2、敵意と、懐柔
アルバイト先のスシバー『ミドリ』は、自分のアパートメントから車で十分程の距離にあり、週に二、三日通うことになった。
オーナーは現地に住む日本人の夫妻で、テーブルが五席と、カウンターは十二、三人も座れば満席になるような、比較的小規模の店だった。
オーナーであるヒロさんとユウコさんは、二人でつけ場に立って、スシを握っていた。日本では見かけたことがないけれど、アメリカでは、女性のスシ職人も数多くいる。
初日にキッチンで、ユウコさんが僕を他のスタッフに紹介してくれた。
アメリカの日本食店では、スシ以外にも、いわゆるテリヤキチキンやらテンプラ定食などの人気メニューを提供するのは一般的である。
キッチンシェフのほとんどは、メキシコ人だった。ホールスタッフは、ベトナム人二世のメイ、そして同じく二世のジェラルドの二人だった。
二人とも日本に来れば、余裕で芸能人として通用しそうな美貌を持っていた。
メイのショートカットに赤茶色の髪が、きりっとした彼女の目元を際立たせていた。口元も上品で、お人形みたいだ、と僕はメイに見とれていた。
日本にはメイに似た女優さんもいるし、いや、むしろ女優さんがメイに似ているのか、僕は正直、こんな綺麗なアジア系の子は初めて見たような気がした。
そしてジェラルドも、僕が知るベトナム系の人々の中では背も高くて、一七六ある僕とさほど背丈は変わらなかったが、もちっとした白い肌と切れ長の目は、本当に美しかった。真っ直ぐな黒髪は艶やかで、女の子みたいに綺麗な天使の輪が出来ていた。
どちらかというと、小麦色の肌に小柄な人々が多いと思っていたのだが、ベトナムは昔フランスの植民地だったと聞くし、もしかしたらフランス人の血も流れているのだろうか、と僕は感心してジェラルドを観察していた。
メイはとてもフレンドリーな子で、僕に笑顔でいろいろ教えてくれた。
二十歳になったばかりだと言っていた。
頭の回転も早く、笑みを絶やさずくるくると動き回る姿は、可愛らしかった。
一方でジェラルドは、僕にほとんど話しかけてこなかった。
むっつりした顔で始終ホールを歩き回り、あまりお客にさえも微笑む事は少なかった。
あの美貌で客に愛想を振りまけば、さぞチップも弾んでもらえるだろうに、と僕は残念に思った。
会話がある時は大抵、僕がミスをした時だった。
レジ閉めで売上計算を間違える事が二、三度あり、「また間違えてる」と、不機嫌そうに僕を睨み付けてきた。
「もう少し気をつけて。馬鹿じゃなきゃ出来るでしょ」
僕は素直に、ごめんなさいと謝るしかなかった。
「ナオキが増えたから、自分の売上が減ると思って気に食わないのよ。でも気にしない方がいいわ。悪い人じゃないけど、ああいう所はよくないわよね」
メイが僕を気遣い、二人きりになった時にジェラルドの悪口を言っていた。
アメリカのレストランでは、テーブルは受け持ち制になっていて、最初から最後まで、基本は同じウェイターが接客してチップをもらうのが一般的だ。
今まで二人だったのが三人に増えてしまっては、当然分け前は減る。
気にしてないから大丈夫、と僕はメイに言った。
***
新しいカレッジに通いつつ、アルバイトに精を出し、毎日忙しかったけれども楽しい毎日だった。
仕事が終わると、メイと一緒にクラブに繰り出す日も次第に多くなった。
メイは踊りがうまくて、僕はまた、こんなに踊りの上手な子は見かけたことがなかったので、ますますメイとは仲良くなった。
不思議と、メイに対して恋愛感情は生まれなかった。
いつだか同じベトナム人で、ハイスクールの同級生だという彼氏を紹介されて、なんだか一気に気分が萎えた記憶がある。
あれだけ美しいメイの彼氏が、どこにでもいそうな平凡なタイプの冴えない男だったからだろうか。
もったいない、と僕は思ったが、同時にメイの恋愛対象は僕のようにめんどくさそうな人間でもないだろう、となんとなくわかったからかもしれない。
その日も店が終わった後に、僕達はクラブに遊びに行こう、と話していた。
「Do you wanna night clubby?」
とメイは嬉しそうに、レジ閉めをしながら僕に話しかけてくる。
その日はメイの彼氏の誕生日で、仲間が集まってお祝いする予定だと聞かされていた。一緒に行こう、とメイがいつものように誘ってくれた。
毎週飽きずによく遊べるものだな、と僕は思いながらも、その目的のクラブ『レッドマーズ』が家から五分ということもあり、「yah. I'd love to」と答えておいた。
おそらく、まだ未成年のメイが中でお酒を買うには、二十二歳の僕を同伴する必要があるからなのかもしれない。僕の住むD市では、二十一歳にならないと、お酒もタバコも買えなかった。
日本人は他の民族に比べて童顔と言われているが、僕も例にもれず、せいぜい十六歳くらいにしか見てもらえなかった。ようやく最近、エントランスで顔を覚えてもらえたようで、行く度に「あんたの干支は何」と聞かれることも無くなった。
僕達の会話を聞いていたジェラルドが、ぼそりと呟いた。
「僕、まだ一度もレッドマーズに行った事ないんだよね」
あんたもたまには来なさいよ、とメイがジェラルドを誘う。そう言えば、二人は同じハイスクール出身だと言っていた。
スシバー『ミドリ』から十分ほど北に上がったところに、アジア人が数多く住む地域があった。ちなみに僕がいるエリアは、『ミドリ』から十分ほど南に下った、ブラックやメキシカンの多い地域である。
「俺のうちから五分なんだよ。よかったら、君もおいでよ」
と僕は少し緊張しながらジェラルドに話しかけた。
「あんな所に住んでるの」
とジェラルドは驚いたようだったが、しばらくして「着替えて、行くよ」と言った。
レッドマーズの入り口に行くと、七、八人のベトナム人に混じり、ジェラルドも来ていた。
五月は、南部では真夏だ。なにしろ、三月には道端で藤の花が咲いているところだ。
なのに、なぜかジェラルドは真っ黒なスーツを着込んでいた。
「何故スーツ?」
と、Tシャツにジーンズ姿の僕は恐る恐る聞いてみた。
「大人っぽく見えるから」
と、憮然とした顔で言うジェラルドは、少し緊張しているように見えた。
彼が生真面目な性格なのは、僕もわかっていた。
「そんな格好じゃ暑いわよ」
と、キャミソール一枚のメイも呆れたように言う。
「踊らないから、別にいいんだ」
と、ジェラルドは怒ったように言った。
中に入ると、僕達はソファに座り、酒を飲みながら、しばらく雑談をしていた。ベトナム人ばかりだったが、生まれた時からアメリカに住んでいるからか、英語でしか彼等は会話しなかった。
僕に気を遣っているというふうでもなかったが、僕は素朴に嬉しかった。
「もういいでしょう。ナオキ、踊りに行こうよ」
と、メイが待ちくたびれたように言う。
皆がばらばらと立ち上がる中、ジェラルドだけはソファの上でむっつりとしたままだった。
「ジェラルド、行かないの」
と僕が聞くと、ジェラルドは「僕はいい」と言い、酒を飲み続けていた。
そんな彼の態度が慣れっこになっているのか、他の友人達はジェラルドだけを残し、僕らはフロアに出て踊る事にした。
勢いよくメイが踊りだし、自然と僕らの周りには空間が生まれた。
僕らは笑いながら、時には茶目っ気たっぷりに絡み合うように踊るが、メイの彼氏は別段気にする様子もなく、楽しそうにしていた。
子どもの頃からダンスを習っていた僕は、メイのように上手い子と踊るのは単純に楽しかった。
ほどよく踊ってから、僕は一人で、ジェラルドのところに戻ってみた。
彼は、少し酔っているようだった。仕事中とは違い、幾分顔つきも穏やかなように感じる。
ジェラルドと二人でいても、以前のような緊張感は感じなかった。
「踊り、上手いんだね。働いてる時とは別人に見える」
ジェラルドの言うところの意味はわからなかったが、褒めてもらったのかな、と僕は思い、「ありがとう」と言っておいた。
「そういえば、ナオキっていくつなの」
と、初めて個人的な会話をしてくれた。
二十二、と答えると、「年上?」と何故か驚いていた。そんなに頼りなさそうに見えるんだろうか、と僕はちょっとショックを受けたが、そこからジェラルドの態度が変わったように見えた。
なんというか、素直に年上に対して敬意を払ってもらえるようになったようだった。たった一つしか年も変わらないのに、妙なところでアメリカ人にしては珍しく、ジェラルドは律儀なようだ。
結局、ジェラルドはその日、一度も踊らずにいた。
酔って赤らんだ顔で「楽しかった」と言うジェラルドは、相変わらず怒ったような顔をしていたが。




