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21、報復

 それから二週間ほど、僕はいつもどおり学校とファイナル・ステーションへ行き、週末は「ミドリ」へ手伝いに行っていた。

 恐ろしいほど平淡な日々が続いた。

 あの夜ルイスが垣間見せた僕に対するどす黒い欲望は、悪い夢だったのではないかと思えるくらい、「ミドリ」での彼は完璧なポーカーフェイスを崩さなかった。

 恐怖の一夜の記憶が段々と薄れ、僕が油断しはじめた頃だった。

 忘れもしない、土曜の昼前である。開店前の慌しい時間帯に、招かれざる客は突然やってきた。


 数人の男性がずかずかと店内に入り込んできたようだった。

 ようだった、というのは、運よく僕は暖簾の向こうで準備をしており、レジでコインを数えていたジェラルドがすぐさま応対したからである。

「『CLOSED』の札を読めない人が多すぎる」

 とジェラルドがぼやきながら入り口へと向かっていった。


 アジア系だと思って舐めた客も多い、と時々忌々しそうに呟くジェラルドである。

 「ギョウザ巻いてくれる?」などという、客の意味不明な要望と戦いながら、「そんなものはありません」とジェラルドは強い態度に出てくれる。 


「いらっしゃいませ。申し訳ありませんが、11時まで少々お待ちいただけますか」

 というジェラルドの比較的機嫌のよい声が、暖簾越しに聞こえた。

 ちらりと覗くと客は、土曜の昼だというのにスーツを着込んだ男性達だった。

 身なりはよい。


「イミグレーションだ。ご協力お願いする」

死刑宣告を受けるに等しい、「移民局」の単語に、僕は後頭部に何かでがつんと叩かれたような衝撃を受けていた。

 そして瞬間的にすぐそばの冷凍室のドアを見る。

 冗談で、何かあったらあそこに隠れればいいと話していたこともあった。


 けれど実際、彼らがいつ帰るとも知れなかった。

 数時間も居座られたら、僕は凍え死んでしまうだろう。

 ましてや隠れているところを発見されたら、確実に強制送還だ。 


「何してるんだよ、早く、裏から」

彼等の隙をついて奥へ戻ってきたジェラルドが、衝撃のあまり動けずにいる僕を急かし、小声でささやいた。

「全員キッチンに向かったよ。今のうちに、マーメイド・カフェに行くんだ」

 僕にグリーンのコートを押し付け、ジェラルドは早口でうながした。

「でも、俺だけ」


 厨房の中は、ほとんどがメキシコ人である。

 あの中で、果たしてどれくらいの人間が正式な労働許可証を持っているかなど、聞かずともわかる。

 捕まるのは僕だけではない。

 

「人のことなんてどうでもいいんだよ!早く行けよ。卒業するんだろ」

 無理矢理裏口まで僕を引きずり、ジェラルドはもう一度「逃げろ」と言った。

 ここで捕まったら、僕は卒業できない。

 今までの苦労は何だったのかと、後悔するどころの話ではない。

 法を犯しながら生きつづけて来たという認識が薄かったといえばそれまでなのだが、「ミドリ」の人々は危ない橋を渡るのが当たり前で、その環境に僕はどっぷりと胡坐をかいていた。


 けれど、今は反省している時ではなかった。

 逃げなければ、僕は全てを失う。

「ありがとう」

 真っ青になる僕の肩を軽く叩き、ジェラルドは無言で裏口の扉を閉めた。


 建物の裏辺りをそうっと見回してみるが、幸いな事に移民局員らしき人は見当たらなかった。

 僕はひっくり返りそうな心臓を押さえ、早足で同じショッピング・スクエア内にあるマーメイド・カフェへとすべり込む。

 顔馴染みの店員が「ホット・オレンジ?」と尋ねた。

 僕はいつものものを受け取ると、外からは見えにくい位置に座り、駐車場をじっと観察していた。

 ここに来ないとも限らないな、と僕は思い直し、そして膝が震えていることに気付く。

 何食わぬ顔で帰宅してしまえばよかったのだろうが、僕は興奮のあまり、その場から離れるという選択肢が思いつかなかった。

  

 平日ならともかく、土曜日にガサ入れとは、いったいどういうことなのだろう。

 アメリカ人でも時間外労働があるんだ、と僕は素朴に感心していた。

 一般的に移民局の強制捜査といえば、何百人という不法労働者を囲い込む工場をターゲットにするのが大半である。

 詳しくは知らないが不法労働者を一人捕まえるごとに、局員に対して何かしらの報奨金が出るという話を聞いた事がある。

 酷い話だと思ったが、駐車禁止や速度違反の取り締まりでさえおまわりさんの小遣い稼ぎになるのだから、ありえない話ではない。


 だからこそ、このような個人経営の小さな店を強制捜査するメリットなど、移民局にもないはずなのに。

 そうなると、誰かが「捜査の必要性あり」とたれ込んだとしか思えなかった。

 オーナー夫妻がどこかで人の恨みを買っているとも思えない。

 恨みを買うならむしろ、僕だ。

 ルイス、と僕の脳裏を今日は出勤していない彼の顔がよぎった。


 移民局のあの人に、おねだりしたのだろうか。

 気に入らない奴がいるからあの店を潰せ、と言ったのだろうか。

 それとも、僕を捕まえて、とベッドの中で可愛らしくねだってみせたのだろうか。

 彼のせいだと思いたくはなかったが、考えれば考えるほど、彼しか犯人はいないような気がした。

「後悔するよ」

 と言ったルイスの言葉は、本当だったのだ。



***



 ランチタイムは臨時休業となったものの、その日の夜は何事もなかったかのように「ミドリ」は店を開けていた。

 僕にはジェラルドを待ち続ける時間が、永遠のようにも感じられたが、実際には一時間もしなかったようである。

「こんなこと、初めてだよ。コリアンやチャイニーズの店でも、滅多にガサ入れなんて聞かないのに」

 ジェラルドは少々疲れているようだったが、僕の向かいに座り、自分もホット・オレンジ・ショコラを手に窓の外を眺めていた。 


 怯えて店に戻った僕に、厨房のメキシカン達は陽気に笑いかけてくれた。

 僕のせいなのに、とその笑顔が、ますます僕の罪悪感を深いものにした。

 驚いたことに厨房の中は誰一人として欠ける事無く、通常どおりだった。


「馬鹿だなあ、ナオキ。30ドル出せば許可証作ってくれる奴がいるんだよ。言ってくれれば紹介したのに」

 スタッフのホセが片目をつぶり、上機嫌で口笛を吹いている。 

 それもおそらく偽造なのだろうが、偽物の許可証で危機を乗り越えたことにも僕はショックを受けていた。

「危ないことするなら、真面目にやってちゃ駄目さ」

 と僕にもう一度ウインクして、ホセは冷凍庫へと消えていった。

 

 その日から、ルイスは「ミドリ」に姿を見せなくなった。

 厨房のメキシカン達も、この騒動の犯人がルイスだと知ったのか、あの陽気な人々が怒りさえあらわにしていた。

 スペイン語はあまり得意ではなかったが、汚い言葉だけは彼らから教わっていたので、誰の話をしているのか僕にもわかる。

 

「体だけじゃなくてこの店、いや、俺達まで売りやがって、みたいなことを」

 何を話しているのか、とある日ジェラルドに尋ねると、彼は言いにくそうに答えてくれた。

 狭い社会だ、ルイスが金持ち相手の男娼だったなど、皆わかっていたのだ。


 それでも、ルイスは犯人じゃない、と思い直す時もあった。

 裏口を封鎖せず、正面しか移民局員が封鎖しなかったのは何故なんだろう。

 それは、僕に逃げ道を残す為だったんじゃないだろうか、とさえ思ってしまう僕がいた。

 あれだけ酷い目に合わされても、どこか彼を憎みきれずにいた。

 わからない。

 ルイスは僕をどうしたかったのか、今でも僕にはわからない。


「そもそもお金持ちの愛人なのに、どうしてスシバーなんかでアルバイトしてたんだろう?」

 ジェラルドが不機嫌そうに呟き、僕は思わずぎくりとした。

 まさか僕を追いかけてきたようだとも言えず、そうだね、としか僕は言えなかった。


 性格は抜きにしても、頭がよくて可愛らしい子だった。

 望めば、日の当たる世界で存分に羽ばたける可能性を秘めていたはずだった。

 なのに彼は、どうして薄暗い道を選んでしまったのだろう。

 初めから選択肢などないとばかりに、彼は幸せから遠ざかる道を進んでいった。



 この話には後日談がある。

 数ヶ月後、国境の向こう側でルイスが死んだと聞いた。 

 ホセが真面目な顔で、数日遅れのメキシコの新聞を見せてくれた。


 よくあるマフィア同士の報復だ、とジェラルドとホセがそれぞれに解説してくれた。

「あいつは運び屋もやってたんだよ。何か揉めたんだろうな」

 僕は今更、ルイスが何をしていようと驚かなかったが、ジェラルドの一言に痛むはずのない胸が、ぎゅっと締め付けられる。

 ルイスの顔写真を見つめ、ジェラルドは「あいつ、本当はまだ十七歳だったんだな」とぽつりと言った。





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