29、I'm Gonna Tell You One Thing
「あれは『Kiss Me Kate』だよね」
「うん?」
昨夜の最後のバーは、フレンチ・クォーターから数ブロック外れた場所だった。
バーボン・ストリートの観光客向けのライブハウスとは違い、有名ミュージシャンが集うことで有名な店だった。僕達の為に、デイヴィッドが行程に組み込んでくれたのだ。
飲みすぎてあまり記憶に残っていないが、気が大きくなっていた僕は「弾きたい」と両手を上げてステージのミュージシャンに盛大にアピールしたらしい。
中年の男達に快く受け入れてもらい、ブライアンやクレイと即興で「So in love」を演奏したとしか覚えていない。
演奏内容など全く記憶になく、ただ「楽しかった」のだ。
「僕は初めて君がピアノを弾くのを見た。ショックだった」
「なぜ?」
「あれこそが本来の君の姿なんだって、僕は今まで知らなかった。違う世界に生きている人だと、初めて理解したんだ」
褒められている気が全然しない。僕も少しショックである。
ジェリーからすれば、僕のような隙だらけの人間が突如豹変してピアノなんぞを弾き始めたら、さすがに驚くのだろう。
それだけ普段の僕の評価が低いのだろうけど。
「I'm gonna tell you one thing」
そう言ったジェリーは、昔のように厳しい顔をしていた。
「君はピアノを弾かなきゃいけない。DJでもなく、航空会社のスタッフでもなく、ましてやスシバーのウェイターでもない」
「同じことを、先生にも言われた」
「僕は音楽なんて何一つわからないけど、君にはそれだけの価値があるって忘れたら駄目だ。今とても大変なのはわかっている、でも君の思いが僕に伝わるくらい、昨夜は素晴らしかった。ケイトのことも、本気なんだって納得できる」
ちょっと待て、と僕は言いかけたが、目の前には見たこともない柔らかい笑みを浮かべているジェラルドの姿があった。
「そろそろだと思うんだ。結構僕達、長いし」
「何の話をしてるの?」
ジェリーの言う「We」とは、僕とジェリーのことではないと即座に理解した。僕は自分の直感が悲しかった。
「彼女にプロポーズしてみるよ」
「僕も新しい一歩を踏み出さなきゃいけないのかなって。君の演奏に背中を押された気がする」
***
その晩も無事にはしごが終わり、僕はロビーのバーでぼんやりとビールを飲んでいた。
そのまま部屋に戻っても、寝つけそうになかった。
「ジェリーは?」
まだ体力が残っているのかモニカが一人、ちょこちょこと僕に駆け寄ってきた。
「もう寝てるよ。飲みすぎて疲れたって」
「戻ったら彼女にプロポーズするんだってさ」
「どうして急に。そんな話、全然聞いてないわ。彼女のことだって、滅多に話題にしないのに」
モニカは明らかに動揺していた。
クランベリーとウォッカのカクテルを頼み、僕の隣に腰かけた。
「どうするの」
「どうしようもないだろ。ごく自然なことだし、祝ってやらないと。ちゃんとおめでとうって言えたよ。すごいだろ」
モニカは黙って、何度か瞬きを繰り返していた。
「君もそんなに好きなら、きっと大丈夫とまで言われた。何かものすごい勘違いをされてる。否定する気も起きないくらい」
「You know what?」
「What?」
その時の僕は、これ以上ないくらいの悪意ある顔をしていたかもしれない。
「Kiss me, Kate」
モニカは薄茶色の目を見開き、両手を口に当てて「ジーザス」と言った。
「いやだわ。私、余計なこと言ったかも」
「君のせいじゃないよ」
と答えながら、どのようにして「So in love」を弾くに至ったのかを思い出しはじめていた。
コール・ポーターが好きだというモニカが「Kiss me kate! So in love!」と周りの酔っ払いに負けない大声でリクエストしてくれたのだ。
「かっこよかったわ。酔っ払いの歌とは思えないほど」
そう言い終えると、モニカは目に涙を浮かべて僕の頬にそっと触れた。
ありがとう、と僕は苦笑していた。
「大丈夫?」
「どうだろう。わからない」
「みんながついてるからね、私もブライアンも、デイヴィッドも。千沙ももうすぐ来るんでしょ?みんなでまたパーティーしましょう」
モニカは僕の頭を抱き寄せ、しばらくそのままでいた。
猫のような柔らかい癖毛が、頬に心地よかった。
唐突に僕の携帯電話が鳴り、千沙さんからの着信があった。
こちらの朝方にかけてくるということは、おそらく日本からなのだろう。
「楽しんでる?ジェリーと同室なんやろ?」
と僕をからかうような口調になる千沙さんに、開口一番「ふられました」と答えると、彼女は電話の向こう側で声を失う。
「それはあかん。まだ間に合うで。好きやーって言ったらええやん」
「よく考えたら、今までと何も変わらないと思うし。今までもあの二人は夫婦同然だったわけだし」
そうだ、事実だ。この先も僕達は今の距離を保ったままで、何も変わらないのだ。失うわけではないのだ。
「あんたも悪いんやで。ホスト根性が抜けきれへんのや。可哀想な人の話聞いて、思いっきし同情したフリしてるからこうなるんや」
「何を今更」
「誰にも本気になったことないやろ。あんたの女の扱い方はうわべだけの、夜の男のそれや。基本女なんてアホやと思うとるやろ。ケイトちゃんも可哀想やなあ。あんたに頼りきってるんとちゃう?」
千沙さんはのんびりした口調ながらも、平気で傷つく言葉をぶつけてくる。
こんな会話を、昔テツヤさんとしたような気がする。
二人が異口同音に僕を評するのは、やはり僕自身に問題があるからなんだろう。
「恐いわ、水商売て」
それでも、千紗さんに言われたくない言葉ではあった。
N.Y.に滞在している間、夜な夜な着飾っては「出勤」する千沙さんに「毎日パーティーで忙しいんだね」と何の疑問も持たないジェリーだったが、千沙さんこそ地球の反対側にいても、足を洗いきれずにいるのだ。
酒が一滴たりとも飲めない彼女が駐在員相手のクラブで働く理由は僕と同じで、仕事を選べない立場にあるからだ。安いとはいえ、空港で職を手に入れた僕は、まだましな方かもしれない。
彼女が水商売を続けることに、もちろん僕は賛成していない。けれど結局労働許可証の範囲内では、満足な給料を得ることなど不可能だった。
どこの国にいても異邦人は立場が弱い。本来の実力でのし上がる人間など、ほんの一握りしかいない。
けれど僕は千沙さんとの会話で、ぼんやりとした思いが強い決意へと変わったのも事実だった。
スシバーもDJも辞める。
僕はもう一度ピアノと向き合おうと決心していた。
ジェラルドがそれを望むなら、僕ももう一度、自分の力を信じてみたいと思ったのだ。
これ以上彼に対してできることは何もないけれど、本来の目的に、ピアノに没頭することで、ジェラルドに対する気持ちという壁を越えられるような気がしていた。
「来月、来るんですよね」
仕入れの時期でもある。日本からD市に寄り、ひととおり買いつけをすませてN.Y.に戻るのが千沙さんのサイクルであった。
「おみやげ持ってくから、待っててな。あんた達も気ぃつけて帰りや」
そう言って電話を切った千沙さんはいつもどおりだった。
世界は何一つ変わらないはずだった。
けれども千沙さんは来なかった。




