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26、愛されるという意味

 あくまでも同僚である。

 同僚と親しくするのは悪いことではないと僕は言い聞かせていたが、ケイトの微妙な態度にどうしたものかと考えなかったわけではない。

 ケイトは、僕がブロック・カレッジに移籍した原因が自分にあると思っているふしがあった。

 僕に優しくするのはそのせいだと思い込みたかった。

 在学中に比べて僕達の距離はぐっと縮まっていた。


 元々ケイトは物静かな人で、騒々しさとは無縁だった。

 生まれたばかりの子どもを連れて授業に来ることもあった。

 彼女がヴィオラを弾いている姿はとても優雅で、エル・グランデではあまり見かけない育ちの良さが滲みでていた。

 こんなお嬢さんがどうしてシングルマザーになったのか不思議でたまらないが、この国ではよくあることだった。


 僕は久しぶりにブライアン達とセッションをした。

 ダウンタウンの小さなカフェに、ブロック・カレッジの友人達が集まっていた。

「私も行っていいかしら。ブロックの人達はうまい人ばかりなんでしょう。是非聞きたいわ」

 ヴィオラを持っておいで、と僕はケイトに言った。

 子育てと仕事に追われてまともに練習なんてしてないのよ、とケイトは言っていたが「気分転換になるよ」と僕は勧めた。

 

 カービィもやってきた。

 僕は数曲演奏して、他のピアニストと交代した。

 カービィも二、三曲弾き終えると、休憩がてらビールを飲みつつ僕の隣に座った。

 ブライアンとにこやかに会話をしているケイトが、僕の視線の端に映った。

 そしてその隣に、ちょこんとストールに座っているモニカも。


「忙しいの」

「はあ、まあ」

 僕はすぐさまクアーズの瓶を口元に移動する。

 カービィが何を言いたいのか、僕はわかっていた。

 やんわりしたお説教がくるぞ、と僕は学生の頃と同じように身構えていた。


「ピアノの仕事も入れた方がいい。私は土曜はいつもホテルのラウンジで弾いてるから、君も来なさい。たくさんはあげられないけど、いい勉強になる」

 カービィは若かりし頃、有名なビッグバンドの団員だったそうで、何度かツアーで訪日したと言っていた。

 目が飛び出るほど高価なテンプラをホテルで食べた。けれどあんなにおいしいテンプラは後にも先にも食べたことはない、とカービィは懐かしそうに語ってくれた。


「お気持ちは嬉しいですけど、無理です、ファイナル・ステーションの仕事があるし、その前はスシバーだし」

「君はピアノを弾かなきゃいけない。それともピアノには興味がなくなったのかな。DJの方が性に合ってるとか、まさか思ってないよね」

 僕が練習不足であるのは、誰に目にも耳にも明らかなのだろう。

「生活にゆとりができたら、きちんとやろうと思ってます。でも今は働かないと」

 弁護士への借金返済のめどがつけば、自由な時間を、ピアノと向き合う時間が持てるのだ。

 それまでは一ドルでも多く稼ぐ必要があった。


 カービィは頑固な僕を説得するのは不可能だとわかっていたので、「いつでもいいから」ともう一度言い、それ以上は言わなかった。

 ただ残念そうに彼が白いにあご髭を撫でる手つきが、僕の目に悲しく映った。


 その頃の僕の価値観は「時間イコールお金」であった。

 ただ同然で貴重な時間を無駄にしたくはなかった。

 ファイナル・ステーションで貰える金額と同額でなければピアノを弾く価値などない、とさえ思っていた。

 今になると、なんて身の程知らずの若造だったのだろうと自分が恥ずかしくなる。

 誰よりも期待されているとわかっていたのに、それに応える努力を僕は怠っていた。

 その証拠に、卒業してから格段に腕をあげた元クラスメート達に対して焦りを感じていた。


 カービィと入れ替わるように、演奏を終えたケイトが僕のところへやってきた。

 久しぶりで全然駄目ね、とケイトは恥ずかしそうに微笑んでいた。

「そんなことないよ。ブロックにはストリングスの人というか、女の子が一人しかいなかったから、みんな新鮮で喜んでると思うよ」

 

「私ね、あの噂が本当だったらよかったのにって、思ったこともあったのよ」

 僕の持つクアーズが、手の間からするりと抜け落ちそうになった。

 気付かれないように左手を瓶の底に添え、僕は黙ってビールをあおる。

 予期せぬ話題の転換に、僕はおおいにうろたえていた。


「子どもができてとりあえず結婚したけど、ろくに働きもしないで刑務所行きだもの。そんな旦那じゃなくて、あなたみたいな人が父親だったらよかったのにって」 

 彼女のように綺麗な子がろくでなしに騙される、十代の物知らぬ少女には、よくある話だ。

「あの学校は人間の掃き溜めみたいなものよ。そこにあなたみたいにお金持ちで洗練された王子様が現われたら、そりゃあみんな目の色変えるわよね」


 実際そうでもなかったけど。

 デートしたのは一人だけだったし。

 けれど、褒めてもらえるのは悪くない。


 いつものケイトらしくないな、と僕は同時に感じていた。

 その手の展開だけは避けなくてはいけないのだ。

 彼女は僕に対してロマンチックな関係を求めているとも取れる発言なだけに、僕は慎重でなければならなかった。

 慣れない雰囲気のせいで、彼女の気分が高揚しているからだと思いたかった。


「お金持ちだったら、こんな貧乏生活してないよ」

 落ち着け、と僕はケイトの視線を気付かれないように流し、おどけた口調で言った。

「あなたは生活が苦しくても、自分の未来に投資しているんだから、立派よ」

 先ほどのカービィとは正反対の意見だった。

 カービィも僕が常に外国人としての問題を抱えていると理解してくれている。

 けれど「そんなふうに言わなくてもいいじゃないか」と甘えを含んだ不満を感じていただけに、ケイトの言葉に救われる気がした。


 次の日の遅い時間に、僕達はいつものように庭でビールを飲んでいた。

「危険を感じる」

 ブライアンがじいっと僕を見つめ、重々しい口調で言った。

 何を言いたいのか、わかっている。

 来たな、と僕は昨夜と同じようにまたもや身構えていた。

  

「君までジェラルドと同じこと言うの」

 僕は次第に、誰もかれもが僕の生き方に対して難癖をつけているという被害妄想にとらわれ始めていた。 

「彼女は美人で性格も悪くなさそうだ。ただし」


「子持ちだ。しかも前夫は服役中だ」

「どう考えても無理よね。ナオキ、そんな重い状況で『お父さん』になれるの」

 モニカは心底、僕をからかうのが楽しいようだ。

「話が飛躍しすぎてる。俺はそんなつもりはない。向こうだって、たぶん」


「だったら距離を置きなさいよ。あなた女難の相があるんだから、今回も絶対地雷よ」

「ある日突然刑務所から出てきた元旦那に、問答無用で撃ち殺されるんだろう?」

「巻き添えは御免よ」

 心配している方向が何か違う。


「大丈夫だよ。いざっていうときは」

「俺の好きな人は男です、よね」

 モニカは言い終えるやいなや僕の攻撃を避けて、壊れたツリーハウスの裏側へ走って逃げた。

 僕はモニカを追いかけるのを諦め、再び椅子にどさりと身を落とす。


「ジェラルドがかわいそう。彼、あなたを止めたくて仕方が無いんじゃないの。最近来なくなったし。喧嘩したの」

「そもそも俺達は付き合ってないんだけど。二人ともストレートなんだけど」

「へー」

 戻ってきたモニカは、無感動に呟いていた。


 思えばいつも、ジェラルドは彼女がいるくせに、僕が誰かと仲良くするとものすごい勢いで不機嫌になった。

 ヴァレリーの時もそうだし、男のキムにでさえ嫉妬していた。

 けれどそれは恋愛感情とは違う。

 僕のことを好きではないのに僕を縛るのはやめてくれと思うのも、自分は彼の「一番」であると勝手に自負している、傲慢さゆえなのだろうか。


「浮気してごめんね、ってさっさと謝れば」

 モニカが僕に煙草の煙を吹きかけながら、人の悪い笑顔を向けていた。いつもどおりだ。

 殺意がわくくらい、いい笑顔だ。

「ブライアン、今すぐ蛇持ってきて」




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