4、セカンド・キス
日本では考えられないほどに、どこかに行けば初対面の人に出会い、僕達は挨拶を交わした。
ろくに名前も覚えていない人と、学校の喫煙所で二十分も立ち話をし、そして別れた後に、「あの人誰だったっけ」と首をかしげる日もあった。
向かいの部屋に住むレベッカ、もといベッキーは、新たな友人を連れて、僕のところへ遊びに来た。もちろん、犬も一緒だ。
同じアパートメントの住人だという、レズビアンの白人カップルを紹介され、僕は最初ちょっと引いていたが、二人とも感じのいい人達だった。
「今度一緒に、オレンジ・アベニューに行こうよ。ストレートな子でも大丈夫だから、冷やかし程度でも全然オッケーだよ」
カップルの片割れの、おそらく男役と思われる二十代後半らしきリンダが僕を誘ってくれた。ちなみに、オレンジ・アベニューというのは、D市のゲイタウンを指す。
話には聞いた事があったけれど、僕には全くの未知の世界だった。
僕は好奇心からか、「行きたい」と即答した。オレンジ・アベニューには有名なゲイクラブがあって、そこにはダンスの上手いゲイの人達がたくさんいると聞いていたからだ。
その頃はもちろん、僕は女の子が恋愛対象だったし、今もたぶんそうだと思う。
ジェラルドが特別だっただけで、男を性的な目で見た事は、後にも先にも、彼だけだった。
ところで何故、リンダ達がいきなり僕を誘ってくれたのか、大いに謎だった。
僕はアメリカ人と比べれば、明らかに体つきは細めだし、華奢な感じがゲイっぽく見えるのだろうか、と僕は不安になったが、仲良くしてもらえて嬉しい気持ちの方が勝っていた。
それに、滅多にない機会、是非とも本場のゲイタウンを見てみたかった。
***
オレンジ・アベニューは、僕が想像していたより遥かに、カオスな世界だった。
何軒もリンダ達はバーやクラブをはしごして、酒を飲んでいた。
いかにも南部風の、カウボーイが溜まっていそうなバーに行くと、試験管に入れられた、青や黄色のカラフルなショットを進められ、僕はその禍々しい甘さで酔ってしまった。
ベッキーはストレートな女の子のようで、しかもオレンジ・アベニューに来るのは初めてだと言っていた。彼女は僕の二歳年上で、警備会社で事務をしていた。
僕達はなんとなく、気後れしながらも、その雑多な雰囲気を楽しんでいた。
最後に訪れたクラブは、僕のお目当ての「ファイナル・ステーション」だった。
名前が潔くて、好きだ。
話に聞いていたとおり、フロアには、本当に踊りの上手い人達ばかりだった。
僕はすっかり酔いが回って、気が大きくなっていたせいもあり、いつも以上に多めに回転しておいた。
白いタンクトップにジーンズという、典型的なゲイの人々が、ファンタスティック、と言いながら、僕と一緒に踊り始めた。
アジア人らしき、ドラァグ・クイーンの子がにこにこしながら、怒鳴り声で僕に話しかけてきた。
「私、キムよ。タイ人なの。あなたは?」
長い髪にワンピースだったが、キムはとてつもなくでかい子だった。
いわゆるニューハーフだ。でかいけど、愛嬌があった。
白いのに黒いの、黄色いのに男も女も、中間の人々も、あらゆる異端者達が入り混じり、フロアは最高潮に盛り上がっていた。
僕は別段、目立ちたがりな性格ではない。
人に干渉されるのは大嫌いだし、そもそも自分に絶対的な自信があるわけでもないので、ちんまりとマイペースで生きているのが好きだった。
ただし、この国ではそんな事では、生きていけない。
「俺がバスケット上手いって分かったら、途端に奴らが、手のひら返して馴れ馴れしくしてきやがる。所詮そんなもんだ。俺らは目立たなきゃ、陰気で目障りなエイジアンでしかないんだよ」
テツヤさんが昔、日本人コミュニティーしか知らない僕に、そう言って説明してくれた。
同感だった。
目立った者勝ちだというのは、千沙さんを見れば一目瞭然だ。
もっとも千沙さんは、自分の顔だけで判断されるのを極度に嫌っているようで、だからこそあんなに、がむしゃらになれるのだろう。
ニューヨークから帰ってきた千沙さんは「なんか、映画に出えへんかって、誘われたわ」
と、いつもどおりの、のんびりとした口調で言った。
その映画は後に、超がつく有名俳優が主演で公開されたが、千沙さんが出ていたらよかったのに、と今でも半分残念に思う。
その美貌を活かして生きていく事が、何故彼女の中に選択肢として存在しないのか、僕には理解出来なかったが、今なら、うっすらとわかる。
彼女は美しすぎるがゆえに、その儚さを理解していたのだと思う。
いつだか、あんたもいつまでも若くないんや、ちやほやされるのもあっという間に終わりやで、と不機嫌そうに言っていた事を思い出す。
さて、ファイナル・ステーションの話だ。
僕のすぐ隣では、小柄な金髪の男の子が踊っていて、彼はいわゆる美少年だった。
この国は、一般人の顔のレベルが高すぎる、と僕は改めて思い、ちらちらと僕を見る彼の姿を普通に、可愛い子だなあ、こんな子がゲイなのか、と複雑な気持ちで眺めつつ、時折ぼんやりと視線を合わせていた。
音楽が切り替わり、徐々にスローな曲になる。
お帰りの時間だよ、の合図だった。
隣の美少年が突如僕に抱きつき、僕はうわあ、と心の中で声にならない声を上げたが、疲れと酔いと興奮が相互作用していたからなのか、それを拒絶しようとも思わなかった。
綺麗な子だなあ、と僕はふわふわしながら、小さな彼を見下ろしていたが、ふいにすごい力で頭を引き寄せられ、唇を奪われた。
獣のようにかぶり付いてくる美少年に、頭の中が一瞬真っ白になる。
僕達は無言で、激しく唇を貪りあっていた。というか、僕からは何もしてなかったと思うけれど、遠い昔の事なので正直あまり思い出せない。
技巧的とは言えない舌使いだったけれど、持て余したような若さが溢れるキスだったと思う。
その後も僕達は、二人で一緒に絡み合い、時には彼が僕の唇を求め、僕は到底知り合いには見せられないような、甘美な時間の中にいた。
閉店時間になり、僕らの様子を二階から眺めていたベッキー達が下りてきて、「今日は彼と帰るの?」と真顔で恐ろしい事を言った。
まさか、置いて行かないでよ、と僕はベッキーに言い、彼女は面白そうにニヤニヤと僕を眺めていた。
男同士のキスは、これが二度目だった。
僕は高校を卒業した後、渡米資金を稼ぐ為に、東京のホストクラブで一年程働いていた。
どうしてそうなったのかわからないが、お店でキスの話になり、「俺超上手いって言われるんだけど」と言う先輩と、いつの間にかキスをするはめになった事があった。
その先輩も、最初はジェラルド程ではないにしろ、僕の事を煙たく思っているのがありありとわかった。
その人に、突然仕事上とは言え、ねっとりとした官能的なキスをされて、僕はただただ「すごい」と言うしかなかった。
その日から、僕らは仲良くなったけど、こうして振り返ってみると、僕はいつでも同じ事の繰り返しなのかもしれない。
嫌われてなかった!
それだけで、自分が認めてもらえたような気分になった。
いい年をした今でも、それは変わらないようで、人の警戒心を解くようなくだらない事ばかり言って、僕は社会の一部に成りすましている。




