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28、なぜ時は巻き戻せないのか

 翌朝僕は湿地帯の野生のワニを見学するジャングル・クルージングに参加する為、ホテルのロビーで皆を待っていた。

 当初の参加予定人数より、半分以上も足りない。

 無理もなかった。

 僕らは到着するなり、十二軒のバーやレストランをはしごしたのだ。

 今回のツアーコンダクターはデイヴィッドである。

 彼お手製のツアー日程表が、機内でも一際上機嫌でビールを煽るデイヴィッド一味に配布された。

 僕らはデイヴィッドおすすめのガンボスープの店、エトュフェの店、生牡蠣の店、音楽、酒とそれぞれにありえない行程で十二軒を移動した。

 アメリカ人らしからぬ、まめな男だ。レイオフを乗り切るくらいだ、仕事もさぞかしできるのだろう。

 皆がホテルに戻ったのは朝の五時を過ぎていたと思う。


 他の奴らは泥のように夕方まで寝るのだろう。

 デイヴィッドは何度もニューオリンズに足を運んでいるらしく、クルージングには当初から不参加であった。

 ニューオリンズが初めてである僕とジェラルド、モニカとブライアンは形ばかりの朝食を終え、ホテルにやってきたツアーバスで湿地帯を目指した。


 僕の同居人達がクレイジーなのはジェラルドも知っていたが、昨晩はあらためて度肝を抜かれたようだった。

 何をおいても、初対面のクレイ夫妻が彼に強烈な印象を植え付けたのは間違いない。

 コンピューター・ミュージックの講師であるクレイは、新妻を連れて今回の旅に参加してくれた。

 クレイの講義は冬と春だけで、暇な夏の間はダウンタウンのライブハウスで音響の仕事をしていた。


 全身刺青だらけ、耳もこれ以上つける場所がないというほどにピアスをびっしり下げたクレイを見つめ、ジェラルドは「本当に先生なの?」と驚いていた。

 隣に佇む色っぽいプラチナ・ブロンドの奥さんも、只者ではなかった。

 ブロック・カレッジの音楽学部の一番大きな講義室の隣に、ひっそりと陶芸室があった。

 奥さんのポーラはそこに出入りする学生でもあったが、同時にストリッパーでもあった。

 結婚した後も現役かどうかは聞けそうもなかったが、旅の初日もシリコンで盛り上がった胸を半分ほどのぞかせ、体のラインがくっきり出るワンピースを着ていた。

 僕がブロック・カレッジにいた頃と、何も変わりない。


「クレイの彼女、すげえな」

 高校を出たばかりの少年達には、先生の彼女は刺激的すぎた。

「化粧をしていない日の方が可愛い」

 ブライアンの好みとは正反対の女性であったが、それでも彼なりの賛辞をポーラに送っていたように思う。

 彼は人の悪口を言わない男だった。

 ひょろひょろとして頼りなさげではあったが、誰よりも男らしい男であったと僕は思う。

 もしも僕が女性で彼のような男がそばにいたら、さぞかし幸せだろうと思ったこともある。


 話がそれた。湿地帯の話に戻る。

 ニューオリンズは湖沼地帯で、当然湿度も高かった。乾燥した土地しか知らない僕らには少々辛い気候でもあったが、慣れればそれなりに快適だった。

 快適だったと言いつつも、経験したことのない熱中症もどきにかかったジェラルドが船から落ちそうになり、身代わりとなったサングラスが濁った川に飲まれていった。

「ワニに食べられなくてよかった」

 慌てて後ろから抱きとめた僕を振り返らず、ジェラルドは「後で新しいサングラスを見立ててくれるかな」と弱々しく言った。

 今もあのサングラスは、悠々と泳ぎ回るワニを川底から見上げているのだろうか。


 ツアーが終わる頃には僕らは昔の二人のように戻れたのか、明らかに前日より会話が増えたような気がする。

 フレンチ・クォーターに戻り、カフェ・デュ・モンドで濃いフレンチ・コーヒーとベニエを食べた。

 ベニエとは、緩いドーナツ生地を油で揚げ、たっぷりと粉砂糖を振りかけた食べ物である。

 ジェラルドはベトナム人のウェイトレスの女の子と、ベトナム語で会話を交わしていた。この店ではほとんどの従業員がベトナム人であるらしかった。


 ニューオリンズの街は元々フランス領であり、そこかしこに植民地時代の名残りがあった。

 フランスとアフリカン・アメリカンの混血の人々をクレオールと呼び、その文化をクレオール又はケイジャンと称する。

 建物もフランス風で、優美なアイロン・ワークの窓辺の柵が印象的だった。

 米国でも有数の観光地である。

 ちなみに、無数のバーが軒を連ねるバーボン・ストリートに足を踏み入れた僕の感想は「歌舞伎町の匂いがする」だった。

 途中のデリで買ったポボーイという、これまたフランス風のバゲッドサンドをかじりながら、僕らはミシシッピ川を散歩した。中身はザリガニのサラダであった。

 ブライアンやモニカにとっては人生初の「タワー・レコーズ」が川沿いにそびえ立っていた。


「すごいわ、本で読んだわ。ビートルズが出てくるの」

 モニカの例えはよくわからなかったが、いかにD市が田舎であったかを物語る発言でもある。

「モニカ、タワー・レコーズはブリティッシュの店じゃなくて君らの国のだよ。ブリティッシュはヴァージン・メガストアだ」

「あら、そうなの?」

「ビジネスの授業でも出てきた」

「そうだったかしら」

 有名なCDショップが何処の資本かというのは、モニカにしてみれば大した問題ではないようだった。

 ちなみにこの翌年、オレンジ・アベニューに待望のタワー・レコーズが開店したらしい。

 アムトラックの駅しかないD市に、市民の足となる市電が開通したのも同時期である。数十年遅れて南部の田舎町にも、抗いようのない近代化の波が押し寄せてきたのだろうか。


 喜び勇んでタワー・レコーズに足を向けたモニカとブライアンを見送り、僕とジェラルドはミシシッピ川のディナー・クルーズ船の前でポボーイをほおばり続けた。

 D市には海がない。

 川や湖はあるが、船らしきものは競技用のジェットスキーやヨットセイリングくらいしかなかった。

 小さな運搬船がミシシッピ川をのんびり行き交う風景が気に入ったのか、ジェラルドは熱心に見物している。


「食事をしながらクルージングなんて、粋だ」

「ハワイやマイアミのクルージング船に比べたら小さいけどね。川がそんなに大きくないから、丁度いい大きさかな」

「君はハワイやマイアミに行ったことがあるの」

 固いバゲットを咀嚼しつつ、僕は黙ってうなずいた。

 

「ハワイに行けるアメリカ人は、本当に裕福な人間だけだよ。僕はマイアミですら行ったこともない。僕の両親は貧しい移民だったし」

 ジェラルドが生家に関して詳しく語ることはなかったが、おそらく両親は戦火を避けて旅立ったボート・ピープルなのだろう。

 彼が生まれた頃も、ベトナムの地は混乱真っ只中だったように思う。

「日本からだと、本土に来るよりハワイの方が近いんだよ。金持ちじゃなくても、行ける」

 僕は何と言えばよいのかわからなかった。

 幼いジェラルドが貧しさの中で育ったのに比べ、僕は僕であることが恥ずかしかった。


「オーナーが、『フード・ビジネスに関わるなら、きちんとした観光地で流行りのレストランを回ってこい』って」

 そうか、仕事の延長か。

 僕と一緒に来たかったからと真顔で言われても困るが、いかにもジェラルドらしい言葉にがっかりする僕でもあった。

「それなら、もっとN.Y.でいいレストランを回ればよかったね」

「あれはあれで、楽しかった。僕はここで一日中好物の料理を食べられて幸せだ」


「今日もディナー楽しみだね。一番おいしい茹でザリガニが食べられるって言ってた。デイヴィッドのおすすめの店は全て素晴らしい。一つたりともはずれがない」

 昨日もさんざんザリガニをむさぼった僕達だったが、ジェラルドはまだ食べ足りないのだろうか。

「あいつはプログラマーよりも、レストランのマネージャーの方が向いてるかもしれないな」


「ケイトは誘わなかったの」

 僕は何故このタイミングで、顎が痛くなるようなバゲットを食べているのだろう。

 喉に詰まらせかけて咳き込む僕に、すかさずペプシを差し出すジェラルドであった。

 やっぱり、まだ気にしてるんだ……。


 浮気を咎めてねちねちと繰り返す女性をなだめすかす間抜けな男のようだ、と僕は自分が滑稽でありつつも、いつもより数倍真剣なジェラルドの追及から逃れられそうもないと確信していた。

 君は一体、僕に何を求めていたのだろうか。

 僕は戻れるものならもう一度、その時の僕に戻りたいものだと何度も思ったんだよ。

 あの時全てお互い話していれば、こんな思いをせずに済んだかもしれないのに。




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