3、僕は誰なのか
ジェラルドの、僕に対する刺々しさが消え、僕は少しほっとしていた。
話してみれば、真面目でいい奴だった。
ただ、一向に仏頂面を崩さないのに変わりはなかった。
アメリカ人は気さくで当たり前、と先入観があったからだろうか、こんなに気難しくて、この国でよくやっていけるものだと、逆に感心した。
ジェラルドと、店以外でも一緒にいる時間が少しずつ増えていった。
二人だけの時もあったし、ジェラルドの友達だという、一風変わった暗そうなメガンという白人の女の子ともよく顔を合わせた。
「メガンは、ちょっと気難しいところがあるんだけど、いい子だよ。オタクだけど」
人のこと言えるか、と僕はジェラルドに突っ込みたかったが、その後の彼の反応が怖かったので、「うん、いい子だよね」と答えておいた。
二人は付き合っているのだろうか、と僕は思ったが、ジェラルドにはベトナム系の彼女がいて、同棲しているという話だった。
それでも、メガンのジェラルドに対する態度からは、友情以上のものがあるように感じられた。
彼女はジェラルドが好きなのだろうな、と僕はぼんやりと感じていた。
そして彼女は、おそらくその気持ちを内に秘めたまま、ジェラルドの「良い友達」を続けるのだろう。
他民族国家といえども、結局の所、同じ民族同士で収まるのが普通のようだった。僕が思っていたより、この国はずっと保守的だった。
だからあんなに美しいメイでさえ、冴えない同族の男と付き合うのだ。
そう思うと、僕には日本人の恋人が必要なのだろうが、今のところ、そのような関係になれそうな、身近な女の子は皆無だった。
千沙さんには、やはり日本人の彼氏がいたし、僕の周りには圧倒的に日本人以外の人々しか見当たらなかった。
何より僕は、今の生活が楽しくて仕方が無かった。日本人の女の子と惰性で付き合って、時間を無駄にするのは御免だった。
転校するにあたって、単位の移動があったのだが、移動できない科目もいくつかあった。少しでも早く単位を取りたくて、僕は夏学期も学校に通い詰めていた。
通常であれば、四ヶ月で取得する単位を、夏学期では一ヶ月で取得できるシステムがあった。その代わり、授業はハードだ。
時折連絡を取る高校の同級生は、大学を卒業し、就職していた。僕に焦りが無いと言えば、嘘になる。
僕はクラブ遊びをしつつも、遅れた時間を取り戻さなくてはいけない、と真面目に学業に精を出していた。
僕が専攻する音楽学部と、千沙さんの専門の服飾デザイン科は、エル・グランデ・カレッジの、同じ「アートセンター」と呼ばれる建物の中にあった。
ちなみにここの大学は市立で、他にはジェラルドの通うリッチモンド・カレッジと、少し離れた所にあるブロック・カレッジがあり、どこに通っても、完全に単位の移動が出来た。
いずれは、音響学の授業が充実しているブロック・カレッジに通うつもりだったが、千沙さんの紹介もあり、とりあえず家から車で二十分のエル・グランデに、今のところは通っていた。
僕はその日、ピアノのレッスンとアンサンブルの授業を受けていた。アンサンブルは、ちょっとしたセッションのような事をやっていて、楽しかった。
メンバーは、十八歳でシングルマザーのケイトや、イスラム系のイマン、金髪美少年のダニエルなどがいて、ケイトはヴィオラ、イマンはパーカッション、ダニエルはギターで、当然ピアノ担当は僕だった。
その他に、ボーカル専攻の女の子達が数人いて、僕らは彼女達のバックバンドになった。
教室の向かい側には、ガラス張りの彫金室があった。
千沙さんは彫金の授業に出ていたらしく、廊下で僕の姿を見つけ、エプロンを着たまま彫金室から出てきた。
「ナオちゃん、後でランチに行かへん?私、もうすぐ終わるとこやし」
僕は喜んで、千沙さんのお供をすることに決めた。
学校を出て、僕らはペニー・マーケットと呼ばれる、開拓時代の街並みを模した一角へと向かう。そこは数少ないD市の観光スポットらしく、たくさんのレストランやみやげ物屋が立ち並んでいた。
とあるメキシカン・レストランに入り、僕はビーフ・ファヒータを頼み、千沙さんはタコサラダを頼んでいた。
顔立ちの整った人々ばかりのこの国でも、千沙さんの美貌は際立っていた。一緒に外を歩けば、大抵の人々は千沙さんを振り返り、いつまでも目で追っている。
僕の周りは、恋愛対象外の美人ばかりだ。
千沙さんは僕にとっては憧れの人で、一緒にいるのも恐れ多いと思う日さえある。
僕らのテーブルを受け持つウェイターが、「君のガールフレンドはとても美しいね」と僕にウィンクしてきて、僕は苦笑いするしかなかった。
千沙さんは注目される事に慣れ過ぎているのか、何も言わずに、黙ってタバコをふかしていた。
「ナオちゃんに、話があってん。私、もうすぐ卒業やろ。実はニューヨークに引っ越そうと思っててなあ。彫金の授業が終わったら、ちょっとアパート探しに、行って来るわ」
千沙さんは気軽に言うが、ニューヨークはとても遠い。そうしたら、もう会えなくなってしまうのだろうか、と僕は心細くなってしまった。
けれど、いつまでも、千沙さんに頼るわけにもいかなかった。僕に、独り立ちする事を教えてくれたのは千沙さんなのだから。
千沙さんは学校が終わると、ダウンタウンの古着屋で働いていた。
学費も生活費も、どうにかすれば自分で稼げるんやで、むしろそうせなあかん、と、初めて会った時彼女は、成人しているとは名ばかりの、甘ったれた僕に説教した。
彼女には、成長した僕を見て欲しい、という思いが何よりも強かった。
「テツヤさんは、どうするんですか」
「テッちゃん?何も変わらへんよ。まだあの子、単位残ってるし。たまに遊びに来るとは言うてたけど。私もこっちに遊びに来るし」
テツヤさんとは、千沙さんの彼氏である。二人は一緒に住んでいて、遊びに行けば、僕にショウガ入りの甘酒や、日本風の分厚いホットケーキなどを作ってくれて、面倒見のいい人だった。
「俺も、いつか遊びに行っていいですか。ニューヨークは一度しか行った事がないし、いろいろ遊んでみたいです」
寂しさをこらえて、僕は千沙さんに微笑んだ。
「うん、来て。テッちゃんにはナオちゃんの事、よく頼んどくから、困った事があったら遠慮せんと、言いや」
未だに僕を気遣う千沙さんに、大丈夫ですよ、ここの生活は毎日楽しいし、と僕は言った。
「ナオちゃん、強くなったなあ。一年前とは、えらい違いやな。楽しそうで、ほんまによかった」
しみじみとした声で、千沙さんが言った。
「そうですね、全く新しい人間関係なので、気楽でいいですよ。あのジェラルドとも仲良くなったし」
へえ、と相変わらずしみじみとした口調で千沙さんが呟いた。
「いけずな子やろ。仲良しになったんか。ナオちゃん、素直やから人から嫌われたりせえへんもんな」
素直過ぎて馬鹿を見る、と僕は自分の事が、時々嫌になる。
こんな人でも、いい所もあるんだし、と我慢に我慢を重ねて、気が付けば自分の殻に閉じこもり、人間関係を壊してしまう事が多々あった。
だからだろうか、人恋しいくせに、一匹狼を気取ってしまうのは。
傷つきたくない弱虫の僕は、千沙さんやメイのように、驚くほどさばさばした人に寄って、助けられているのかもしれない。
「もしかしたら、そのいけずなジェラルド君も、ナオちゃんと似た者同士なのかもしれへんな。わからんけど」
どうだろう。
僕とジェラルドとでは、育ってきた環境が違い過ぎるし、生き方も違う。
僕には、明日はいつだって見えない。
誰だってそうだ、と言われればそれまでだけど、所詮外国人の僕の足元は、あまりにも緩すぎた。
その緩い足元を、僕は少しでもアメリカ人と同じくらいの固さに近づけるように、踏みしめたかった。
皆と、一緒の立場でいたかった。
留学生の授業料はアメリカ人の五倍だとか、ビザを取るのが滅茶苦茶大変だとか、ましてや労働許可証の認可とか、あなた知ってる?なんて、生まれた時から規制の無いアメリカ人達に、言い訳をする自分が嫌だった。
そんな話を以前千沙さんにしたら、「アメリカ人と張り合おうと思えるようになるなんて、ものすごい成長やな」と褒めてもらって、僕は単純に喜んでいた。
いや、目的地はそこではないのだけれど。
ここで、僕は生きていく。
その時は、前も言った様に、本気でそう思っていた。
いつまでもこの幸せな日々が続くと疑わずに、当時の僕は、ひたすら走っていた。
***
僕の部屋の向かいで、丁度犬の散歩の出かけるところなのか、薄茶色の髪をした女の子が、飼い主と同じような色の毛をしたミニチュア・ダックスフンドを連れて、部屋の鍵をかけているところに出くわした。
僕に気付き、その子は「こんにちは」と言った。
少しぽっちゃりしていたが、平均的な南部の白人の体系だった。
背は僕より低かったが、やはり女性としては比較的高かった。
「私、今日引っ越してきたばかりなのよ。レベッカよ、よろしく。あなたは?」
僕はナオキ、ちょっと言い難いかな、と言い、僕らは握手を交わした。
「ナオキ?チャイニーズじゃないわね、日本人かしら?」
そうだよ、と僕は言い、足元をぐるぐる回る犬を眺めていた。
「そうだと思った。あなたの帽子、とても素敵ね。セクシーだわ。日本人てお洒落だから、ちょっと違うのね。私、日本の映画好きなのよ。パーフェクト・ブルーとかアキラとか、すごく濃い映画だけど、最高よ」
僕はそのパーフェクト・ブルーを見た事がなかったので、いまいちぴんとこなかったが、なんとなく彼女の言わんとする意味は、分かるような気はした。
もう一度、僕らはよろしくね、と互いに微笑み合い、その日は別れた。
帽子を被ると、どうやら僕は、まんざらでもないらしい。
アメリカでの、日本人の男の不人気さは、本気で涙が出るほど酷い。
色気が足りないのか、根本的な顔の作りで拒絶されるのか、おそらくどちらも真実なのだろうが、アメリカ人の女の子からセクシーと言われて、僕はバスルームで歯磨きをしながら、絶えずニヤニヤとしていた。




