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31、もしも僕が欲しいと言ったら

 日を追うごとに、人々が血気盛んになる。

 報復以外あり得ないと語気を荒げる人々の多さに、僕はいつしか孤立感を抱き始めた。いくら馴染んだ土地であれ、結局僕は異国人だった。

 事情を知らない部外者が口出しするのはためらわれた。


 けれどどうして、誰もが右へならえの「報復」論調であるのか。

 事実、いくばくかの著名人が反戦主義を唱えたものの、非国民として世間の非難を浴びた。

 この国は、何処へ向かおうとしているのか。それとも初めから、僕が勝手な幻想を抱いてただけなのか。

 米国のアフガニスタン侵攻は不可避となりつつあった。

 アメリカを攻撃したテロリスト達ではなく、彼らが潜伏しているとされるアフガニスタンを、である。

 反論の声は、限りなく小さかった。 

 

 対照的にあのおんぼろ屋敷の住人達は、何を置いても酒無しでは生きていけず、僕らはあちこちのバーで飲んでは不安を紛らわせていた。

 声高に「戦争だ」と叫ぶ住人はおらず、いつもどおりで僕は安心していた。同時に、じわじわと僕らの居場所が狭まってきていると思わずにはいられなかった。


 隣の席で顔を真っ赤にしたおじさんが「I'm ready」と叫びながら、ライフルを構える仕草をする。

 一歩外に出れば、心底嫌気が差す光景の連続だった。

 そんな人々を鼻であしらうかのように、僕達は今までどおり大騒ぎしながらビールを飲み、世間の荒々しい風潮から逃れようと日々酒に溺れつつあった。

 それもひと段落すると、元のように庭でぼんやりしながら煙草をふかし、毎日ありったけのビールを飲んだ。

 庭を照らし続けてくれた逞しい蛍達の姿は、いつの間にか消えていた。

 経済状態の悪化で、ビールの代金すら怪しくなる頃、僕らは長かった九月の終わりを迎えようとしていた。


 僕はある日、古巣のブロック・カレッジを訪ねた。

 新学期が始まり、クレイも新たな子ども達の子守りで忙しそうだった。

 幼さを残した新入生達を見ると、ここで起きた数々の出来事がひどく懐かしく感じられる。

 その日はクレイの奥さんであるポーラも、陶芸室で熱心にろくろを回していた。

 男物の古ぼけたTシャツを着て、プラチナ・ブロンドの長い髪を無造作に束ねている姿は、初対面のジェリーに衝撃を与えた時とは雲泥の差である。

 僕に気付くとポーラはにこりと微笑み、ろくろを止めて廊下へと足を運んでくれた。


「ニュー・オリンズは楽しかったわね。本場のストリップで、たくさん勉強させてもらったわ」

 僕に抱きつく体は華奢な女性のものだったが、大きな胸の弾力がこれは明らかに異物であると物語っていた。

 化粧ひとつないポーラの顔は、あどけないティーン・エイジャーのようだ。発言内容と見た目に隔たりがあり過ぎるのだが、それもまた可愛らしかった。

「またみんなで一緒に行けたらいいわね。今度はロジャーやカービィも一緒がいいわね。女の人の裸を見たら、ロジャーがどんな顔をするのか一度見てみたいわ」

 同感だった。

 またお祭り騒ぎが出来るといいね、と僕は笑ってみせる。

 けれどポーラには僕の笑顔は空元気であると、とっくに見透かされていた。


「ブライアンに聞いたのだけど、空港辞めさせられたって、本当?」

「うん。だから、また学生に戻れないかってミス・ローナに会いに来たんだけど」

 学生に戻るのが最も手っ取り早く、かつ合法的な滞在方法だった。

 けれど、学生課のミス・ローナは悲しそうに首を振った。


「私にできることなら、なんでもしてあげたいけど。ナオキ、ここでは無理なのよ。他の大学で修士課程に進まないと」

「俺、別に、そんなのいらないんですけど。修士号のピアニストなんて、どこに需要があるんです。クラシックじゃあるまいし」

 第一そんな大金はどこにもない、と僕は即座に却下した。

 小さなカレッジでも相当大変だったというのに、大学院の費用など寿司屋のバイトでまかなえるはずもなかった。

 けれどミス・ローナは、僕の主張をふんふんと聞き終えると、意外なほどあっさり解放した。

 そもそも留学生の受け入れなど、僕が第一号の学校であった。

 言葉だけは丁寧だが、余計な面倒は避けたいといわんばかりの彼女の手のひらを返した態度にも、僕はあまり傷ついていなかった。

 解雇された時に、簡単に心が折れない耐性が多少なりともついたようだ。


 ミス・ローナとの交渉はものの三分で決裂した、と僕が言うと、ポーラは「仕事ならみんなで探すわ。うちのドアマンなんてどう?」とすかさず勧めてきた。

 屈強なブラックの男達ならともかく、僕みたいに腕力のない人間がどうしてストリップクラブのドアマンなどできるというのか。

 中のボーイならできるかな、と冗談混じりに答えると、ポーラは真剣な顔で「マネージャーに話してあげる。いつ来てもいいのよ」と言った。


 僕はポーラと世間話をしつつ、掲示板に張り巡らされた求人広告をチェックしていた。

 アラスカで鮭漁、月三千以上。悪くない。

 ただし仕事の内容は、インドアの僕が一日耐えられるかどうか怪しかった。

 逃げ出したくとも、四方を海に囲まれた船の上では逃げられない。

 

「俺みたいな外国人も、雇ってもらえるのかな」

「あなたみたいな細腕のピアニストが海に出たって、船から振り落とされておわりよ」

「俺もそう思う」

 僕の冗談をいちいち真剣に返してくれるポーラが以外だった。

 案外、真面目な人なのかもしれない。 


「もうすぐクレイも授業が終わるわ。待ってたら?講堂も空いてるみたいだし、何か弾いてよ」

 けれど僕はゆっくりと首を振り、行かなきゃ、と時計の針を目で追っていた。

「また今度。クレイによろしく言っといて」

 じゃあ、と僕は片手を振って馴染みの校舎を後にした。


 残念なことに、今日はカービィにもロジャーにも会っていない。

 会えば僕はきっと、弱音を吐いたり毒づいたりするに決まってる。

 少なくとも今日は、会うべきじゃない。

 僕はいつも、妙な線引きをして自分をがんじがらめにしている気がする。

 そして僕の一人よがりの決定は、大抵半分以上が失敗に終わる。



***



 家に戻ると、デイヴィッドが既に帰宅していた。時刻はまだ、五時をまわっていなかった。

「ビルを爆破するって電話があって、二,三時間避難したんだけど、結局いたずらだったよ。もう三度目だ」

 仕事にならない、とデイヴィッドは吐き捨てるように言う。

 スプリングが壊れかけているソファに、デイヴィッドの大きな体がめり込んでいた。

 片腕で両目を覆い、デイヴィッドは天井に向かって呪いの言葉を呟いた。

 地獄に落ちろ、と言ったような気がした。


「あいつらは裁かれるべきなんだ。俺達を敵に回したことを後悔させてやる」

 何故アメリカは当然のように地球上のいろんな国を「裁き」続けるのだろう。

 これからも地球の治安維持の為、あらゆる紛争や内戦に首を突っ込むのだろうか。

 けれどどうして彼らにだけ、それが許されるのだろう。


「でも本当の敵はテロリストであって、そこに住む人々を無差別に攻撃するのは正しくないよ」

「テロリストに肩入れした国が言い訳なんかできるか。何より本土を攻撃したってことは、俺達と戦争する覚悟があるってことだろ。俺達はそう受け止めている」

 背筋が、寒い。


「やられたらやりかえすの」

「当たり前だ。アメリカは、絶対に許さない」

「誰を、何を」

「敵討ちなんだよ。これは今までの戦争とは違う。ベトナムともイラクとも違う。本土で人が死んだんだ。たくさん殺されたんだよ」

「イスラムは君らが思うより執念深い。目には目を、歯には歯をだろ。復讐の繰り返しだ。あと何百年経てば今までの争いが愚かだったと気付くんだろうね?」

「千五百年以上経っても、精神的に何も成長してないんだ。おそらく地球が滅びるまで、奴らは変わらないよ」

 それは君達も同じだ。 


「間違ってるよ。俺達はそんなふうに教えられていない。ベトナムよりもっと前に、たくさん日本人も死んだよ。だから戦わないって決めたんだ。負けたことのない君達には、おそらく理解できないと思う」

 その日の僕はいつもの僕より数倍も好戦的で、執拗にデイヴィッドに食い下がっていた。

 誰かれ構わず、噛み付きたい心境だったのだ。カービィ達に会わなかったのは正しい選択だった。

 デイヴィッドが憎いわけじゃない、デイヴィッドにそう言わせる環境がただ忌々しくてならなかった。 


「君達もイスラムも同じだ。同じくらい、愚かだ」

 デイヴィッドは、平和主義者なのだと思っていた。だからこそ余計に、彼に対する失望感が増大したのかもしれない。

 違う。

 僕が勝手に勘違いしていただけなのだ。

 息苦しい日本にはない自由がこの国には溢れていると、願えば何でも叶えられると、ありもしない幻に僕はずっとすがり続けていたんだ。



***



「彼女、いつ帰ってくるの」

「落ち着くまで二週間くらいかかるだろうって。今は飛行機も飛んでるから、ひと段落すればそのうち戻ってくると思う」

「彼女には伝えたの?その」

 ああ、とジェリーはうなずき、軽く肩をすくめた。

「出張から帰ってきたら話そうと思ってたんだ。で、そのままだよ」

 ジェリーの彼女は、大手の保険会社に勤務していた。

 本社のあるフィラデルフィアに出張したまま、例のテロで帰れなくなってしまったらしい。

 一度に大勢の人が亡くなり、建物が破壊され、保険会社も大混乱のようだ。

 無事でなにより、と僕はジェリーが出してくれた冷酒をあおりながらぼそぼそと言った。


「外に出ればみんな戦争だって騒いでる。デイヴィッドでさえ、これは正しい戦争なんだって言い始めた。みんな頭がおかしくなってるって思うのは、俺だけなのかな」

 誰かに聞いてほしかった。でもこれ以上デイヴィッドと言い合いになるのは避けたかったし、ブライアンやモニカを悲しませたくなかった。

 僕の隣に座り、ジェリーは大きなガラスのコップで冷酒を飲み始めた。

「僕の祖国は、僕の両親は、この国の人間のせいで滅茶苦茶にされたよ。それでもここで生きていくことを選んだ。でも」

 

「やっぱりうまくいかなかったよ。誰のせいだとか、そんなことはもうどうでもいいくらいに、僕の家庭は荒みきっていた。アメリカになんか、来なければよかったのに」

 ジェラルドにとっての母国は、アメリカではないのだろうか。

 彼だけ他のベトナム人二世と何かが違うとぼんやり感じていた。

 ジェラルドが実家の話をしないのも、幼い頃からの家庭内不和が原因なのだろう。

 彼が家族との縁が薄い理由がうっすらわかった気がする。


「この国の人間は、ベトナムから、イラクから何も学んじゃいない。君の言いたいことはわかる。戦争をするなんて、馬鹿だよ」

 そう言ってくれたのは、ジェリーだけだった。

 真っ向から、この国の人々は愚かだと口にした人間は、僕が知る限り後にも先にもジェリーだけだった。

 たぶんそれも、彼が生粋のアメリカ人だからではないせいだろう。


「戦争は嫌いだ。そう教えられてきたから、今のアメリカ人に迎合できない。仕事もない。満足にピアノも弾けない。俺は」

 僕こそ、ここに相応しい人間じゃない。


「君とも、もうすぐ会えなくなる。この国には、いられない」

 冷酒を瓶ごと喉に流し込む僕の手元を、ジェリーが眉間に皺を寄せて睨みつけていた。

「だからそんなに荒れてるの」

「言いたいことを全部吐き出しただけだよ。でも、言っても言わなくても苦しいのは同じだ」

 聴いてくれてありがとう、と僕は言うと、冷酒の瓶を手渡して立ち上がった。

 これ以上、攻撃的になる僕を見てほしくなかった。


「僕は、君にいてほしい。君がいなくなるなんて、考えられない」

 そんな優しい言葉をかけられても、今は苦しいだけなんだ。

「ケイトが、俺の力になれるなら結婚するって言った。だけど俺は、そこまでしてここに残りたくない」

「あまり勧めないけど、そういう結婚なら確かにたくさんある。それに、彼女はいい人だってブライアン達が」


 自分が幸せになるから、僕にも結婚しろというのか。

 君の口から、まさかそれを聞かされるとは思いもしなかった。

 何もかも壊したくなる時があるとしたら、おそらくこの瞬間を差すのだろうと、僕は冷ややかな気持ちに侵されていくのを感じていた。

 

「ケイトじゃ駄目なんだ」

 ジェラルドは黙って酒瓶を膝に抱えていた。

「俺が欲しいものは、ここでは何一つ手に入らない」

 君も、ここにいる手段も、何もかもだ。

 手に入らないのなら、もうここには、いたくない。


「俺は、君がずっと好きだったよ」

「You are the most dearest person in my life」

 僕を見上げるジェリーの声は、今までに聞いたことのない暖かさが溢れていた。

 ジェラルドの真意は計りかねたが、僕を大事に思ってくれていたことに変わりはないのだ。

「『ミドリ』にずっといてもいいんだ。助けが必要なら弁護士も雇う。オーナーも説得する。僕にできることがあるなら、なんだってする。だから、行かないでほしい」


 うん、ありがとう、と僕は日本語で呟き、頬を紅潮させたジェリーをじっと見下ろしていた。

 全て終わるなら、隠さず話してしまえばいい。どうせ何もかもなくなるのだから。

 僕は再び冷酒の瓶を取り上げ、勢いよく口に含んだ。

 僕は相変わらず、最低の人間だ。


「何でもするって、じゃあ君は俺とセックスできるの。俺が君にさっき言ったのは、そういう意味だ」

 ジェリーは顔を強張らせ、僕を見上げたままだった。

 軽蔑されたとしても、その時の僕は酔った勢いに任せていたのか、彼の反応などどうでもよかった。

 一言も発せず、瞬きもせず、視線だけが互いに向けられていた。

「ごめん、冗談だよ。帰る」

 耐え切れずに視線をそらしたのは、僕が先だった。     

 逃げるようにドアへ向かう僕の背後に、ジェリーの澄んだ声が突き刺さった。 


「できるよ」

 

 

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