7、帰国
期末試験が終わり、僕は慌しく荷造りをしていた。
ほんの十日ほど、日本に帰国する事になった。
急すぎて、飛行機のチケットが取れるかどうか危ぶまれたけれど、どうにか格安でチケットを手に入れる事ができて、僕はほっとしていた。
一向に荷造りは終わらず、結局僕は一睡もせずにトランクに荷物を詰めていた。
学校の帰り道に、大慌てでグローサリーで買いに走ったお土産のジャンバラヤ・ミックスやコーヒー豆などで、トランクの中は埋め尽くされている。
僕は姪っ子の為に、本物のシュガーケインの詰まった箱を買った。ツリーにぶら下げれば、本格的だ。
クリスマスが終われば、食べればいい。もっとも、飴としての味は日本製に比べたら、格段に劣る。
ジェラルドが僕を空港まで送ってくれた。
僕の帰りのチケットを眺め、「クリスマスが終わったら、また会おう」とジェラルドは言った。
日本のクリスマスは所詮カップルイベントだし、独り身の僕は、正直この時期に日本に帰りたくはなかった。
今回の帰国の理由は、昔僕が世話になった人の結婚式に呼ばれたからである。
ホストクラブで、何かと僕を可愛がってくれていたアツシさんの晴れ舞台だ。
アツシさんは僕の三歳年上だったが、当時二十過ぎの若者とは思えないほど、落ち着いた大人の男性だった。
アツシさんの実家はスナックで、高校生の頃は店を手伝い、ボーイの仕事もしていたようだった。
何度か、アツシさんのお母さんのお店に遊びに行ったことがあるが、肝っ玉母さんの典型である「ママ」が乱暴な言葉で僕を歓迎してくれた。
母親と確執だらけだった僕は、自分の母親がこんな大らかな人だったら、と思う時もあった。
「僕はピアノが弾きたいんだ、遊びじゃなくて、学問として極めたい。だからアメリカに行く。日本の大学には行かない」
高二の終わりに僕がそう宣言すると、母親は文字通り泣き崩れた。
「なんでもっと早く言わないの。あんたはずっと、国立に行くって言ってたじゃない。ピアノなんて、聞いてないわ!」
母親はいつものように、いや、一層ヒステリックにわめきちらしていた。
母親は教育熱心な人だった。小学校、中学校と私立受験をさせられ、しかしながら出来の悪い僕は、ことごとく失敗の連続だった。
ようやく、母の望むような高校に入学する事ができ、母親は受験後の数ヶ月間、天下を取ったような顔で、小さな町を歩いていた。
そんな母が、当時十五歳の僕はたまらなく恥ずかしかった。
母は、僕が友人達とバンドを組んだり、ジャズスクールに通ったりしている事は知っていたが、どこまでも趣味の延長だとしか、みじんにも疑っていないようだった。
「僕は、僕の為に生きたい。今まではあんたの為だったけど、これ以上は無理だ。そうじゃなきゃ、たぶん僕は死ぬ。生きてる意味なんか無い」
僕は残酷な程に幼い自分の思いをぶつけ、母は初めての息子の反抗に、思考停止になっているようだった。
「なんで、僕からダンスを取り上げた。僕はダンスが出来れば、それでよかったんだ。今じゃもう踊れない。たった一年踊らなかっただけでも、昔みたいに、もう体が動かないんだよ」
いつの間にか、僕は泣いていた。
だから代わりに、ピアノを弾くんだとは、言えなかった。
小学校に上がる前から、当たり前のように舞台に出ていた僕には、舞台の袖や、楽屋裏の雰囲気ほど心躍る場所は無かった。
母は、特に深い考えがあったわけでもないようだが、幼いながらも一途にダンスにのめり込む僕に、それなりのサポートをしてくれた。
先生に、有名な学校のオープンクラスに出るようにと進められれば、片道二時間かけて僕を連れていってくれた。
とある外国の王立学校の試験の時も、文句も言わず僕に付き添ってくれた。
それが突然芸事は時間の無駄、と全否定された事に、僕は一瞬で母を信用できなくなってしまったのだ。
確かに当時の僕は、ショウビジネスの裏など知る由もなく、きらびやかな部分しか見えていなかった。
日本に帰ってから、実際に自分をその世界に置いてみると、結論として、普通の人生を送れと言う母は正しかったのだと思う。
花の季節は、あまりにも短すぎる。何十年、いや何年かでもその名を世間に知らしめるような芸術家は、今の日本では育たない。
自分が死んでも音楽は残る、と思い込んでいたあの頃の自分は、世間知らずの子どもでしかなかった。
毎日のように線路に寝転びたいだとか、川に飛び込みたいとか、実行出来るわけもないのに、ダンスをやめて間もない思春期の僕は、ぶつぶつと友人に向かって呟いていた。
母の言うような進学校に上がったとして、その先に何があるのか、僕には検討もつかなかった。むしろ、真っ暗闇でしかなかった。
「何故、アメリカなの。日本にだって、音大があるじゃない。行きたいなら、きちんとした先生に付いて勉強すればいいでしょう」
本物が見たいんだよ、と譲らない僕がいた。
それに、両親のいずれかが音楽家であったという環境で育ったわけでもない僕には、日本の音大は、閉鎖された空間のようで、敷居が高すぎた。
母は、どこまでも僕を手元に置いて、監視したいのがありありとわかった。
地方都市の出身であれば、東京の大学へ進学するとなると、いやおう無しにも一人暮らしをする大義名分ができたのだろうが、実家が都内にある僕には、それは難しかった。
無い知恵を絞り、どうにかして一人になるには、国外に出るしかないようだ、との結論に僕はたどり着いた。
それまで、黙って母と僕のやり取りを聞いていた父親が、押し殺したような声で僕に言った事は、今でも鮮明に覚えている。
「……逃げるんじゃないよな」
違う、と僕は言った。
けれど、今だから言う。僕は、あなた達から逃げたかった。
誰も知らないところへ、どこでもいいから逃げてしまいたかったんだ。
いつだって僕は、新しい自分になりたかった。
僕は、それを繰り返しながら生きてきた。生き延びる為に。
言いかえれば、己を直視することができずに。
最後は、ジェラルドからも逃げて、そして今の僕がある。




