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30、最後の蛍

 千紗さんは来なかった。

 来るはずもないと途中で諦めた。

 けれども何かのミスで、来ないはずの彼女がラバーズ・フィールドに降り立つのを、僕は一縷の望みを持って一日中待っていた。

「あかんわ、ツインタワーが消えてもうた。あんたんとこは、大丈夫?」

 電話越しの千沙さんは、いつもどおりのおっとりした口調であったがどことなく生気に欠け、答える僕もうすぼんやりとしていたと思う。


 千紗さんは日本からサンノゼで乗り換えD市に来る予定だったが、サンノゼで足止めをくらい、結局D市に来ることなくそのままレンタカーでN.Y.に向かった。

 N.Y.に残っていたシルヴァンの安否が誰にもわからなかったからだ。


 表向きは従業員一同、落ち着き払っていた。誰もが無言でモニターを食い入るように見つめ、CNNやNBCのニュースを能面のような顔つきでそれぞれに分析していた。

 自分達が取り乱してしまっては、僕らを頼りにする人々を守ることができなかった。

 ブラウン管の向こうの出来事が現実であると認識したのは数日経ってからのことで、現場にいた僕達は難民のように行き場を失った人々の対応に追われ、瞬く間に一週間が過ぎた。


 最初の三日間の出来事は、僕の記憶にはほとんど残っていない。

 崩れ落ちていくツインタワーの映像だけしか、僕の記憶には残されていない。

 空港のテレビから流される同じ映像と、聞き飽きるほどに聞いた同じ内容のニュースキャスターの言葉だけで、実際に僕や他のスタッフがそれらについて何を話していたのか、一切が記憶から飛んでいる。


 モニカはテレビを無言で見つめたまま三日間親指をくわえていた、とブライアンは五日ぶりに帰宅した僕に告げた。

 こっそりモニカの手元を覗き見すると、彼女の親指の爪はなくなっていた。

 そこで僕はようやく、これは稀にみる深刻な事態なのだと思い知らされたのである。

 九月の十一日をもって、僕の自由な世界は終わりを告げた。



***



「もう満杯だよ。何処のモーテルも空きがない」

「A市でもインターチェンジ沿いでもいいわ。ダウンタウンのホテルにも片っ端からあたって」

 システムもグランド・ホステスも関係なく、僕らは空港で待機中の乗客の寝床を探し、毎日が大わらわだった。

 毛布を配り、フード・クーポンをめがけて殺到する人々に根気よく穏やかに話しかけ、システム室の隅で丸まって仮眠をとった。

 僕達が不安でいっぱいだったのはもちろんのことだが、目的地にいつたどり着けるかもわからない人々の方が、はるかに絶望的な気分だっただろうと思う。

 アメリカの至る場所で航空テロが起き、全米中の空港が一時的に閉鎖された。

 僕が勤めていたラバーズ・フィールドも例外なく機能不全となった。

 二,三日は怒涛のごとく過ぎていった。それを越えると、取り残された人々の心は怒りよりも不安や哀しみに侵され始めていたように思う。 


 なぜ、どうして、意味がわからない。

 僕には受け入れがたい現実があった。

 今この時に、この国に打撃を与えるような真似をせずとも、この国は疲弊の一端を見せ始めていた。誰かが行動を起こさなくとも、弱体化の始まりは目に見えていたというのに。

 死に掛けた病人にとどめをささんばかりの鞭を打った、と僕は思った。


 同時に鞭を打たれたのは、他ならぬ僕であった。

 ようやく空港が開かれると皆が安堵した頃、僕は人事部のマネージャーに呼ばれた。

「どうにもならなかった。君を今日付けで解雇する。外国人に対しての規定が変わったんだ」


「非常に馬鹿げている。イスラムの人間ならともかく、善良で勤勉な日本人の君まで含まれているなんて、私も納得がいかない」

「でも、ひとくくりに『外国人』なんですね」

「そうだ」

 涙は出なかった。



「怒っていいわ、連邦政府を訴えてもいいくらいよ!あなたが今まで費やした労力と時間と、お金が全部無駄になったわ」

「まあ、そうなんだけど」

 ケイトが僕を気遣って、シーフードレストランに誘ってくれた。

 あれから自粛ムードが蔓延しはじめ、どこに行っても人は少なかった。

 賑やかだった町はすっかり人気が途絶え、早い時間であるにもかかわらず、真夜中のごとく静まり返っていた。


「みんな混乱してるんだよ。としか、俺も言えない」

「これからどうするの」

 非国民な僕らはビールを飲み、カクテル・シュリンプやオイスターチャウダーをほおばった。

 国がどうであろうと腹は減るし、酒だって飲みたい。


「引っ越しを考えなくもないんだ。カナダとかメキシコとか、比較的ビザが貰いやすい国だけどね」

 それもまた、漠然とし過ぎていた。

 けれども早急に身の振り方を考えねばならなかった。

 ただでさえ八月の時点で景気が落ち込み、アメリカ人が続々と首を切られている現状があった。

 追い討ちをかけるように911以降、失業者の群れと化したこの国で、外国人の僕を雇う余裕のある会社などどこにも見当たらなかった。


「ただの引越しじゃないわ。人生を左右するかもしれないのよ」

「スシバーで、無許可で隠れて働くって方法もあるんだけどね。でも、友達に迷惑かけたくないんだ」

 僕が空港をくびになったと言えば、ジェラルドは僕の為に、他のメキシカンと同じように非合法に働くことを勧めるだろう。けれど僕には、愚かしいまでのプライドがあった。


 泥水を啜ってまで、この国で生きていたくはなかった。

 あんな思いをするのは、一度で十分だと僕は思った。

 ガサ入れの恐怖が、僕は所詮異国人であるという事実を叩き込んだせいかもしれない。

 そのくだらないプライドを捨てていれば、こんな結果にはならなかっただろうに、と僕は思う時もある。


「私と結婚しない」

 小さな声であったが、ケイトは強い眼差しで僕を見据えていた。

 え、と言葉に詰まる僕に、ケイトはもう一度問いかけた。

「私と結婚しましょう。そうすれば、ここに残れるのよ」

 

「私は、ナオキにここにいて欲しいわ。お互い、求めるものが違うって知ってる。でも、そういう結婚があってもいいと思うの」



***



 僕が家に戻ると、正しき住人達が顔を寄せ合い、パティオでビールを飲んでいた。

 蛍はまだ、庭で無数の羽根をきらめかせて舞っていた。

「俺、とうとうくびになったよ」

「そうなると、残るはデイヴィッドとブライアンだけか」

「私はまだ正社員よ!」

「君の家はおじいちゃんのところじゃないか」


「千沙がシルヴァンに会えたって、さっき電話があったわ。ナオキも、電話してあげて」

 ほんの少し立ち直ったのか、モニカは血色のよい笑顔を見せた。


「よかったわ、みんな無事で」

 サンノゼから十数時間走り続け、千沙さんは壊滅したマンハッタンへと帰還したようだった。

「俺、そろそろ終りかもしれないです。今日解雇されて、でもそれならケイトが結婚したらいいじゃないって。俺、何言ってるんだろう……俺、どうすればいいんですか」


「シルヴァンも同じこと言うてた。私と結婚してくれはるって。自分は、好きな人と結婚でけへんけど、私の力になれるならって」

「二人は付き合ってるんじゃないんですか」

 ちゃうわ、と珍しく千沙さんが声を荒げた。その声は涙のせいなのか、鼻にかかったぼろぼろの声だった。

「シルヴァンはゲイや。彼氏は、世間に出されへんようなすごい人やねん。言うてもうたら大事になるくらいの」

 

 そういえば、以前テツヤさんが言っていた。

 千紗さんのところに遊びに行ったら、同居人のゲイのいびきがすごかったとかどうとか、僕に愚痴愚痴と言っていた気がする。


「私、どうしたらええんやろ。どうしてここにいたいのか、何が正しいのか、全然わからへんくなった。シルヴァンはええって言うてるけど、それでええんやろか」

 電話越しの千沙さんは泣いていた。

 彼女が弱音を吐くのを、僕は無言で聞いていた。

 聞きながら、やっぱり僕は自分のことしか考えていなかった。


 僕はどうしたらいいんだろう。

 ケイトはいいと言っているけど、いつかケイトを傷つける。自分自身も傷つく。

 何よりも、ジェリーと一緒にいられなくなるなど、数週間前の僕は知らなかった。

 いつまでもこの時間が続くと、何の疑問も持たずにいた。

 明日死んでも悔いないように、とひと月前に気付いていれば、僕の人生はまた違ったものだったのかもしれない。


 




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