25、終わりは近づいていた
その日のラバーズ・フィールド空港は、人が人で人を洗いながらごったがえしていた。
独立記念日のせいか、移動する人々はいつもより多い。
大雑把にシステム担当として採用されたはいいが、過渡期は人員整理の為、手の空いている者は残らず現場へかり出される。
カウンターでチェックインを済ませた乗客に整理券を渡し、搭乗時刻まで無線機片手にその場で応対にあたる。
ここまではいい。
「アトランタ行き百二十二便の搭乗を開始します。整理券番号一から五十のお客様はご搭乗ください」
アナウンスが終わる間もなくいっせいに人々が立ち上がり、整理券を回収する僕達をめがけて殺到する。
僕の二倍はおろか三倍も重量がありそうなご婦人達が突進してくるさまは、土ぼこりをあげて赤い大地を駆けるバッファローの群れを思わせた。慣れないうちは心底恐ろしかった。
そして本当に弾き飛ばされたことも一度や二度ではない。
これは飛行機ではなくて乗り合いバスなのだ、と僕は勤務し始めてから一週間ほど経って気付いた。
この航空会社は、全席自由であった。
早い話が椅子取りゲームのようなものである。
僕より体の大きな人々が我先にと争いながら搭乗していくのを、僕はなすすべもなく呆然と眺めていた。
優雅な空の旅とは程遠かった。
今でこそあちこちで自由席の格安航空会社が参入しているが、空の旅は特別なものだと考えていた世間知らずな僕には、充分なカルチャーショックだった。
それでも数ヶ月もすれば戦場のごとき光景もすっかり見慣れたものになり、お客を避けるコツも掴めてきた。
だが今日のように特別な日は、やはり自然と身構えずにはいられない。
冬のホリデーシーズンになれば、そのカオスっぷりは容易に想像できた。
僕はふいに足元に転がってきた枕を拾い上げ、持ち主らしき人を探す。
持ち主は既に機内に乗り込んでいるようで、仮に気付いたとしてもこの人混みの中引き返すのも難しそうだった。
僕はすぐさま無線でフライト・アテンダントを呼び出し、使い込まれた枕を託すことにした。
客をかきわけ降りてきたのは、エル・グランデ・カレッジで一緒だったケイトである。
ポロシャツにショートパンツといった軽装が、ここの制服でもあった。
「OK。直ぐに探すわ」
ケイトは金色のポニーテールを揺らしながら軽くウインクすると、人の流れに上手く乗り再び機内へと消えていった。
目眩を起こしそうだ、と僕はケイトの笑顔に見とれていた。
ごく自然にウインクするのは映画の中だけだと僕は長い間思っていたが、どうやらそれも勘違いだったらしい、とケイトのチアガールを連想させる後姿を見送りながら思った。
残念なことに、どれだけ異文化が混ざり合ったとしても、日本人には永久に定着しそうにない文化だ。
そういえば僕は、ジェラルドがウインクするのを一度も見たことがない。
気難しい彼にいかにも「アメリカンです」と陽気に片目を閉じる仕草をされても、それはそれで居心地が悪いだろうな、と僕は即座に思った。
陽気というより能天気なメイとは正反対の性格である。多くを望んではいけない。
メイはあれから「ミドリ」に戻ってきて、ジェラルドと一緒に働いている。
高校はどうにか卒業できたらしい。
全ての客が機内に吸い込まれ、めいめい場所を見つけて納まったようだった。
カウンターの周辺は人影もまばらになり、徐々に静寂を取り戻しつつある。
やがて搭乗口が閉められ、機体は滑走路に向かって離れていった。
この戦いが夜まで断続的に続くのだ。
朝から体力を消耗しては体が持たない。遅い朝食をとるべく売店でトルティーヤのラップサンドを買う。中身は僕の好きなチキンシーザーサラダだった。
僕は特大サイズのラップサンドと無線機をそれぞれ片手に持ち、今まさに旅立とうとしている百二十二便の離陸を見守っていた。
真っ青な空に南を目指した一筋の雲が、大きな直線を描きながら昇っていった。
僕はその後「ミドリ」のディナータイムが迫り来る中、必死でハンドルを握っていた。
渋滞はいつものことだったが、どこまでも続く車の列は亀の歩みだった。
僕は最寄りの降り口からフリーフェイを脱出し、下道をのろのろと「ミドリ」に向かって進んでいく。
記念日の打ち上げ花火を目当てに、会場である野球場周辺はどこもかしこも車だらけである。
一般道も同じような混み具合だったが、フリーフェイを思えば悪くない進み方だった。
僕は慌しくコーヒーの入ったカップを抱え、開店間際の店内にすべり込む。
これもまた、いつもどおりの風景だった。
メイが颯爽と店内を動き回り、ジェラルドが無言で帳簿に目を落としている。
出会った頃と比べれば、彼の表情は見違えるように柔らかくなったはずなのだ。
それなのに最近のジェラルドは、昔に戻ったかのような気難しい顔をすることが増えた。
僕にはわからない経営上の悩みがあるらしく、時々店に対する不満や問題点を口にするようになった。
僕もジェラルドも社会人一年生である。
肩に力が入りがちなのは理解できるが、彼の必要以上に気負う性格はどうにかならないものだろうか。
「あまり機嫌がいいとは言いがたいわね。今日も」
とメイはすれ違いざまにささやいた。
とはいえ、彼の不機嫌な態度は僕もメイも慣れっこである。
メイはおしぼりの温度を確かめにさっさと中へ戻っていった。
「もっと遅いかと思ってた」
遅刻したら怒るくせに、遅刻しなくとも機嫌が悪いのは何故だ。
無意味に皮肉めいた表情のジェラルドを見つめ、僕は「ちょっとウインクしてみてくれない?」と言った。
「何故?」
「ウインクがすごく素敵な人がいたんだ。君がやったら、どうなるのかと思って」
ジェラルドは何も言わず、ひたすら僕を上目遣いで睨んでいた。
「だよね」
僕のくだらない発言のせいで、ジェラルドをますます不機嫌にさせてしまったようだった。
ぱたりと帳簿を閉じ、ジェラルドは足早に中へと歩き出す。
「ねえねえ、私は?」
メイは投げキスとウインクを繰り返し、次第にその様子が滑稽になったのか、大きな口を開けて豪快に笑っていた。
色気はないが健康的でよろしい、と僕は思った。
「合格です。自然と客のチップが弾むこと間違いなしだ」
実際看板娘のメイが復帰した途端、足しげく通うお客が増えたのも事実である。
「僕にも、お客に媚びろと?」
僕に向けられたジェラルドの眼差しは、夏真っ盛りのこの地に冬を呼び起こすのではないかと慄くほど寒々しかった。
「そんな堅苦しく考えなくてもいいのに」
「じゃあナオキがやってみせて」
「日本人はウインクできないんだ。何度か練習してみたけど両目を瞑ってしまう」
「僕だって同じだ。あれだけは受け付けない。男がするものじゃないと僕は勝手に思ってる。アメリカ人のくせに変だと思われても仕方がないけど」
お前は武士かと言いたくなったが、ジェラルドらしい返答だった。
「片目をつぶるだけなのにどうしてそんな大事になるのよ」
キッチンのメキシカン達が、愛嬌たっぷりにウインクを大盤振る舞いするメイに対して「ムーチョ、ボニータ!」と口々に返していた。
賑やかなのはよいことだ。
エプロンに箸や伝票をねじ込み、僕は入り口の札をひっくり返しにドアへと向かう。
札は「OPEN」に変わり、早速持ち帰りの客が店内へと入ってきた。
真夏のお祭りムードで、「ミドリ」は早い時間から次々と席が埋まっていった。
「ナオキ」
閉店間近の店内で、僕は思いがけない人を見つけ、驚きながらも自然と笑みをこぼしていた。
僕はすぐさま持ち帰り用のメニューを渡し、ケイトは真剣な顔で丸を付けていた。
時折何度か首に落ちかかる金色の髪を、無造作に払いのけていた。
落ち着いた大人の女性のように見えるが、ケイトは僕よりも、メイよりも年下なのだった。
寿司が出来上がるまでの間ケイトはカウンターに座り、にこにこしながら緑茶を飲んでいた。
「またあなたに会えて嬉しいのよ、本当よ」
ケイトの笑顔は思慮深く、それでいて温かいものだった。
「あなたが急にいなくなって、みんな残念がっていたのよ。あんなことがあったから、私達といるのが嫌になったんだろうけど。ごめんなさいね」
年齢に似合わない、ケイトの落ち着き払った話し方は、聞く方の心もゆったりとさせる気がした。
「むしろ俺より君の方が、嫌な思いしたんじゃないのかな。俺は気にしてないというか、とっくに忘れたから、大丈夫」
本当だった。
僕はとにかく卒業することに必死で、エル・グランデで起きた事件は完全に忘れ去っていたのだ。
「また一緒で嬉しいわ」
「ありがとう」
別れ間際に軽いハグをかわし、ケイトは「また明日ね」と大きな袋を抱えて帰途についた。
「ワサビをエキストラで」
アイスクリームのように山盛りにされたワサビを確かめ、ジェラルドが応対していたお客は満足げであった。
「Enjoy」と最後の客を送り出したジェラルドがほんの一瞬見せたその表情に、僕は思わず固まってしまった。
挑むような、それでいてわずかに見る者を誘うような、ふてぶてしくも美しいジェラルドの姿があった。
「I did it」
気が付けば、ジェラルドはいつもの仏頂面に戻っていた。
一瞬だけ見せたその顔は、僕の他愛ないリクエストに応えてくれた。ように見えた。
今の顔は、何だったのだろう。
「彼女は君に会いに来たんだ。そういうことか。『ウインクがすごく素敵な』人、ね」
ジェラルドはてきぱきと正面入り口を施錠し、ドアにかかった札を「CLOSED」に戻した。
その足取りは粗雑な音を立てていた。
「彼女とは毎日顔を合わせてるし、単に寿司が食べたかったんじゃないのかな」
僕は若干後ろめたい気分を抱えつつ、あくまでも無関心を装っていた。
「そうは思えないけど」
一方のジェラルドは、顔だけでなく声まで機嫌が悪かった。
「で?またトラブルを起こすの」
ジェラルドのむっつりとした視線は、向けられる側としても愉快な気分ではなかったが、後年僕が真っ先に思い出すのは、この日のように横目で僕を睨む彼の姿だった。
「なんでそうなる?彼女とは偶然勤め先が一緒になっただけで、昔だって特別な関係じゃなかった」
「そのわりには鼻の下が伸びてたわよ」
徳利を山ほどトレイに載せたメイが、すれ違いざまにさらりと呟いた。
「そもそも、あの時のトラブルだって、彼女は巻き込まれた方なんだよ、被害者なんだよ」
けれども僕の主張は、ハエ叩きが目標をど真ん中に直撃したかのように、あっけなく撃墜される。
「I know」
なんて冷たい言い方、と僕は少なからずも傷ついた。
無性にむなしかった。
僕は何の為に、清い生活を続けているのだろう。
どれだけ僕がジェラルドを好きだとしても、僕の思いが彼に届くことは決してないのだ。
報われない恋は辛い。
挙句の果てに想い人から誤解混じりの非好意的な態度までとられては、つくづく我が身が哀れに思えてならなかった。
魔が差す時は、大抵こういった状況下なのだと僕は嫌というほどわかりきっている。
だからといって、あてつけがましく暴走したりはしない。
何度も馬鹿みたいに、同じ過ちを繰り返してはならないのだ。
ただ、一方通行の心の行き先は何処にも見えず、以前よりも侘しさを手に取るように認識するようになっていたのも事実である。




