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24、終の棲家

 語れるほど長くも重みもない人生の中、もっとも穏やかで幼い日々はある日を境にあっけなく幕を閉じる。

 何の前触れもなく整えられた歩道が足元から瓦解していくさまを、今更思い出したいとも思わない。

 けれどそれまでの他愛もない日々はひたすら美しく、僕とジェリーの時間は確かに存在していて、その一つ一つが眩しいものであったとしか記憶にない。


 僕はラバーズ・フィールドという小さな国内線の空港に勤務しはじめた。

 インターン扱いで、給料は高くなかった。

 就労ビザの為の弁護士費用返済に追われ、空港からの給料だけでは生活できない。

 僕は学生時代と変わらず、夜は「ミドリ」や「ファイナル・ステーション」の仕事を掛け持ちしたままだった。

 一方ジェラルドは大学を卒業した後「ミドリ」のマネージャーとなり、日々帳簿と戦っていた。

 幸運なことにあの騒動が尾を引くこともなく、客足は順調だった。


 相変わらず僕は貧乏だったが唯一ありがたかったのは、家賃が格安だったことだろうか。

 僕はブライアンに誘われるまま、彼のルームメイトとなった。

 ルームメイトは彼一人ではなかった。

 その他にも二,三人の男達と同居しており、家主は千紗さんの彼氏であるシルヴァンの弟であった。

 つくづく世間は狭い。


 6LDKの借家は常に人で溢れていた。

 廊下やキッチンで見知らぬ人と毎日すれ違い、ぼそぼそと挨拶をした。

 最後の頃にはいったい何人の正式な住人がいたのか、僕もあまり詳しくは知らない。


「家賃が無理なら、ビールを冷蔵庫に冷やしておいてくれ」

 とシルヴァンの弟、デイヴィッドは片目をつむってみせた。

 実際冷蔵庫の中には、常に何ダースというビールが所狭しと鎮座していた。

 三日に一度はパーティだった。

 誰かの誕生日があれば、百人以上の客が来訪した。

 そのつど僕は乞われるままに、以前の住人が置いていった古いターンテーブルを回してやった。

 近隣住民によって一度も警察に通報されなかったのは、奇跡としか言いようがない。


 千沙さんはシルヴァンと共に何度かD市へ遊びに来るようになり、しまいには一人で僕達の家に居候するようになった。

「やっぱりNYの古着屋とは比べ物にならんくらい安いな」

 千沙さんは日本へ送る商品を集める為、ひと月かけてD市や周辺の都市を回り、観光ビザが切れる頃に出国するのがサイクルとなっていた。

 労働ビザは、とっくに期限切れであるらしかった。

「そんなことなら最初からNYに行かなきゃよかったのに」

 とジェラルドは言っていたが、み月に一度千沙さんに会えることをとても喜んでいるようだった。


 僕の部屋は千沙さんの商品を詰め込んだダンボールで溢れかえっていた。

 とどめに「ナオちゃんなら安心や」と僕のかろうじて残されていた自尊心を傷つけるような台詞を口にすると、連日の買い付けで疲れた体を横たえ、僕のベッドの下で死んだように眠っていた。


 家に帰れば、誰かが起きて酒を飲んでいた。

 寂しさは皆無だった。

 狂牛病が世間を賑わしていた頃、これ幸いとばかりに「発症が二十年後なら関係ないよな」と庭で連日バーベキューをしていた。

 広いだけでボロボロの家だったが、庭の美しさは別格だった。


 庭でちかちかと無遠慮に瞬く蛍を見つめながら、僕はビール瓶を片手にジェラルドと語り合った。

 アメリカの蛍は、日本の蛍より数倍力強い光を放っていた。

 儚さや侘しさは一切なかった。

 日本では絶滅危惧種に等しい蛍がこの国では保護されもせず、民間人の庭先で繁殖し放題だった。

 綺麗な水もない枯れた庭にどうしてこんな美しいものが、と僕は何度も不思議に思った。

 蛍までが逞しいアメリカンなのだ。


 僕が蛍の美しさに浸っていると、遊びに来ていたモニカがブライアンと共に庭へと顔を出した。

 僕達のぶんのビールを追加で持って来てくれたようで、蚊を払いながら同じテーブルに座る。

 足元では蚊取り線香を焚いていたが、アメリカの蚊にはいまいち効果が薄いような気がした。

 もしくは、家がもう一軒建つほど広い庭では焼け石に水だったのかもしれない。


「お邪魔だった?」

 いたずらっ子の顔をするモニカに向かって、僕は威嚇するようにしかめ面をした。

 けたけたと笑うモニカを、ジェラルドは不思議そうに見ていた。

 僕とブライアンが共同生活を始めたと聞き、モニカは新しい遊び場ができたとばかりに頻繁にこのあばら家を訪れるようになった。


 そして誰も手入れをしようとしない広いバックヤードを見るなり「ジーザス」と頭を抱え、その次にやってきた時には園芸道具一式を持ち込み、これまた誰かが忘れていった芝刈り機をガレージから引っ張り出してきた。

 廃墟のようであった庭が徐々に手入れされ、ちょっとしたカフェのパティオに様変わりし、来客は益々増えていった。

 相変わらず、モニカ様様である。


「そんなに気になるなら、この家に住めば」

 と提案する僕を一蹴しモニカはNo way、と怖い顔で返してきた。

「男ばかりの環境は学校だけで充分」

 そう言うけれど実際モニカは、愛らしい外見とは程遠い骨太さを持っていた。

 そうでなければ、あのむさ苦しい男共しかいない学校を卒業できるとは思えない。


 何か食べるものを、とモニカがキッチンを漁りにブライアンと中へ戻っていった。

 誰も片付けようとしない山盛りの灰皿を、ぬかりなくブライアンに持たせていた。

 冷凍庫にピザがある旨を伝え、僕は何食わぬ顔でジェラルドと無駄話を続けた。

 モニカの絶叫がキッチンから響いてきたのはそれから二、三分経ったころである。

 怯えた表情になるジェラルドを誘い、僕達は中の様子を見に行くことにした。


「たぶん、あれを見たんだな」

 僕はしばらく笑いが止まらなかった。

「あれって?」

「蛇の餌が、ピザの隣に置いてあるんだ。可愛らしいパッケージなんだよ、ねずみの絵がいっぱい描いてあってさ」

「まさか中身は」

「うん、パッケージと同じ」


「信じられないわ。あんなものを人間の食べ物と一緒にしておくなんて!」

 と涙を流しながら怒り狂うモニカを、蛇の飼い主であるブライアンがよしよしとなだめていた。

「ありえないわ、こんな不衛生なところ、絶対に住まない!」

 おそらくこの次は冷蔵庫の大掃除になるんだろうな、と僕は確信していた。




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