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6、救う者、救われる者

 僕はミミに話しかけるタイミングを模索しつつ、アンサンブルのリハーサルに参加していた。

 あまりに曲数が多すぎた為、ブラックのジェイムスという、たまに学校に来るおじさんピアニストにも手伝ってもらった。

 舞台監督をしつつ、学部長のMr.ジョーンズはベースで参加してくれた。

 ジェイムスは物腰柔らかい紳士だった。

 僕にもわかりやすいように、とても綺麗な英語を喋ってくれた。ここの生徒は、皆紳士だ。僕より遥かに人生経験が豊かだからだろうか。僕もあんなふうに、余裕のある男になりたい、とつくづく思う。


 ケイトは休みのようだった。少しほっとしつつ、僕はだんだんとリハーサルが終わりに近づくにつれ、少しずつ緊張してくるのがわかった。


 ようやくリハーサルが終わり、ばらばらと教室から出て行くクラスメイト達を目で追いつつ、ミミを捕まえようと僕も廊下に出た。

 ミミは、持参したジップロックの中のサンドイッチをかじりながら、カフェテリアで勉強していた。

 僕より年上には違いなかったが、ミミも落ち着いた、大人の女性の雰囲気を漂わせていた。


「あらナオキ。今日も最高だったわ。あなたもランチなの」

 自動販売機のスナックを片手に、僕は曖昧な笑みを浮かべつつ、ミミと同じテーブルに座った。

 僕は、上手な話の切り出し方がわからなかった。アメリカ人は、ストレートにものを言うイメージが強かったが、実際の彼等は、驚くほど対人スキルが高い。

 遠まわしな言い方をしつつも、相手を立てるのが実に上手い。空気を読む事に関しては、正直、日本人より「出来ている」と思う。

 日本人は都合が悪くなれば、黙っていればよいのだから。


 そんなわけで僕は、相手が呆れるほど率直に、いきなり「俺の変な噂を聞いたんだけど」と切り出してしまった。

 小首を傾げるミミに向かって「俺が、ケイトの子どもの父親だって言ってるのは、ミミだってブレンダが教えてくれたんだ。誤解があるみたいだし、話を聞いて欲しい」


 オーマイガー、と片手をこめかみに当て、ミミはテーブルにその肘を付いていた。

「またなの。ブレンダはおかしいのよ。あれは病気ね。気にする事ないわよ」

 僕はいつになく心臓がどくどくと音を立てているのを感じながら、ミミの顔を凝視していた。

 ミミは軽くため息をつき、真剣な顔をして僕を見た。


「アンサンブルのクラスは歌姫同士、見えないところで反目し合ってるのよ。男のあなたにはわからないかもしれないけど、裏ではいろいろと足の引っ張り合いをしてるわ。あなた、巻き込まれたのよ。前にも似たような事があったわ。私とジェイムスが不倫してるって噂をばら撒いたのもブレンダだったわ。自分より目立つ人間が気に入らないのね。だからよ、ジェイムスがパートタイム・スチューデントに切り替えたのも。くだらない揉め事に巻き込まれて、あなたもジェイムスも本当にお気の毒」


 ジェイムスはにこにこ笑って、いくらでも手伝うよ、と何も知らない僕に言ってくれた。

 僕が弾きこなせない分のブレンダの曲を、ジェイムスに回したのが、返って恨みを買ってしまったのだろうか。

 おそらくそうだと思う、とミミは残念そうに言った。

「悪気はなかったんだ。本当に曲が多すぎて、そうしたらジェイムスが代わってくれるって言ったし、ブレンダも普通にしてたんだけど」

 ミミに言い訳しても相手が違うのはわかっていた。ミミは黙ってうんうん、とうなずいていた。


「ナオキの事、気に入ってたみたいだし。私の曲は弾いても、自分の曲は弾いてもらえないって拗ねちゃったのね」

 えこひいきしたつもりは毛頭無かったが、女性からすると、そのように映ってしまったのかもしれなかった。

 けれど今更、ブレンダに説明したところで、火に油を注ぐような気もした。


「ひとつハッピーなお知らせがあるとしたら、実際のところ、ケイトの子どもの噂は、学部中に広まってるわけじゃないのよ。あ、例外があったわ。ヴァレリーは知ってるわね、噂のこと。ブレンダから聞いたって言ってたわ」

 今度は僕が頭を抱え、テーブルに突っ伏した。


 だからなのか。ヴァレリーが僕から離れてしまったのは。

 自然な別れだと、僕はあまり深く思い詰めないようにしていた。

 本心を言えば、結構傷ついていた。

 僕に何かが足りなかったせいだ、と心の奥底では、常にそう思っていた。


 徐々に自分の状況が掴めつつあったが、何故か僕はブレンダを責める気持ちにはなれなかった。

 ヴァレリーは何も言ってくれなかった。それが、たまらなく悔しかった。

 僕はごめんね、ありがとう、とミミに言い、自宅に戻る事にした。

「大丈夫?」とミミは眉根を曇らせながら、僕を気遣うような視線を向けた。

「いろいろあるのよ。でも、負けないでね。あなたなら出来るから」

 また明日、とだけ僕は言い、カフェテリアを後にした。



 家に戻ると、ちょうどジェラルドから電話があった。

 彼も授業が終わったようで、夕飯のお誘いの電話だった。

「むしろ踊りに行きたいんだけど。水曜だしね」

 僕があれから、ファイナル・ステーションに入り浸っているのを彼は知っていた。が、彼は一緒に行くとは決して言わなかった。今日までは。


「じゃあ、近くのオイスター・バーで食事してからファイナル・ステーションに行こうよ」

 何気なく言うジェラルドの言葉を、僕はあやうく流してしまいそうになる。

 特に僕からわざわざ、ゲイクラブに「行こう」と誘った日は一度も無かったが、彼が「行きたい」と言った日も、今までに一度もなかったからである。


「大丈夫なの。言っとくけど、自己責任だよ」

 電話の向こうで、明らかにジェラルドが怒ったような声を出す。

「問題ない。社会勉強だ」

 僕は真面目くさった言い方をするジェラルドに、思わず吹き出しそうになった。

 あとで迎えに行く、と言ってジェラルドは電話を切った。


 いつになく浮き浮きした気分になる自分の姿に、僕はその時気付かなかったけど、あの日僕は、君にたくさん助けてもらったと、今でも思い出すと楽しい気持ちになれる。 



***



 生牡蠣に、ケチャップとホースラディッシュを付けて、口に放り込む。

 ポン酢にもみじおろしもいいけれど、僕はこっちの食べ方を気に入っていた。

 生臭さが一切消えて、いくらでも腹に入った。一方ジェラルドは、牡蠣にはポン酢がいいと言っていた。美意識の問題で、わびさびを感じるというのが理由らしかった。

 僕らはパティオで二ダースの牡蠣と、バケツ一杯のザリガニを頼み、ビールを飲んだ。


 一心不乱にザリガニを貪りつつ、僕はジェラルドに、今日の出来事の愚痴を聞いてもらっていた。

「ヴァレリーが、俺に怒るなり問い詰めるなりしてくれればよかったのに。それが一番、心にくる」 

 少し考えてから、ジェラルドはゆっくりと口を開いた。

「そこまで、愛されてなかったんだよ。申し訳ないけど、そういう事だ」

 ぐさりと僕の心に、ジェラルドの言葉が鋭く突き刺さる。

 僕にも、わかっていた。ヴァレリーにとって、僕がそこまで価値のある人間ではなかったという事が。


 そうだね、と僕はうなずき、ビールをぐいと喉に流し込む。

 追加でガンボ・スープが届けられ、僕達は二人で大きなスープを半分こした。煮えすぎたオクラを熱心に味わいつつ、僕は再び口を開いた。

「仲間になれたって、勘違いしていい気になってたのかな。所詮俺は、異端でしかないのかなあ。一瞬、ブレンダに差別されてるのかもって思っちゃったし」

 そうじゃないよ、とジェラルドはビールを片手に足を組みかえる。


「僕はナオキがピアノを弾くのを聞いた事がないけど、その人は、君に弾いて欲しかったんだよ。たぶん。……わからないけど」

 酔いが回っているせいかジェラルドも次第に、会話の内容が雑になる。

 けれど慰めてくれているのは伝わってきた。

 僕は卑屈になる自分に嫌気が差しつつも、言葉に出さずにはいられなかった。


 ジェラルドみたいに僕も生まれた時からこの国にいたら、こんな卑屈にならずに済んだのだろうか。

 それでもジェラルドなりに自分はアジア人であるという事実が、時には足枷のように感じているのも真実であった。

 僕が異国で感じる違和感を鼻であしらう事もせず、ジェラルドは同じアジア人としての僕の意見を、いつも真摯に受け止めてくれた。


 テツヤさんともそういう話は幾度となくしたけれど、所詮日本人同士傷の舐め合い、自分達の正当化で終わってしまう。

 後にも先にもジェラルドだけだった。

 自分の本当の気持ちを、素直に打ち明ける事ができたのは。


 食べ終わったら行こうか、と南国ムード溢れるパティオの明かりを眺めながら、ジェラルドは僕に素っ気無く言った。



 水曜日は、いつもより多少早めの時間が、混雑のピークだった。

 いつもなら、二時を過ぎないと登場しないはずのキムが、まだ十一時頃のファイナル・ステーションにいた。

 明らかに男とわかる女装のキムに若干動揺しつつも、ジェラルドは美しい笑みを浮かべて「ハイ」とキムに挨拶した。


「二人でお楽しみのところ悪いけど、ナオキを探してる女の子がいたわ。ああ、ほら、あそこに」

 キムが指差すソファには驚いたことに、ヴァレリーが派手な外見とは裏腹に、所在なさげにちょこんと座っていた。

 誰にも踊りを邪魔されないから、ファイナル・ステーションは最高だよ、とヴァレリーに何度も話していた。

 わざわざ僕の為にこんなところへ足を運んでくれたのだろうか。


 どん、と荒っぽくジェラルドに背中を押され、僕は緊張しながらヴァレリーの座るソファに近づいた。後ろからジェラルドがゆっくりと僕を追う。

「どうしたの。こんなところで。珍しいね」

 僕は極めて感じのいい笑顔を向け、固い表情をしているヴァレリーに声をかけた。


「今日ミミに聞いたのよ。あなたが落ち込んでるって」

 心配しないで、と僕は微笑みつつ、ジェラルドをヴァレリーに紹介する。

 ジェラルドは飲み物を買ってくると言い、そそくさと僕らの元を離れていった。

 ヴァレリーは僕にシートを勧め、僕は迷うことなくどさりと彼女の隣に座り込んだ。


「すごく、素敵な人ね」

 ジェラルドの事を言っているのだろうか、と僕は気付き、「うん、意地悪だけど」と言っておいた。

 しばらくの沈黙の後、ヴァレリーがカクテルの入ったプラスチックのカップを手にし、うつむいて言った。


「私は、ナオキがわからないわ。だって本音を言ってくれないもの。何考えてるか、わからない」

「それは君も同じだ。何も言ってくれない。確かに俺の言葉は、語彙が足りなさ過ぎて君に届いてない。でもこんなふうに、何も聞かずに勝手に君が片付けてしまったのは、ものすごく傷ついた」

 僕達は再び沈黙し、踊る人々を眺めていた。

 すぐそばには、彼女の小さな手や、華奢な肩や、ほんの少しぽってりとした唇があった。

 けれど僕は、その空いた彼女の体に触れる事無く、何故かジェラルドが戻ってくるのを待っていた。


「責めてごめんね。君が悪いんじゃない。俺が役不足だった。だからもう、忘れて」

 僕は自分でも意外なくらい、冷静だった。

 もう一度ごめん、と僕が言うと、ヴァレリーは泣き出しそうな顔をして、僕を見ていた。


「僕は知ってる。君が知らなくても、ナオキはいつだって、あらゆる事に誠実だった。くだらない噂の方が、君には真実味があるのかな」

 ジェラルドの声に、ヴァレリーが驚いたように顔を上げた。

 僕は困ったような顔をして、ジェラルドに目配せした。手加減してやってくれ、と言ったつもりだったが、彼に伝わったのかは疑問だ。


「僕にナオキを返してくれてありがとう。何も心配いらない。君の分も、僕が彼を支えるから」

 僕はあんぐりと口を開け、笑わない顔のジェラルドを凝視していた。

 ヴァレリーも一瞬驚いたようだったが、すぐに元の表情に戻り、少し寂しげな笑顔を見せた。

 いやいや冗談だから、違うから、と僕は慌ててヴァレリーに訂正する。

 ヴァレリーは僕の言葉には反応せず、「また学校でね」と言い、優しくハグをして微笑む。

 恐ろしい事に全然伝わってない、と僕は呆然としつつ、ヴァレリーの後姿を見送った。


「なんであんな事言うんだよ。また誤解された」

 僕はソファに座りなおし、諦めたように天井を眺めていた。

「君は、あの子とやり直したかったの?そんなふうには見えなかったから、とどめを刺してあげたんだけど。違ったかな」

 僕は口ごもりつつも、違わない、と搾り出すような声で言った。

 単に、僕自身のプライドの問題だった。でももう、それすらもどうでもいいと思えるほど、僕は小さな事で悩んでいた。


 それにしても、意外とジェラルドも大胆な行動に出るものだ、と僕は新たな彼の側面を目の当たりにして、不思議と愉快な気分になっていた。






 


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