33、僕の
冷凍庫へデザートのシャーベットを取りに行く。すぐに戻るつもりだったので冷凍庫用のジャケットは着用せず、半袖のまま冷凍庫でぶるぶると震える僕の背中に、暖かいものがかぶさってきた。
僕の、ジェリーだ。
「寒いよ、早く出よう」
がちがちと噛み合わない歯と唇を震わせる僕を抑え込むように、ジェリーの暖かい唇が僕を貪る。
「もう少しだけ」
「そのうちみんなに勘繰られるんじゃない?」
「それでもいいよ」
握りしめたシャーベットが手のひらに張り付き、僕は再び身を震わせた。
凍りついた空気は何故か心地よかった。かちんこちんに凍った僕達が明日の朝発見されるんだ、とジェリーは不吉なことを言う。
「ナオキ!ジェリー!どこ!」
通路で僕達を呼ぶメイの声がした。初夏の女神が、かろうじて僕達を押しとどめてくれた。
***
その夜、ジェリーはいつまでも受話器を耳にあてたままだった。彼が返す言葉はあまりにも短く、僕には何が起きているのか皆目見当もつかずにいた。
よくない知らせだとはわかっていた。
それが誰からであるのかがわからないせいか、僕の不安をいっそう駆り立ててもいた。
実際には10分ほどの会話だったのだろうが、僕にはその時間が倍にも三倍にも感じられるほど長いものだった。
「フィラデルフィアの彼女の同僚から。彼女が入院したって。心労だそうだけど」
「What's happened?」
僕はもそもそとTシャツをかぶり、キッチンにたたずむジェラルドの足元に座り込む。
「お父さんが、トレードセンターのオフィスで行方不明になったって、偶然被保険者のリストから見つけて」
僕は数日前に聞いた彼女の話を思い出し、言葉を失っていた。ジェラルドも換気扇の下でひたすら煙草を吸い続けている。
彼女にとっては憎いはずの父親だ。けれど死んでくれた方がよっぽど嬉しいだろう、とは言えなかった。
「同居人の僕が、迎えに行かないと」
もみ消された数本の煙草は全て、半分以上残されていた。
「彼女だし?」
「ナオキ」
僕の言い方は明らかに棘を含んでいたのだろう。ジェリーの困った顔を見て、僕はすぐさま「ごめん」と付け加えた。
「君が謝る必要はない、でも今は何も考えられない。彼女には僕らのことをきちんと話そうと思っていたけど、こんな状況じゃ無理だ」
「わかってる」
僕はうなずきながら、最も長いと思われる吸い殻に火をつけ、形ばかりの笑顔を作る。
「早く安心させてあげないとね」
「戻ってきたら連絡する」
旅立つジェリーと入れ替わるように、千沙さんがとうとうラヴァーズ・フィールドにやってきた。
相変わらず飄々としていたが心が疲れきっているのだろう、僕達に会うなりいつもより長いハグをしてくれた。
「気ぃつけて行き。待ってるから」
千沙さんを崇拝しているジェリーは、思いがけなく彼女に出会えたことを心の底から喜んでいた。
そして浮かれる僕達から数歩離れて、ケイトが口元に笑みをたたえていた。ただし、目は笑っていないの典型だった。
睨んでるで、と千沙さんは小声で言い、肘で僕の体を押しやる。
僕はケイトと似たような笑みを浮かべ、軽い抱擁を交わした。
「君がチケットを探してくれて助かったよ。おかげでジェラルドもフィラデルフィアまで運転せずにすんだ」
「いいのよ、皆大変な時期だもの。助けあわないと」
しばしケイトと雑談をした後、千沙さんがいないことに気付いた。彼女は長い通路の一番奥にあるコーヒーショップで会計中であった。
客の消えたロビーに腰をおろし、僕はぼんやりと滑走路を眺めていた。ついこの前までは見慣れた風景だったのに、今となってはその時間が遠い過去のように思えてならなかった。
「彼女、クールね」
僕は曖昧に頷き返すと隣に座ったケイトに感謝を込めてもう一度微笑んだ。
「大変だったんだ、でも全然、俺らにはそんな風に見せない。昔からあの人は強くてクールだ。でも本当は、すごく疲れてると思うんだ、だからしばらく田舎でのんびりしてもらえたらいいと思う」
けれどケイトの声からはいつもの快活さは消えていた。
「人の心配してる場合じゃないでしょう。あなただってもう時間がないじゃない。この前の話、返事を聞かせてくれる?」
ケイトは、僕が彼女からの電話を無視し続けていたことに腹を立てているのだ。
ロビーが無人であるのは幸いだった。正確には無人ではない。疲れ果てた千沙さんが背もたれに寄りかかったまま、薄目をあけて僕らを見ていた。
そして僕に背を向けると十人掛けの椅子にごろりと横たわった。
「君とは結婚できない」
ケイトの表情に変化はなかった。
「好きな人がいるから?今の彼?」
僕は平静を装いつつも「彼だよ」と言うのは少なからず緊張した。当然だ。
それまでぴくりとも身動きしなかった千沙さんががばりと上半身を起こし、あんぐりと口を開けて僕を凝視していた。
まさかこのような場所で、そのような込み入った会話をするとは思いもよらなかったのだろう。
「男同士で結婚できるはずないじゃない!ましてやあなたは外国人なんだし」
あかん、と千沙さんが言ったような気がした。
「私ならあなたが欲しいものをあげられるのよ、でも彼にはできない」
「知ってる」
次第に赤身を帯びていくケイトの瞳は僕の心をちくちくと痛めはじめ、気がつけば僕は彼女から目を逸らしていた。
「移民局に通報したら、あなたはどうなるかしら?あなただけじゃない、あなたのお友達もあのお店だって」
世の中の汚いものにまみれ、あっけなくこの世を去ってしまった美しいルイスが、僕の脳裏に浮かんでいた。
考えすぎなのだとわかっていた。けれどケイトまでもがルイスのように転がり落ちていくような気がして、僕は不安でたまらなかった。
「捕まる前に俺は日本に帰るよ。だから余計なことはしないでくれ。もう誰も巻き込まないでくれ。君とあの店は関係ないだろ」
「だったら今すぐこの国から出て行ってよ。私の目の前から消えてよ」
僕はどうしてこんないい子に、こんな酷い言葉を吐かせているのだろう。ヴィオラを弾いているケイトは、それは美しくて、未来に溢れていて、なのに今は僕なんかの為に、醜い一面をのぞかせている。
血がにじむほどにきつく唇をかみしめたケイトに、僕は最後の言葉を探していた。
もういい人じゃなくてもいいのだとわかっていた。
なのに僕は最後までいい人を演じ、そんな自分に酔いしれていたのかもしれない。
「ありがとう。楽しかった」
***
「あんたはどうして、ああいう病んだような女の子しか周りにおらへんの。しかも半分は自分のええかっこしいのせいやろ。私のこと彼女やって言うてもよかったのに、アホやな。ここでカミングアウトせえへんでもよかったのに」
車の中でぶつぶつとお小言を言いながらも、千沙さんは煙草に火をつけて僕の口にくわえさせてくれた。
「みんな夢見てるだけですよ。日本人なら品行方正、清廉潔白だろうってサムライのイメージだけ先行するから、俺みたいな奴でも良く見えちゃうんじゃないんですか」
全開の窓から猛烈な風が襲いかかり、千沙さんの長い黒髪を容赦なくかき回している。
「金髪のお姉ちゃんに手ぇ出さんと我慢したのはえらいわ。まあ、ジェリーの方が色っぽいけどな」
金髪はそんなに好きじゃない、と僕が言うと「そうやな、マドンナも黒髪が一番似合うてるし」
と千沙さんはしたり顔で言うのであった。
我が家に着くやいなや、千沙さんはカートを芝生に投げ捨てるとパティオの錆びかけた椅子にどっしりと背を預けた。
「あんな、私がわざわざここに来たのはナオちゃんに話があったからや。ちょっとそこに座り」
「もしかしてまだ怒ってます?」
僕は千沙さんの隣の足が一本ひしゃげた椅子に座る。身動きするたびにガタガタと音を立てながら僕は誰かがビールを持ってくるのをひたすら待っていた。
千沙さんは厳格な教師のような態度でおもろないんや、僕に言い捨てた。
「シルヴァンの彼氏のつてで、私ビザもらえることになってん。だからナオちゃんのことも頼もうかと思って急いで書類とか持って来たのに、目の前で下手な取り引きされて、私めっさ悲しいんやけど」
無職の住人達が何事、とぞろぞろ夕暮れのパティオにビールや煙草を手にやってきた。
そして珍しい客が彼らに紛れて思い思いの場所に腰掛ける。
無言で片手を挙げるクレイと、カービィがいた。クレイは何度かこのあばら家で飲んだくれているが、カービィが訪問してくれたのは初めてだった。
固い顔をして顎鬚を撫でているカービィと一緒に、モニカも芝生に胡坐をかく。
こいつらはことごとく、プライバシーという単語すら聞いたことがないのではないかと思う。
触れて欲しくないことでも、平気で顔を突っ込んできて見当はずれな意見をまくしたてる。
僕もそれに倣い、この前のようにデイヴィッドとぶつかり合うまでになれたけれど。
千沙さんはスピークイングリッシュ、と口々に言いたてる人々を睨みつけ「うるさいわ」と日本語で返す。
「ナオキが、日本に帰るって。とてつもなく理不尽な理由で。なんやねんあのケイトとかいうビッチは。人の足元みて最低やわ」
カレッジの人々が険しい表情で千沙さんと僕を見つめている。
「ケイトと何かあったの?」
モニカが僕にクアーズを手渡し、今度は僕の足元に座り直した。
「脅迫しよるねん」
まあええわ、と千沙さんは日本語で呟くと「四の五の言わんとこれ全部サインしたらええんや」と移民局に提出する書類の束を取り出した。辞書よりも厚い、と僕は思った。
「自分の一生分の契約書が積まれている」
デイヴィッドの言葉に全てが込められていた。
「もういいんです」
「いいって何が。ビザさえ取ってしまえばこっちのもんや。何を遠慮してるん、ビッチのことは忘れや」
「ケイトは関係ありません。帰国するって、前から決めてたし。でもありがとうございます。本当に、嬉しかった」
千沙さんの手から灰と化した煙草の塊が、きれいにぽろりと足元に落下した。
嘘やろ、と千沙さんは僕の顔をまっすぐに見つめている。
「どうしてナオキが出て行くの?ビッチの言いなりになるの?そんなのおかしいわよ」
「あのね、俺は法律を犯している立場なんだよ。わかる?」
「そんな人掃いて捨てるほどいるわ!馬鹿みたい、切腹のつもり?」
「そんなんじゃないけど」
可愛いモニカ。妹みたいで、大好きだった。
「ナオキ、行かないで。お願い」
「I wish if I could」
モニカはテーブルの上に積まれた書類をばんばんと叩く。
「過程はどうあれ正式な書類なんだから問題ないじゃない。千沙がせっかく持ってきてくれたのよ」
確かにこの分厚い書類にサインをすれば、喉から手が出るほど僕が切望したものが手に入るのだ。
なのに僕は、そうじゃないんだ、としか繰り返せなかった。そんなやり方で手にしたとして、喜びなんか欠片もない。
「フェアじゃないとか言うてる場合やないやろ。ビザがなかったら何もでけへんやろ。ピアノも弾けない、働けない、でもこれさえ取ってしまえばびくびくしながら生きていかんですむんやで。ビッチとも永遠におさらばできるやろ」
「ジェリーと離れていいの?いいわけないじゃない!」
「何も出来ないんだよ。本当に、何も」
早くも三本目のクアーズを手にし、カービィは押し問答になる僕達に割って入った。
そうだ、いつもアンサンブルでああだこうだと生徒達がもめ始めると、苦虫を噛み潰した顔でカービィが最後に提案するのが常だった。
「ナオキ、ここでなくてもいいなら、ロスとか、どこかのビッグ・バンドに紹介しよう。君なら大丈夫だ。アーティスト・ビザがおりるんじゃないか?」
「何も考えられないんです、今は。自分がどうしたいのかもわからない。ピアノとか、市民権とか、もう全部、何もかも」
「辛いのは理解しているつもりだ。でも、ここで立ち止まってはいけない。君はピアノを弾かなきゃいけない人間なんだよ」
「俺よりずうっと弾きたいと思ってる人が弾けていない状況で、俺なんかが、俺みたいな人間が」
「君も普通の状態じゃない。冷静になれるまで待つんだ」
「だからそんな時間はないって言うてるやろ。おっさん黙っててや」
珍しく荒々しい物言いをする千沙さんに気押されながらも、「一応教授なんで」と僕はカービィに対して礼をわきまえるようにうながした。
「ほんまに?ストレートな先生なんて初めて見たわ」
「エル・グランデのボブなら知り合いだよ」
苦笑いをしながら、顎鬚をなでるカービィに、ようやく笑顔を見せる千沙さんだった。
「ほんま?私あの人の彫金クラス受けててん。あの人ごついけど可愛いよな」
いつの間にか打ち解けている二人に肩をなで下ろし、僕は残りのギャラリー達を見回した。彼らは思い思いの場所に座り、煙草をふかし、濃くなりつつある夜空を眺めている。
この庭の外はついこの間までありふれた日常が、やっぱり今日も続いているような気がした。
千沙さんが持参した、何センチと積まれた山盛りの書類を覗き込んではうめき声をあげるアメリカ人を見やり、モニカはくいと顎をあげながら言った。
「じゃあ私と結婚しよう。名前だけ貸してあげる、私はビッチみたいにいろいろ求めてないから全然大丈夫よ。書類だってこんなにならないはず」
思わず笑いがこみあげてきたが同時に鼻の奥がつんと刺激され、僕は何度かまばたきをしていた。
「君にはブライアンがいるだろ。俺なんかと嘘でも結婚したらダメだよ、きっと奴が傷つく」
「やめて」
不幸にも仕事で今夜ここにはいないブライアン。今ならモニカの本音を引き出せるかもしれなかった。ごめん、聞き方が下手で、結局本当のことは教えてもらえなかった。
でも、僕は知っている。二人がとてもお似合いで、見ている僕が幸せになる空気を作る二人だったことを。
「自分でもわかってるくせに」
できることなら、この二人を最後まで見届けたかった。二人だけじゃない、デイヴィッドも、カービィやロジャーも、名前もよく知らない数え切れないほどの陽気な訪問者達も、本当に大好きだった。
でも、もうできない。
「蛇飼ってる人なんてお断りよ」
涙を拭いながら、モニカは僕をひたすら睨みつけていた。そんな可愛い顔も、とうとう見おさめになるのか。
「へえ」
僕は衝動的に、モニカの縮れた金の髪を抱きしめていた。泣くまいと心に決めたはずが、現代の侍は実にひ弱で、ものの五分もたたず瓦解しようとしていた。
「残念だけど、時間切れだ。ジェリーを、彼女に返してあげないと」




