23、エアポート・ポートレイト
「気をつけて行ってきてね」
空港まで見送りに来たあやが、僕と松本を交互に見比べていた。
この子が僕を迎えにここへやってきた時は、ほんの小さな、まだ字もろくに書けないような幼い少女だった。
あれから十年ほど経ち、あやはすっかり大人びた顔つきでコーヒーを手にしている。
僕達は空港内のカフェから、言葉少なに滑走路を眺めていた。
あやが真っ白な陶器を皿へ戻す仕草も、大人の女性のものだった。
ふいに僕は、帰り道のラガーディア空港で紙コップのコーヒーを片手に二人、滑走路を眺めていたことを思い出した。
あの時は、隣にジェラルドがいた。
僕達は搭乗口のモニターに目を走らせ、「あっちは七十四度だって、このコートどうしよう」と、現地で買ったダウンコートにくるまり、背中を丸めていた。
そして僕達は今、夏真っ盛りの五月のD市へ旅立とうとしている。
日本でもそれなりに暑い日があったが、真夏はまだまだ先の話だった。
僕達はいつも以上に口数が少なかったが、心は軽く、飛び立つ準備は整っていた。
そんな僕達を見て、あやは不満そうだった。
一人取り残されることが面白くなかったのだろう。
「いいなあ、いいなあ」
とあやが何度も呟くのを無視して、僕達は黙ってコーヒーをすすっていた。
「あやも来年行くんだろ。俺達みたいに何日かじゃなくて、ずうっとだよ。そっちの方がいいなあ、羨ましいなあ」
「だよな。俺達は残した仕事を気にしながら、ごめんなさいって周りに気を遣いながら行くんだから」
「私も、見たかったのに」
「帰ってきたらライブやるから、その時見においで」
あやは何故か納得しがたいといった顔のまま、うつむいて空のカップを覗き込んでいる。
女の子は、いつもくだらない理由で不機嫌になる。
いつもの甘えだ、と僕は気付き、
「あやの方こそ、気をつけて帰りなさいよ。寄り道してるとお母さんに怒られるよ」
と、もっともらしいことを言った。
受験生なのよね、と姉はことあるごとに僕に言った。
留学志望とあやが言っているのだから、受験も何もあったもんじゃないと僕は思ったが、姉には黙っていた。
「おみやげいっぱい買ってくるから、あやちゃんも勉強頑張るんだよ。TOEFLの試験まで二ヵ月切ったんだし」
「遊びに行く人に言われてもね」
取り繕うような松本の言葉は、何もかも見透かした女子高生には説得力皆無だった。
「そうだ、これ」
突然あやはブレザーのポケットから一枚の紙切れを取り出し、折りたたんだままの状態で松本に手渡した。
「ちゃんと読んでよ。じゃあね」
先ほどぐずっていた子とは同一人物とは思えないほど、あやは実にあっさりと席を立つ。
「土産ものリストだ」
ご丁寧に靴のサイズは、きちんとアメリカのサイズで書き込まれていた。
用意周到だった。
「本当は、お前より化粧品やブランド物の靴の方が気になるんじゃないの」
「ていうか、買い物したくて海外に行きたいんじゃないかって気がする。あやちゃんてあれだろ、お母さんはバブル世代だろ、絶対影響受けてそうなんだけど」
僕は馴染みのない横文字のリストを見つめ、姉の字だ、とすぐさま気付いたのだった。
離陸時間が迫って来ていた。
外はすっかり暗くなり、滑走路の灯りが色とりどりに輝いている。
美しい夜景には目もくれず、松本はブランドものの土産リストを真剣に眺めていた。
エンジンの音が、否応無しに緊張感を高めていく。
僕は離陸する瞬間の、全身から力が抜けていく感覚が好きだった。
その代わり、着陸時の投げやりな緊張感ほど嫌なものはない。
窓の外を見飽きた僕は、手持ち無沙汰にもう一度ジャズ・フェスティバルのセットリストを確認する。
セットリストなんて後半に入れば無意味なものだが、一応段取りだけはしておきたかった。
入れるべきか入れないべきか。
僕は迷いながら、終わりの方に「All the Things You Are」を入れておいた。それからスペインも。
ジャズ・フェスティバルの運営委員の中に、僕はカービィやロジャーの名前を見つけた。
恐る恐るメールを送ってみると、二人とも判を押したように『「All the Things You Are」はやるよね?』と返してきたのである。
何年も離れていたのに、二人の姿や冗談を言い合うクラスメート達が鮮やかに甦ってくる。
つい最近まで一緒にいたかのような錯覚に陥り、胸の奥は心地よいリズムで高鳴っていた。
時間は瞬く間に、幸せだったあの頃に巻き戻される。
今行くよ、だから、そこで待っていて。
全身が、ふわりと宙に浮いたような気がした。
気持ちいい、と僕は声に出さずにはいられなかった。
直行便でも、十三時間の長いフライトだった。
僕は離陸してすぐさま、夕食の配膳の為にせわしなく動き回るフライト・アテンダントを捕まえた。
僕はビールだけでいい旨を伝え、再びシートに沈み込む。
缶ビールを片手に、うつらうつらしながらセットリストに目を落としていた。
「寒いな」
「寒い」
それでも四時間ほど経てば、あっという間に南へと戻るのだ。
冬らしく道路が凍る日も何度かあったが、凍死者の出るNYに比べれば遥かに過ごしやすかった。
少なくともホームレスが、真冬に凍死したなどと聞いたことはない。
「今は役に立つかもしれないけど、この手袋なんて、絶対使わないだろ。どうしよう」
そう言いながらも、ジェラルドはその手袋がいたく気にいったらしく、NYにいる間かかさず着用していた。
車で移動するしか交通手段のないD市では、無用の長物である。
「記念に壁にでも飾っておけば」
「そうか」とジェラルドは答えると、「はい」とライム色と紫色が入り混じった手袋を片方だけ僕に手渡した。
D市では絶対にお目にかかれそうにない、洒落たウールの手袋だった。
「ひとつずつ、壁に飾ればいいんじゃない。言われてみれば、ディスプレイにするのもお洒落かもしれないね」
冗談で言ったのに、と僕は思ったが、生真面目に受け止めているジェラルドが可愛いかった。
僕は礼を言うと右手に手袋をはめ、ジェラルドもそれを真似て左手に手袋をはめる。
互いの片方の手には何もなくて、僕は「そうだ」と思わずジェラルドの細い手を取る。
コートの左ポケットに繋いだ手を入れ、「perfect」と僕は照れ隠しに呟いた。
「高校生の頃にさ、手袋が一人分しかない時、こうやって女の子と手を繋いでたんだ。雪の日とかね」
嫌がる素振りも見せず、ジェラルドは「いい文化だ」と言った。
この旅の途中に、何か気の迷いもしくは奇跡が僕らの間に起こるのではないかと思わない日もなくはなかった。
むしろ、そうなることを僕は恐れていた。
それは杞憂に終わり、僕達はいつもどおりで、けれども簡単に消せない絆がそこにはあった。
「千紗は、ナオキに似ているね」
「逆だよ。俺が千紗さんになりたかったからだ。あの人みたいに強くなりたいって、いつも思ってた」
日本語なら恥ずかしくて言えないような台詞も、英語ならすんなり言えるのはどうしてだろう。
後にも先にも、ジェラルドほど本音で語れる相手は、僕にはいなかった。
「千紗に会えてよかった。うまくいえないけど、いろいろ納得した」
不思議な感想を述べると、ジェラルドは手を繋いだまま、窓の向こうの曇り空を見上げていた。
ふいに乱暴に揺り起こされ、僕はつかの間の夢から現実へと引き戻される。
「俺のベースが気になって仕方がないんだけど。あいつら、ぶん投げてないだろうな。壊れてたら洒落にならない」
人間一体分ほどのウッドベースを機内に持ち込むと頑なに言い張っていた松本だったが、グランド・ホステスらに「こんな棺桶みたいなもの、危なくて入れられませんよ」と諭されていた。
万が一頭上に落ちてきたら、大事である。
結局松本は、泣く泣くベルトコンベアに吸い込まれる愛器を目で追っていた。
「大丈夫だよ」
僕は苛立ったように言い捨て、膝にかけてあったブランケットを肩まで引き上げる。
「カービィが来てくれるって言ってたし、万が一の時は誰かが貸してくれるだろ」
「どうかなあ、イギリス人と違ってアメリカ人はがさつだからなあ、信用できない」
ごちゃごちゃとうるさい男だ。
「悪かったな」と僕は腹立ち紛れに呟き、ブランケットを頭まで被って背中を向けた。
夢の続きは、見られそうになかった。




