5、挫折
八月の後半から、新学期が始まった。
高校を卒業したばかりのティーンエイジャーから、おじさんおばさんまで、学生の年齢には実に幅があった。市立大学の学生平均年齢は、二十九歳だそうだ。
メイも学校に戻る為に、しばらくバイトを休む事になった。
「メイはまだ高校生なんだよ。今までみたく君と遊びまわっていたら、また落第するんだろうな」
ジェラルドは笑わない顔で、僕に言った。
遊びまわる僕に、釘を刺す意味もあったようだ。
あんなに頭の回転の早いメイが、未だに高校生だというのは信じられなかった。
どうして、と驚く僕にジェラルドがただ一言、「馬鹿なんだよ」と言った。
そして千沙さんは宣言どおり、ニューヨークへと旅立っていった。
空港で千沙さんは、被っていたつばのあるグレーの帽子を脱ぎ、僕の頭にぽんと乗せた。
「つばがある方が、確かにセクシーやな」
千沙さんは、このような帽子をよく好む、ジャミロクワイのJ.K.が好きだった。
いつだかライブでD市を訪れていたJ.K.は、ライブハウスの外で待っていた美しい千沙さんに二つ返事、というか一つ返事でサインを書いてくれた。
きばりや、J.K、と僕に言い、軽く僕を抱きしめると、ほんならまた、とゲートをくぐる。
テツヤさんとは「着いたら電話するわ」と、恐ろしくあっさりとした会話をして、二人は別れていた。
大学では、新しく入ってきた、ヴァレリーという名の作曲専攻の一つ上の女の子と、僕はデートを重ねるようになった。
ヴァレリーは趣味でDJをやっているといい、週末はどこかのパーティーで皿回しをしているそうだった。
彼女の風貌はいかにもDJといった感じであった。数え切れないほどのピアスを耳にぶら下げ、ワイルド、の一言でしかない。
けれど、ヴァレリーはその見た目とは裏腹に、とても優しくて、恥ずかしがりな子だった。
彼女の家に遊びに行った時、彼女によく似た、上品で優しそうなお母さんに出迎えられ、彼女は大事に育てられたんだな、と僕は嬉しくなった。
あれも食べなさい、これは好きかしら、と、スパニッシュ系のお母さんは、野菜たっぷりのスパイシーな料理をたくさん勧めてくれた。
「これからナオキと、映画を見に行くのよ」
ヴァレリーがそう言った頃には、時刻は既に真夜中になろうとしていた。
それでも彼女の母親は僕達に、夏の日差しがはじけるような笑顔で「楽しんでらっしゃいな!」と言ってくれた。
僕が将来、そんな寛容な親になれるとは到底思えないが、ヴァレリーのお母さんは、僕の幸せな記憶の一部だ。
僕は後に、他のアメリカ人の女の子とも付き合うのだが、彼女の母親のように全身で歓迎してもらったのは、とてもいい思い出になっている。
ヴァレリーは何度か僕を同伴して、パーティーに出かけた。
ボーイフレンドなの、と僕を人々に紹介してくれて、ああ、やっぱり僕らは付き合ってるんだなあ、としみじみ嬉しかった。
彼女は映画も好きで、僕らはよく映画を見に行った。
むしろ、映画が嫌いなアメリカ人は、見た事がないけれど。
最初のデートは、何故か、とあるポルノスターの成功と挫折を描いた映画だった。
肝心な初めてのデートで、その選択はどうかと思う、とジェラルドが呆れたように僕に言った。
「だって彼女が見たいって言うし、僕も見たいって言って、別に問題なかったと思うけど」
「軽い奴と思われても、よくないだろ。ナオキだって言ってたじゃないか、賢い子がいいって。自分から価値を下げてどうする」
ジェラルドの忠告はもっともだったが、彼の心配をよそに、僕らは仲良く毎日過ごしていた。
むしろ僕が不安になったのは、僕らには体の関係がなかった事だ。
いい雰囲気なのに、いつもキスだけなのは何故だろう、男の僕がもっと積極的に行くべきなのだろうか、と僕は首をかしげた。
十一月になると、ようやくD市にも秋風が吹き始めた、というか、この地域は秋を通り越して、いきなり道路が凍るような北風が吹くのだが、その頃には僕らはあっけなく終わっていた。
どちらともなく、友達に戻った。
幸いな事に、その後も気まずくなる事はなく、僕らは授業で顔を合わせれば、普通に世間話をした。
結果的には、この子と寝なくて、よかったのかもしれない。
ただ何故彼女が、最後まで僕に体を許してくれなかったのは謎のままだった。
「なんでだろう、すごい奥手だったのかな。でもその割には、キスはすごく上手かったんだけどなあ」
カフェで、今僕らがはまっている、ホットオレンジ・ショコラを飲みながら、僕はヴァレリーと終わってしまった事を話していた。
さあね、とジェラルドは読みかけの本を閉じ、僕の顔をじっと見た。
「もっと他に、君に相応しい子がいるよ。浮かれて、誰かれ構わず付き合うのはやめろよ」
こういう時のジェラルドは、妙に僕に対して大人ぶる。
もともと僕が、子どもっぽい性格のせいか、ジェラルドは精神的にも、僕の支えになってくれる、頼りになる奴だった。
ジェラルドには、フランス人の血が入っていて、彼の東洋と西洋の融合した美しさに興味を持つ人が多かった。
一方僕は、ジェラルドに言わせると、血統書付きの犬みたいなものだそうだ。
男の僕はそれほどでもないが、日本人女性はとにかく、絶対個数が少ないからなのか、日本人だというだけでもててしまう国である。
実際、連れて歩くだけでステイタス、のように考えている人からのアプローチは、確かに不快だったし、もっと深く、僕の内面を見て欲しいんだ、と僕はある日蓄積されたストレスをぶちまけるかのように、ジェラルドに言った事がある。
自意識過剰と言われても、ああそうですか、としか返せない。
ただ僕は、僕に向けられる「アメリカ人」の視線に、居心地の悪さを感じていた。
そんなに日本人が珍しいのか。
チャイニーズなら、その辺にいくらでもいるだろう。僕だって、おおざっぱに言えば、彼らと一緒のはずだ。物珍しくもなんとも無いはずだ。
それなのに、レストランで出くわした子どもでさえ、僕をびっくりしたように凝視する。
そうかと思えば、明らかに十歳前後の女の子に突如ウィンクされ、「電話しても良い?」と色っぽい目で見られた事もあった。
グロッサリー・ストアで手を滑らせ、取り落とした缶詰を拾う僕を、床に這いつくばって見上げる男の変態もいた。
僕は徐々に怯えはじめ、もういやだ、と布団を被っていた。
嘘のような、本当の話である。
珍しく僕に同意し、ジェラルドは「気をつけたほうがいい。アジア人好きな人は意外といるし、所詮そういう人は、物珍しくて近寄ってくる子ばかりだ」と、いまいましそうに言っていた。
僕はともかく、ジェラルドに関しては、これだけ美しかったら、そりゃ誰でも試したくなるだろう、と純粋な同性視点から、僕は思った。
ああ、だからジェラルドも、同じベトナム系の彼女なのか、と僕はその日初めて納得した。
一度だけ、ジェラルドの彼女に会った事がある。
彼女も、メイの彼氏のように、恐ろしく平凡な女性だった。おしゃれに無頓着なのか、年齢より老けて見えた。
ジェラルドとまず、見た目が釣り合わない、と僕は少しショックを受けた。
ジェラルドの部屋で、僕を彼女に紹介してくれた時も、彼女はパソコンからほんの少しだけ視線を外して、僕に「ハイ」と言ったきり、再び自分の世界に没頭していた。
ジェラルドには絶対に言えなかったが、何故こんな彼女?と僕は何とも言えないもどかしさを感じた。あれから十年経った今でも、僕は未だにそう思っている部分がある。
「彼女は、すごく頭がいいんだ。家では大抵ゲームばかりだけどね」
ジェラルドは、ゲーマーではなかった。
僕はたった今、ジェラルドがどんな映画が好きかとか、どんな音楽が好きかとか、どういうジャンルの本が好きか、という話をした事がなかった事を思い出した。
僕達がいつもしていた会話は、さっき話したような、「アジア人であること」についてか、そうかと思えば対極にあるくだらない世間話か、僕の愚痴ばかりだった。
一緒にいれば、そこにある物を受け入れ、好きか嫌いかなんて、どうでもよかった。
確かに、千沙さんの言ったように、僕らは似た者同士なのかもしれない。
無性に今、知りたい気分だ。
そういえばどんな本が好きなの?って、聞いておけばよかった。
だからどうなる訳でもないが、そうしたらもっともっと、彼と何かを共有できたんじゃないかと思うのだ。
僕の勝手な思い込みかもしれないけれど、深い所で、僕らは驚くほど世間に対して、同じ感じ方をしていた。
***
エル・グランデでの生活は、十一月末の感謝祭からクリスマスに向けての、コンサートのリハーサルが中心だった。
ペニー・マーケットのイベントや、市庁舎のイベント、カントリークラブに出演予定があったり、僕らバックバンドは、とにかく練習に日々追われていた。
既に町では、大きなクリスマスツリーが至る所に飾られ、僕も十一月の半ばには、ツリーを部屋に飾り終えていた。
ただでさえ覚える曲が多いというのに、人が足りないから出て、と学部長のMr.ジョーンズに誘われ、聖歌隊にまで参加するはめになった。
そんな慌しいある日の事、僕はボーカル専攻のブレンダという、三十代半ばのブラックの女性に呼び止められた。
ブレンダは底抜けに明るく、いい人だった。同じアンサンブルの授業を受けていて、僕は彼女の伴奏を請け負っていた。
ブレンダは何故か、困ったような顔をして、僕を人気のない自販機の後ろへと導いた。
「驚かないでね。あなたに言っておいた方がいいと思って。ミミが、実はあなたがケイトの子どもの父親だって、言いふらしてるのよ。あなたを傷つけるつもりはないけど、あまりにもあなたが気の毒で」
彼女の言っている意味が飲み込めなかった。
英語は母国語ではないし、まだまだ言葉の修行が足りていない僕の聞き違いではないだろうか、と僕はしばらく固まっていた。
ミミというのは、同じアンサンブルのクラスの、ボーカル専攻の女性である。
彼女は真面目な女性だったし、彼女がそんな事を言いふらしているなどと、僕はにわかに信じられなかった。
そもそも、何故そんな話になるんだ?
僕がダメージを受けているのを間近で見ていたブレンダは「ともかく、あの女には騙されないでね。何かあったら、相談に乗るから」と言って立ち去った。
僕は呆然としつつもどうにか帰宅し、自分で作ったカルボナーラを食べながら、ぼんやりとケーブルテレビを見ていた。
何かがおかしい、と僕は思うが、ブレンダとミミのどちらを信じていいのかわからなかった。
何故僕を貶める必要があるのか。
僕はミミに恨みを買うような真似をした覚えはなかった。
ひたすら、良い人のふりをしていた僕が、何故そんな中傷を受けねばならないのだろう。
そしてケイトも、全く無関係の僕と影で噂をされていたのかと思うと申し訳なくて、彼女に土下座したい気分で一杯になる。
とりあえず土下座、というのは、日本人の遺伝子に組み込まれているのだろうか。不思議だ。
すっきりしないまま感謝祭を迎えるのは御免だった。
僕は明日ミミと二人で話をしよう、と決心して、心を落ち着かせるべく、おもむろにプレステ2の電源を入れた。




