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32、殺して、僕を

 明くる日僕が帰宅すると、同居人達がパティオで朝食をとっていた。

 住人が朝から勢ぞろいしているさまは滅多にお目にかかれない。

 がん首並べて僕を待ち構えていたのかと、僕は後ろめたさに錯覚してしまう。一体何人いるんだ、と僕は久しぶりに人間の数を数え始めた。

 そうだ、ここは暇を持て余した無職の人間の住処でもあったのだ。


 四枚重ねのパンケーキをほおばり、ブライアンが「もう食べた?」ともごもご言った。

「ハイ、ナオキ」

 モニカがコーヒーのおかわりを持って台所から戻ってきた。

「あなたも飲む?」

 僕は無言で首を振ると皆に背を向け、自分の部屋に入っていった。

 ベッドに倒れこみ、僕は薄目を開けたままブラインドの奥から差し込む光を眺めていた。


 ドアをノックする音が聞こえたが僕は無視を決めこみ、のろのろとうつ伏せに体勢を変える。

「どうかした?昨夜はファイナル・ステーションじゃなかったのよね。デートでもしてた?」

 僕は何も答えず、枕に顔をうずめた。

 お願いだから、放っておいてほしかった。

 いつにもまして優しい気遣いを見せるモニカに対し、僕は罪悪感のようなものを覚えていた。

 

 モニカは立ち去ろうとせず、僕の枕元に座って黙りこくった。

 モニカの手が僕の背中に触れ、それはまるで病気の子どもを労わるようであった。

 その手を振り払いたいのと同時に、いつまでもそのままでいたい自分がいた。


 ふいに僕は、枕に突っ伏したままぼそぼそと吐き出すように呟いていた。

「どうせなら、ツインタワーじゃなくてこの家に飛行機が落ちてくればよかったんだ。俺がこんなふうに死にたくなる前に」

 モニカの手が一瞬止まった。彼女は僕のシャツを握りしめながら無防備な背中にごつんと頭を乗せた。

「何を言ってるの、やけになるなんてナオキらしくない!仕事なら絶対見つかるわ、きっとうまくいくよ」

 

 どうやら彼女は、僕が落ち込んでいる原因は仕事が見つからないことにあるようだと思っている。

 けれどその時の僕は、もはや全てがどうでもよかった。本当に、飛行機がここに落ちればよかったのに。

 僕がジェラルドを傷つける前に、この世からいなくなってしまえばよかった。

 僕はむくりと起き上がり、ようやくそこで涙を浮かべているモニカに気付いたのだった。

 彼女は心の底から怒り、悲しんでくれていた。こんな卑怯で醜い僕の為に、可愛い鼻を真っ赤に染めていた。


「Listen。もしも本当に飛行機が落ちてきたとしてもよ。私がナオキを背負って逃げるわ。死にたいから放っておいてくれなんて言っても許さないわ。絶対に」

 小学生みたいに小さいくせに、僕なんて背負えるわけもない。

 けれど僕をぎゅっと抱きしめる両腕は、いつもより力強く温かかった。

 ごめん、と一言だけ僕は言い、モニカのふわふわした髪をそっと撫でた。

 僕達は何も言わず、抱き合ったままだった。


 あの夜の僕はジェリーを手に入れたのではなく、むしろ彼を滅茶苦茶に壊してしまった。

 ジェリーはひたすら笑っていた。

 幸せだとも言ってくれた。

 誰でもいい。この僕を殺してくれないだろうか。

 僕のせいでジェリーの人生が再び狂い始めるのではないかという恐怖に襲われ、僕は愕然としていた。



***



 ジェラルドの声にはっとして、僕は一気に冷静さを取り戻した。

 彼の一声は、バケツいっぱいの氷水を頭からぶちまけるに匹敵する効果をもたらした。

 なんてことを口走ってしまったのだろう。絶対に口にしてはならないことを、僕は勢い任せにぶつけてしまった。

 ジェラルドはもうすぐ結婚するんだ。

 最後まで、笑って祝福するはずじゃなかったのか。


「ごめん、もう変なこと言わないから、だから怒らないで」

「怒ってない。じゃあ今のは全部嘘なの。僕を好きだと言ったよね?」

「言ったよ」

 ジェラルドは僕の手を取り、耳を疑うほどに艶かしい、それでいて自由に歌うような口調で言った。

  

「ピアノに触る為の、繊細な指だ。僕は君の手が、とても綺麗だって思った」

 ジェラルドの唇が僕の指を羽のような軽さで滑っていった。彼が一本ずつゆっくりとなぞり上げるたびに、僕は気付かれぬよう肩を強ばらせた。

 彼の柔らかい舌が薬指に絡みつき、指の付け根に軽い歯を立てる。僕はたまらず、歓喜のうめき声をもらしていた。

「それから、この手で触れられたら僕はどうなるんだろうって」

 ジェラルドは僕の手の甲に何度も優しく吸い付いた。ぼうっとする僕を見据えるジェラルドは、上目遣いに僕の人差し指を咥えていた。


「ナオキは、男と寝たことあるの」

「……Not yet」

「そう」

 ジェラルドがしなだれかかった勢いで僕はあっけなく倒れ、ソファの肘掛けに頭をこっぴどく打ちつけてしまった。

 

「って、だから俺はやり方なんて知らないし、もうやめよう。どうかしてたんだ。君が好きだ。だけど失いたくない。だって君は、俺の一番大事な友達でもあるから」

 僕がじんじんする頭を撫でながら起き上がろうとすると、すかさずジェラルドは僕の上にどさりと座り、射るような目つきで僕を見下ろしていた。

「大丈夫だよ。僕は傷ついたりしない。君と愛し合いたい」


 Make love、とささやくジェラルドの唇が目の前に迫り、僕は完全に理性を失っていた。

 彼の誘惑に抗えるはずもなかった。その夜のジェラルドは誰よりも美しかった。

 彼の挑発する声や甘える仕草は、僕の頭の奥底を完膚なきまでに麻痺させた。

 今まで気付かなかったが僕を覗き込む切れ長の瞳は、うっすらと緑がかっているようにも見えた。

 僕はジェラルドの華奢な体を抱きしめ、転がりもつれ合いながら自分の体を押し上げた。

 先程とは正反対に、今度は僕がジェラルドを見下ろしていた。

 

 

「初めてじゃなくて驚いた?」

 僕はからからにかわいた喉をごくりと鳴らし、ヤー、と弱々しく答えた。

 キスのしすぎで唇が乾くなんて、僕はその日初めて知った。

「自分でも未だによくわからないんだ。でも、ナオキの指を見るたびぞくぞくが止まらないから、たぶん男がいいんだろうね」


 サイドテーブルの上に置かれた僕のマルボロ・ライトを掴むと、ジェラルドは台所へ向かった。

 ごくたまにではあったが、彼は酔った時に限り煙草を吸う。

 その日は酔うほどまで飲んでいなかったはずだが、互いの欲望に酔いしれていたのだろうか。

 だが僕はともかく、少なくともジェラルド自身は酔った勢いに流されたようには見えなかった。

 何が彼を駆り立てたのだろう。僕は全てが終わった後も彼の真意が掴めずにいた。


 換気扇の下で暗闇をじっと見つめ、ジェラルドは煙草をふかし続けていた。

 部屋が煙草臭くなって彼女に怒られたりしないだろうか、と僕は少々気を揉んでいたが、ジェラルドは一向に構わないのか二本目に火をつけた。

「いつ、どこで、誰と、どのようにして?って顔してる」

「気のせいだよ。俺、気にしてないし」

 初めての僕はベッドの上でジェラルドにリードされっぱなしだったのだから、考えごとをする余裕なんて一ミリも持ち合わせていなかった。

 今思うとあの時の僕は、年上の女性に手ほどきされるうぶな少年のようだった。


 隣で煙草を吸い始めた僕をちらりと見ると、ジェラルドはかすかに笑った。

 彼の笑顔は何度か見たことがある。けれどその時のジェラルドの笑みは今までのものとは違う、満ち足りた穏やかさに溢れていた。

 その瞬間愚かな僕の頭に、初対面の僕に向けた彼の敵意混じりの仏頂面が浮かんだ。

 そうか、と僕は日本語で呟いていた。

 

「ナオキ、泣いてるの」

「泣いてない。ただ思い出しただけだ。初めて会った時、君は僕を拒否してた。かたくなにね、とにかく僕を認めようとしなかった」

 ごめんね、と言いながらジェリーの唇がふわりと僕のものに重なった。

 彼の舌がゆるりと僕の上唇をなぞり、その後はごく自然に僕の舌を捕えていた。

「好きなタイプだなあって思ってたんだよ。本当は。だけど君を拒否することで、自分を肯定したかったのかも」

 

「それならもっと、優しくしてほしかった。実は結構傷ついてたんだ」

「ごめん。いっぱい舐めたら治る?」

 わからない、ファック、と僕は怒りを含んだ声で返した。ジェラルドは音を立てて涙を吸い取り、僕の目尻をぺろりと舐めた。    



***



 ジェラルドの両親がアメリカに亡命した時、既に母親のお腹の中には彼がいた。

 二人が新たな土地にやってきて間もなく、ジェラルドは生まれた。

「僕を見て母はもとより、父はさぞかし驚いたんだろう。両親のどちらにも似ていない子どもが生まれてきたんだから。アジア人の、ベトナム人の面影が一切ない白い赤ん坊が生まれてきたんだ」

 過去に僕は、ジェラルドはフレンチ・クォーターだと誰かから聞いていた気がする。だから他のベトナム人と比べて彼の肌の色が薄いことも、瞳の色がほんの少し透けていることも当然なのだと思っていた。


「僕もずっとそう思っていた。でも違った。一度だけ祖父母が僕らを訪ねてきた。僕にはちっとも似ていなかった。というより、僕は誰にも似ていなかったんだよ。ごまかしようがないくらい、僕の血は生物学上の父親寄りだったんだ」

 けれど、母親の口から真実が告げられることはなかった。相手の男とは同意の上であったのか、それとも望まない形での行為だったのか、今となっては知る由もない。


 父親は自分の妻を寝取ったであろう見知らぬ白人の男を憎み、やがてそれは歪んだ形で息子に向けられた。

「最初はささいなことが原因で鞭でぶたれたりしていたんだけど、躾が常識を超えるくらい過激になった。小学生の終わりの頃には、父親の相手をしていたんだ」

 その時の僕は、どんな顔をしてジェラルドを見ていたのだろう。

 僕はひたすら煙草を吸い、彼の口元をぼんやりと眺めていた。 


 何も言わない僕に向かって、ジェラルドが悲しげに微笑んでいた。

「でも僕には何がなんだかわからなくて、悪い子だから罰を受けているのだと思っていた。だって父親が、いつもそう言っていたから。それに僕を犯している時だけは、父はひどく優しかった」

 幼い彼はそれが当たり前に、日常になりすぎていた。でもある時それは異常だと知る日がやってきて、ジェラルドは父親から逃れようとする。


 けれど大人の力にはかなうはずもなく、抵抗すると殴られながら無理矢理犯されるようになった。

「ジュニア・ハイの頃までね」

 二本目の煙草を灰皿代わりのコップにぎゅっと押し付けながら、ジェラルドはふうっと煙を吐き出した。


 その時の僕は至って冷静なふりをしていたと思う。それでも声の震えは、どうにも隠せなかったような気もする。

「誰か助けてくれる人はいなかったの。お母さんとか、学校のカウンセラーとか」

「母は見て見ぬふりをしていた。そしてとうとう僕を置いてどこかに逃げた。母が消えた後に父はますます自暴自棄になり、僕に暴力を振るっていた」


 ついに不登校になり、ジェラルドはどうしようもないくらい荒れていた。家に帰れば父親にやられるから、悪い奴らとたむろして自分の身を守ろうとしていた。そうこうするうちに、彼の様子がおかしいと周りが気付き始めた。

「その時のクラスメイトに彼女がいたんだ。おとなしい子だったけど芯が強くて、優等生で。彼女だけが心配してくれて、路地裏でマリファナ吸ってた僕のところに会いに来たんだよ」


 品行方正で堅物のジェラルドと堕落の代名詞であるマリファナがどこで結びつくのか、僕はとっさに理解できずにいた。

 だが、若者にありがちなささやかな誇張とも、人の気を引く為の虚言とも思えなかった。

 絡み合った複雑な糸がようやく僕の中で、綺麗に繋がれた時でもあったから。 


「彼女が、助けてくれた?」

 ジェラルドはこくりとうなずいた。

「彼女も僕と同じ状況にあったからだと思う。僕らは秘密の共有者で、戦友だった。今も、たぶん」

 恐ろしいほど無愛想な彼女、どう客観的に見てもジェラルドと似合いとは言いがたい彼女、今までの彼女の態度にようやく僕は合点がいった。

 彼女もまた、癒しきれないほどの傷を心にも体にも受けていたのだ。


「僕の傷を見て彼女が言ったんだ。『私のお父さんも鞭でぶつの。だからぶたれないように我慢して、セックスするんだ』って、泣きながら」

 この文明の世において人を鞭で打つなど信じられないが、ジェラルドの世代は鞭でしつけられるのが普通だったそうだ。

 今はさすがにほとんどないと思うけど、とジェラルドは付け加えた。


「僕より弱い女の子が必死で戦っていたんだ。その時僕は率直に、自分が情けないと思った。彼女のおかげで目が覚めた。僕は何にも負けず、強い人間にならなきゃって思わされた」

 今のジェラルドからは、到底想像できない過去があった。

 

 高校生になると二人は同居を開始した。その頃ジェラルドは今とあまり変わりがないほどに成長し、父親から暴力を受けることはなくなっていた。

「父親を殺したいとか思わなかったの。直接でなくても、社会的に抹殺してやりたいとか」

「父の元を離れて僕達は自由になった。それで充分だと思ったし、とにかく過去の出来事は忘れて前に進みたかった。憎むことで何か解決するのは、僕らの主義に反したから。誰の力も借りずに大人になれば、きっと強く生きていけるって」


 彼らの努力のかいあってか、大抵のことはうまくいった。けれどある種の染みついた感情が働くせいで、うまくいかないこともあった。 

「大人になっても、結局僕らは誰ともセックスできなかった。おそらくまだ彼女は乗り越えていない。そして僕はある日気付いたんだ」


「僕が知らず知らずのうちに同性に興味を持ってしまうのは父のせいだけじゃなくて、僕自身の生まれついての性質なんだ、って。どうして女の子と恋愛できないのか悩んだ時期もある。でも今はものすごくすっきりしてる。君は大袈裟だと言うだろうけど、信じられないくらい心が穏やかなんだ」

 やっとだよ、とジェラルドは微笑みながらささやいた。


 僕のせいなのか。

 僕が決して触れてはならないものに、ジェラルドが隠しておきたかったものを不用意に暴いてしまったからなのだろうか。

 ままならない自分の状況に腹を立て、ジェラルドに八つ当たりしたようなものだったのに、彼はこの僕に感謝しているとまで言った。

 友人として短い付き合いではあるが、かと言って全く浅い間柄でもない。ある程度『彼』のことは、知っている。

 僕はとっさに、自分でも想定外の言葉を口にしていた。 

 

「だけど君は、彼女と結婚するんだろ」

「わからないけど、たぶん。たとえ僕が君と付き合ったとしても、彼女は気にしないんじゃないかな。僕達に恋愛感情はない」

 そうであっても彼らはお互いを必要とし、依存し合って生きてきたのだ。

 そこに痛みも苦しみも分かち合えない僕が入り込んでいいとは到底思えなかった。


 彼は僕の存在を、苦しみから解放してくれた救世主のように感じているらしかった。

 けれども僕は凍っていた彼の心をとかしたのではなく、元どおりに戻せないくらいこなごなに破壊したのだ。

 何よりも僕は、ジェラルドが恐かった。彼が長年抱えてきたものの正体をようやく知り、恐れ始めていたのだ。

 元いた場所に引き返せなくなることが、たまらなく恐ろしかった。

 

  

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