27、君がみえない
とはいえブライアン達の杞憂は、どこまでも杞憂でしかなかった。
僕とケイトはそれ以上踏み込んだ関係にはならず、穏やかな時間だけが流れていった。
ケイトが求めているのは、男としての僕ではないのだ。
十代の頃の手痛い失敗が、彼女を境界線の一歩手前で思い留まらせていたのだと思う。
彼女は男性というものを未だに信用できないのだと、幾度となく会話の端々で認識させられた。
何より自分が必要としている人間は彼女ではないと、僕は最初から知っていた。
たとえ一時の快楽を求めたとしても、いずれ虚しさと後悔に打ちのめされるのだということも。
それなのにジェラルドは誤解したままだ。
いや、僕の微々たる下心を、奴は敏感に読み取っていたのかもしれないけど。
「そういうわけで何も起きない。これからもだ。俺は彼女の身の上に同情して、ひたすら聞き役に徹している。もはやセラピストのようなものだ」
「そこで『俺が嫌な過去は全部消してあげるよ』って言えばおのずと新たな展開が」
死んでも言いたくない陳腐な台詞だ。
「重すぎて背負いきれない」
「冷たいわね」
ブライアン達は僕を応援しているのか邪魔したいのかわからない。
「ジェリー、来ないわね」
モニカがぽつりと呟き、僕は単純に言葉に詰まる。
「仕事ではお互い普通だよ」
「じゃあなんで来ないのよ」
「そもそも俺は、後ろ暗いことは何もしてないんだけど」
「私達に言い訳しないで」
僕は言い返すこともできず、解体中のツリーハウスをわざとらしく眺めていた。
これだけは私の守備範囲外よ、と力仕事は住人の男共をこき使い、モニカは「気持ち悪い」古びたツリーハウスを撤去すべく最後の仕事に取りかかっていた。
「この前泊まった時に、変な音がたくさん聞こえたのよ。子どもが大騒ぎしながらバタバタ走り回って、全然眠れなかったわ。子どもの幽霊でもいるんじゃないの」
泊まったのは僕の部屋である。
ブライアンの部屋は蛇がいるから絶対に嫌だと言い張り、僕を追い出して一人安らかに眠ったのだった。
「家に帰れないほど飲みすぎるから、幻聴が聞こえるんだ。そのうち君のおじいちゃんがショットガン持ってここに乗り込んできそうだから、ほどほどにしてよ」
「もう子どもじゃないから、自分の行動には責任持ちなさいって言われたわ」
ああ言えばこう言う女の子相手に、僕に勝ち目があるはずもない。
「モニカ以外にもうちに来る客で、子どもの声を聞いたっていう奴はいるよ」
帰宅したデイヴィッドが裏庭側から車を入れ、僕らに挨拶した。
「やめてくれない、そういうの」
「本当だよ。いわゆるわけあり物件だからね。だからこれだけの大きさで格安なんだ」
「やっぱり幽霊屋敷なの?」
意外と恐がるそぶりも見せず、モニカは興味深そうに尋ねていた。
モニカには得体の知れない何かよりも、生きている蛇の方が怖いらしい。
「前の持ち主一家でいろいろ不幸な出来事があったようだとしか聞いていない」
背中がぞくりとしないまでも、その話にいい気分はしない。
何も感じないわけではないが、庭に残されたツリーハウスが不思議と僕の不安を煽っていたのは事実だ。
「でしょう。私は正しかったのよ。あれを全部取っ払ってお化けが住めないように改良するの。いいアイディアでしょ」
お化けというよりはむしろ、庭に住み着いた野良猫を追い出す計画を練っているような口調だった。
ばかばかしい、と僕は椅子から立ち上がり、ビールを取りにデイヴィッドとキッチンへ向かった。
「仕事、どう」
デイヴィッドは手際よくチキンウイングをオーブン皿に並べはじめた。
その隙間を埋めるように、細かく刻まれた色とりどりのパプリカをしき詰める。
オリーブオイルとクレイジーソルトをその上に山ほど降りかけ、余熱もせずにオーブンに放り込んだ。
彼お得意のグリルド・チキンのレシピは以上である。
残りの仕事はオーブン任せだ。
おいしそうなチキンに心を奪われ、幽霊の話は僕の脳裏から消え去っていた。
「それなりに忙しいよ」
僕はデイヴィッドの土産のバゲットを切りながらのんびりと答えた。
デイヴィッドはまめな男で、男の料理ながらも僕らをうならせる物を作った。おそらく女の子のモニカより腕はいい。
「レイオフとか聞かないの」
「うちはないね。小さいながらも優良企業だから」
そうか、とデイヴィッドは呟き、バドライトのプルタブを勢いよく下げた。
半分ほど飲み干すと、再び料理の続きだ。
今度はホウレン草のサラダだった。
厚切りのベーコンとマッシュルームをオリーブオイルとニンニクで炒め、生のホウレン草に載せる。
仕上げはポーチド・エッグだ。
「うちは最近多いんだよ。景気悪いからな。俺は今回残ったけど、マーカスがくびになった」
デイヴィッドは湯の中の卵を美しく成形させることに集中しているようだった。
その顔が心なしか険しいのは、不景気のせいか、不安定な卵のせいか。
マーカスはこの家の住人で、デイヴィッドの同僚でもあった。
八月になり、マーカス以外にも職を失った他の住人がいた。
いくら格安のぼろ屋敷とはいえ、家賃の支払いに影響すること必至である。
「もう少し出そうか」
心配そうな僕を見て、デイヴィッドは片手をひらひらと振った。
「いや、それはいい。それよりも借金先に返しちまえ。もう直ぐ終わるんだろ」
家主だけあって、稼ぎは誰よりもよいデイヴィッドであった。
見た目はいかついが、僕を何かと気にかけてくれる気持ちのよい男だ。
兄のシルヴァンはどちらかというと、田舎町には不似合いな、繊細でエレガントな雰囲気をまとっていた。兄弟でもあまり細かいことにこだわらない弟のデイヴィッドとは正反対である。
シルヴァンと同じくアーティスティックではあるものの、千沙さんはどちらかというと「男気」を感じさせる。二人は一緒にいて丁度よいのかもしれない。
ふんわりした卵をサラダにそうっと載せ、仕上げにビネガーや塩コショウをふりかけると、イタリアンレストランにもひけをとらない料理が出来上がった。デイヴィッドは誇らしげであった。
訂正する。彼が唯一何かにこだわりを見せるとしたら、それは食以外に存在しない。
「嫌な感じだ。久しぶりにぱあっとやるか」
毎日がパーティーなのに、これ以上何をどう盛り上げるというのか。
真顔で見つめる僕に不敵な笑みを返し、デイヴィッドは「楽しみにしておいて」と言い放った。
***
「今から読み上げるわよ。デイヴィッド・マッケイ、ブライアン・オコナー、クレイトン・オーガスト、ポーラ・オーガスト……それから私も。ジェラルドもね。ジェラルド・グエン。スペルは、ああもう時間がないわ。FAXしましょうか。自分の分も忘れないでよ」
「ちょっと待った。あと一週間もないんだよ」
PCの前で上ずった声を出す僕に、他の職員達が怪訝そうな顔をしていた。
「だからあなたの会社を使うんじゃない。AAやUAは無理だしこの際贅沢は言ってられないって、デイヴィッドが」
どうせこの航空会社は格下だ。なんたって、毎日が体をはった椅子取りゲームなんだから。
いや、そうじゃなくて、多忙を極める僕のスケジュール調整はどうするんだ。
「もうすぐオンエアだから行くわ。とりあえずその日に十人分席を確保しておいて。またね」
一方的に会話を進め、モニカは「アディオス」と唐突に電話を切った。
彼女は今もラジオ局で働いているようだった。
少しえらくなったのよ、担当する番組もあるの、といつだかモニカは誇らしげであった。
再び僕の机の電話が鳴った。今度は僕直通である。
「ホテルはこっちで押さえるから大丈夫よ。ジェリーと同じ部屋にしておくね。健闘を祈るわ」
言いたいことを言い終えると、モニカは慌しく電話を切った。
この子は、一体何をしてくれたんだ。健闘を祈るとは、これまた如何に。
お祭り好きのデイヴィッドに便乗して、僕にいたずらをしかけたとしか思えなかった。
間際に大勢のチケットを抑えることよりも、どうしてジェラルドまでついてくるのかという疑念に僕は慌てふためいていた。
何故という単語だけが僕の頭の中をぐるぐるのたうち回る。
モニカの攻撃は収まらず、予告どおりゼロックスから一枚の紙がぺろんと飛び出してきた。
「ナオキ、FAXきてるわよ。チケット取るの?あら、随分たくさんいるのね」
太めの同僚が、頼みもしないのに予約端末をいじくり始める。
「ちょっと待って。僕は休暇申請もしてないし、友達も行くかどうかまだわからないから、ちょっと」
「行ってくればいいじゃない、楽しいわよ」
お節介な同僚は片目をつぶり、鼻歌を歌っていた。
「LFA to MSY……空いてたわ、lucky you」
はあ、どうも、と僕は顔を引きつらせながらモニカのFAXを握り締めていた。
ジェリーと一緒に、旅行に行くだと。
真冬のN.Y.のように心温まる関係ならともかく、真夏の僕らの間には隙間風が吹いているというのに。
最悪だ。
いつの間にあの二人は電話番号を交換していたのだろう。
ジェラルドは本当にモニカの誘いを断らなかったのだろうか。
だとしたら、気まずいまま一緒に旅に出るのは気が重かった。
同時に僕は悪くないという気持ちは今も変わらずにいた。
謝ることなど何もない。
傍から見ればどうということはない、けれど心の通わない会話を僕らは続けている。
こんなのは、嫌だ。
できれば初日までに仲直りしたい。
そうするには不本意ながらも自分が折れればすむ話なのだ、と僕は方向転換せざるを得ない。
僕よりもはるかに強情なジェラルドの為に。
それなのに隣の席のジェラルドはいつものようにむっつりと黙り込んだままであった。
モニカは無理だよ、と目を見開いて振り返る僕に気付いた。けれども彼女は機内サービスのクラッカーをぽりぽりかじっているだけで、救いの手を差し伸べてくれそうにはなかった。
他の同行者も似たようなもので、実に嬉しそうに缶ビールを飲んでいる。早くも祭りが始まったようだ。
ここには、役に立たない酔っ払いしかいない。




