスケジュールの苛烈さに、僕は一ヶ月で七キロも痩せ、当日に倒れた。
同じ部の、巨漢のシュワルツにおぶわれ、五十嵐先生のところに担ぎこまれたのは初夏の出来事である。
「シュワルツでいいじゃないですか」
「だって日本語あまり上手くないし。それに君だって長いんだから、リーダーになってもらって当然だと思うけどね」
うーん、と僕は唸り、しばらく黙り込んでしまった。
「あんまり嬉しそうでもないね。無理ないか、ここは仕事がきつすぎて、みんなすぐ辞めちゃうもんね。むしろ、君はよくめげずに長くいてくれたと思うよ」
「ピアノが弾けなくなるのが苦痛か」
「いえ、それはどうとでもなるんです。ちょっと考えさせてください。僕からも改めてお話したい件がありますから」
Sure、とロイは言うと、立ち上がってお茶を汲みに行ってしまった。
僕はよろよろと自分の机に戻り、再び読みかけのメールを開いた。
おもむろに机の上の電話を取り、すぐさま友人に電話をかける。
「これ、ほんと?」
僕はメールを読みながら、送り主に言った。
「本当だよ、後で通知を見せるよ。今日でも、明日でも」
「できれば今日、と言いたいけど、ちょっと忙しいんだよね。遅くてもいいなら」
「随分反応薄いな。嬉しくねえの。行きたいって言ってたのに。お前、行くよな?」
僕はまたもや、うう、と唸り、小声になった。
「だから、後で話すよ。また電話する」
僕は電話を置くと、机に頭をごんと乗せ、静かに目を閉じた。
不純な動機で、僕が行きたいなどと酔って口走ったのを、奴は本気にして、そして行動したらしい。
行ったら、会えるのだろうか。
今はもう、どこにいるかもわからないのに、またジェラルドに会えるのだろうか。
急にいなくなった僕に、腹を立てていたのか、それとも二度と会いたくないと思っているのか、全くわからない。
日本に帰った後、僕は一度だけジェラルドに手紙を書いた。
返事は返ってこなかった。
***
ひととおり仕事を済ませ、僕は友人の待つ居酒屋へ向かった。
暖簾をくぐると、友人の松本がおでんを食べながらビールを飲んでいた。
そして僕に背を向けるようにして座っている大男は、シュワルツだった。
シュワルツのスキンヘッドが、店の照明を受けて、眩しい光を放っている。
「先に見捨てて帰るなんて、酷いよ。クレームがあれから切れ間なく入ってくるし」
ゴメンネ、と片言の日本語でシュワルツは返し、牛スジの串を口に運んでいた。
松本は、普段は英会話学校で教師をしている。週末になると、僕と一緒にベースを弾いた。
一度僕が紹介したシュワルツとは、馬が合うのか、僕がいなくても時々一緒に飲み歩いているらしい。
「ナオキ、聞いたよ。すごいね、海外公演だって。古巣の町じゃ、凱旋公演みたいなものだろ」
おめでとう、とにこにこしながらシュワルツが言う。
僕は苦笑いしながら、椅子をひいてシュワルツの隣に座った。
「ノゾミが辞めるって、知ってた?」
僕は枝豆をつまみながらシュワルツに尋ねた。
「今日聞いたよ。今日はやけにパニックになっていると思ったら、彼女もいろいろあるんだね。いなくなったら寂しいなあ」
「そうしたらね、僕らの仕事が、もっともっときつくなるんだけど。それを考えたら、海外公演なんて行けるんだろうか」
暗い顔になる僕の肩を、若干手加減しつつシュワルツが叩いた。
届いたビールを半分ほど一気に飲み、僕は銀杏焼きを頼む。
「だから電話で、あんなに歯切れ悪かったんだな。有休使えばいいじゃん、俺もそうするし」
うーん、と僕は唸るだけだった。
「あの難関をかいくぐって、俺らのデモが通過したんだから喜べばいいのに。こいつね、昔の彼女に会いたいんだって。わざわざ俺が申し込んでやったのにな、ちっとも嬉しそうじゃない」
松本が、ぽろりとシュワルツに口走る。
本当?とシュワルツが隣の僕を見た。
「いや、でも、もう結婚してるかもしれないし、単なる冗談だよ。もちろん、昔の知り合いには会えたら嬉しいかなーとは思ってるけど」
僕はどぎまぎしながら、変な言い訳をしていた。
そうだ、もう結婚してるかもしれない。あの彼女と。
ひらりと英文がタイプされた白い紙を僕に手渡し、松本が「読みなよ」と言った。
僕は暗がりの中で、ゆっくりとその字を追っていた。
『五月にD市にて開催されるジャズ・フェスティバルの出演を正式に依頼します』
と書かれているのを、僕は何度も何度も読み返していた。
「これで行く気になった?」
なった、と僕は松本に答え、徐々に興奮してくる気持ちを静めるかのように、残りのビールを全部喉に流し込んだ。




