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20、君が、いい

 極力、女の子とはトラブルにならないように気をつけていたつもりだった。

 それが、水泡に帰すとはこのことだろうか。

 どうしてルイスが、かろうじて僕の記憶の片隅にしかいなかったはずの「男の子」が突如、僕の悩みの種となったのか僕自身、もはやお手上げ状態だった。


 今で言うならば、ストーカーの部類に入るのかもしれない。

 僕の勤め先に現われ、ことごとくつきまとうルイスに、僕は辟易してきたのだけれど事情が事情だけに、誰にも愚痴ることも相談することもできず、日々逃げ惑い、消化するだけで精一杯だった。


 妙に口数の少ない僕を、ジェラルドは「疲れてる?」と気遣わしげに問う。

 そうじゃない、そうじゃないんだ。

 本来なら、ジェラルドに向けるべき熱意と体力を、いかにルイスをかわすかで消費し続けている間抜けな僕は、何の打開策も見出せぬまま、世間は秋になった。

 12月には、何よりも待ち望んだ、卒業を迎えるはずなのだが。

 このままでは卒業どころか、僕は壊れてしまうような気がする。

 原因は、ルイスだ。

 言い換えれば僕は拒絶することのできない、蛇に睨まれた蛙のような、蛇に食われる一歩手前で、弄ぶように愛撫され続ける哀れな蛙といったところだろうか。


 当然、卒業制作のアルバム作りでさえいまいち身が入らず、僕はいまだに録音を繰り返し続けていた。

 何度弾き直したところで、僕の満足のいく演奏には到底及ばなかった。

 マスタリングまで日が無い、と焦る僕に「何か酷いこと言ったかな」とカービィは困ったように首を傾げ、「勢いのある曲でいけ。若いうちは、それで許されるから」と不思議な励ましを僕に送ってくれた。



***



 その日僕は、相変わらずむせ返るような暑い空気を身に纏い、まだまだ気温の下がらないD市で、秋の半ばを迎えていた。

「そろそろナオキに任せてもいい頃だと思うんだよね。見てたからわかるでしょ」

 と僕に言い残すと、ファイナル・ステーションの専属DJが日付の変わる頃に帰宅し、ブースに残された僕は一人、緊張しながらも棚のヴァイナル・レコードをざっと眺め回していた。 

 初DJであった。

 何があっても音だけは途切れさせてはいけない、と僕は余裕など一切持ち合わせることなく、レコードを交換する作業に必死だった。

 

 二重のガラスの扉が開け閉めされるのを、僕はヘッドフォン越しに聞いていた。

 なにげなく顔を上げた僕の瞳に映るのは、爛々とした瞳で僕を見つめる、ルイスに他ならなかった。

「なかなか、二人きりになれなかったけど、やっと二人になれたね」


 突然ルイスのぽってりとした唇で僕の口を塞がれ、僕は呼吸を整えるのがやっとだった。

「どうして無視するの、ジェラルドみたく、僕にも話をしてよ」

 男の子にしては妖艶な微笑みを浮かべ、そのくせルイスはその顔には似合わない力で、僕を蟻地獄に引き込むように床へと押し倒した。

 

 誰か助けて、ともがく僕の上で、ルイスがにんまりと笑った。

 再び口を塞がれ、僕はうめきながら、とっさにテーブルの摘まみに手を伸ばす。

「ああ、そうだったね。音楽切らしたら、いけないよね」

 這い上がり、慌ててレコードを取り替える僕の隙を狙うかのように、突然ルイスがベルトに手をかけ、僕は思わず「NO!」と叫ぶ。

「ほら、続けてよ、音が切れたら、駄目でしょ」

 こいつが本当に鼻持ちならない、気に入らない男だったとしたら、ありったけの力を込めて叩きのめしたかもしれない。

 けれど、ひたすら懇願するかのような濡れた瞳を向け、僕に愛撫を続けるルイスに対して、僕はそんなふうにはなれなかった。

 ターンテーブルの前で悶えながら「You Bitch!」と叫ぶ僕を、ルイスはおかしそうに見上げていた。



 精も根も尽き果てたとはまさにこのこと、とうっすら白んでいく空を眺め、僕はパティオで煙草をふかしていた。

 客は誰もいない。

 従業員もほぼ帰宅しており、時計は五時を回ろうとしていた。


 帰らなきゃ、と乱暴に煙草を投げ捨て、階段を降りかける僕の目の前に、またもやルイスが現われる。

 僕は無言で、ルイスを押しのけるように突き進む。

「よかったんでしょ。ジェラルドはしてくれないけど、僕ならできるよ。いつだって、ナオキの為なら」

「やめろ」


「だってあいつ、彼女いるんでしょ。ストレートな人相手に、いつまでも報われない思いをしてるより、ずっといいじゃない。なんで僕じゃ駄目なの」

「そんなんじゃない。ジェラルドは、友達だ。それから、君もそうだ。だからこんなことは、やめて欲しい」

 嘘だね、とルイスは笑いながら僕の言葉を受け流す。


「自分が同性愛者だって認めるのが、そんなに恐いの。恐いことなんか、何もないのに」

「Shut up your fuckin' mouth!」

 僕は思わずルイスの胸ぐらを掴み上げ、その黒目がちな大きい瞳を睨み付けていた。

 けれど、ルイスは僕の剣幕に臆する事無く、相変わらず微笑みながら僕を見上げている。


「二度は言わない。俺につきまとうな。俺の生活を乱さないでくれ。俺が好きだって言うなら、俺の気持ちも尊重して欲しい」

 一気にまくしたてる僕を見つめ、ルイスはにっこりと微笑んだ。

「僕は、苦しそうなナオキを見てるのが、辛いだけなんだ。僕がジェラルドの代わりになれるなら、いくらでもそうするって言ってるだけなんだよ」

「ジェラルドと君は違う。同じものを求めてはいない」


「こんなに好きなのに、なんでだよ」

「一度聞きたかったんだけど、どうしてそこまで俺にこだわるの。俺のどこが、そんなに好きなんだよ」

 言ってはいけないと思いつつも、腹立ち紛れに僕は拒絶の言葉を投げつけていた。


「ナオキが優しかったから。アメリカに来て、嫌な事もいっぱいあったけど、見ず知らずのナオキが、僕にとっても優しいキスをしてくれたから、それだけで幸せになれた。もっと一緒に、幸せになりたいと思って、どうしていけないの」

 僕の胸の奥底で、ずきんとうずく何かがいた。

 ルイスと同じだ。


 僕だってほとんどが嫌な事だらけで、誰かに少し優しくされれば、それだけで単純に嬉しかった。

 そんなに肌に合わない国なら、とっとと帰ればいいものの、僕の居場所は生まれた国にさえないような気がしていた。

 僕は誰なんだろう、何人なんだろう。

 そんなことにこだわらなくても生きていけると気付いたのは、つい最近のことで、当時の僕はひたすら着地点を探し続けていた。

 だから、ルイスの言いたいことは、とてもよく分かるような気がした。

 けれど僕にとって、ルイスに対する共鳴はあったとしても、これだけアプローチされ続けていたにもかかわらず、恋愛感情は不思議と沸き起こらなかった。


「悪いけど俺は酔っ払っていたし、あの時は特に何も考えてなかった。期待させたのなら、ごめん」

 わずかに揺れ動く同情心を抑え、僕はいつものように、お決まりの言葉を言い放った。

 僕は誰かに、何度同じような台詞を言い続けているのだろう。

 男も女も関係なく、僕の存在が人を傷つけているのなら、僕はもう、誰とも関わってはいけないような気がした。

 けれどそれは自業自得とはいえ、ひどく寂しい気分になる。


「僕ならナオキを助けてあげられるって言ったじゃない。許可証とか関係なく、一生悩まずにここで暮らせるんだよ、僕に手伝わせてよ」

「俺は、自分の力で生きていきたいんだ。君の助けは、必要ない。不正なんかしなくても、俺に能力さえあれば、いくらでもここに居場所を作ることができるんだ」


「それで、いいの」

「俺は君達とは違う。日本人のコミュニティなんて無いも同然だし、君達みたいな抜け穴なんて一切持ち合わせてないんだ。それでも、成功する日本人はいるんだよ」


「アメリカ人は、僕らのことを同等になんか見てくれない。日本人だから特別だとでも思ってた?そんなことないよ、あいつらから見たら、僕達メキシカンもエイジアンも、所詮色つきの下等な生き物なんだよ。そんな奴ら相手に、当たり前に立ち向かえるはずなんてないんだ。僕はそれを、汚いなんて思わない」

 そんなことない、と僕は激しく頭を振った。

「認めてくれる人はいる。その人の数を、増やせばいいだけだ。簡単じゃないけど、俺はそうしたい」


「後悔しても、知らないよ」

 突然、ルイスの声のトーンが変わったような気がした。

「僕がこんなに君の為に説得してるのに、拒絶して、馬鹿だね。僕には理解できない、断る理由が、わからない」

「それは俺が、日本人だからだ」

「愚直、っていうんだっけ。それって昔の、サムライ映画の中だけだと思ってたけど、本当だったんだ」


 馬鹿にされているのか、感心されているのか、以前とはがらりと変わったルイスの感情を消しさったような顔に、僕は一瞬うろたえてしまった。

 いつも笑っているルイスが、僕を睨み付けるでもなく、人形のような空虚な眼差しで僕を見つめ返していた。 


 この子は危険だ。

 僕が思うよりずうっと、頭が切れるのだとようやく気付いた時には、すっかり手遅れだった。

 じゃああの時、僕はルイスを受け入れていればよかったのだろうか。

 それだけは、今でも僕の中で答えを見出せずにいる。

 ルイスを選んだとしたら、僕の人生は果たしてどうなっていたのだろう、と想像する時も何度かあった。

 それも案外悪くない、楽しい人生だったのかもしれない。

 底抜けに陽気なメキシカンの人々の思考回路に時々苛立つ時もあったけど、僕は嫌いではなかった。


 だけど、何人とか関係なく、僕はジェラルドそのものが愛おしかった。

 時たま酔って甘えたように、僕の肩に寄りかかるジェラルドの姿に、欲情していた。

 あの頃の愚直な僕は、ひたすらジェラルドのことしか考えていなかった。

 何も語らないけれど、どうして君はいつも寂しそうだったのだろう。

 何が君をそれほどまでに怒らせていたのか、と不安になるほど、君はいつも不機嫌そうな顔をしていた。

 

 今でも思う。

 僕が女だったのなら、もしくは君が女だったのなら、互いに何かを与えることができたのだろうか。




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