16、オーディション
あれからカービィは僕のピアノを聞くたび、何か一言残していくようになった。
むしろ、前よりいっそう手厳しくなったように感じた。
しまいには、「何を聞いても、全部同じ曲に聞こえるな」とまで言われてしまい、僕は恨みがましい目で、立ち去るカービィの背中を見送った。
このままでは恐怖心でピアノに触れなくなってしまう、と僕はそ知らぬ顔をして、やたらめったら明るい曲しか弾かなくなった。
そんな僕を見てカービィは、にやあ、と笑っている。
「もういやだ。何がいけないのか、さっぱりわからない」
僕達は、植え込みの側にある喫煙所のベンチに並び、休憩時間を消化していた。
「思い切って、カービィにカミングアウトしたら。『僕はゲイで、今の状況が辛くてたまらないです』って言えば同情してくれると思うの」
しないよ、と僕は面白がっているモニカに荒々しく答えた。
「それに、君は勘違いしてる。俺は、ゲイじゃない」
「でも好きな人は男なんでしょう」
「違う。断じて違う。俺はただ、ジェラルドの彼女が気に食わないだけだ。全然可愛くないし、愛想もないし、どこがいいのか全くわからない」
「自分に嘘をついているから、そんなに苦しそうなのよ。自分を解放してあげるべきよ。そうしたら、憑き物が取れたみたいに、才能が一気に開花するかも」
愛らしい外見とは裏腹に、妙にすれたポーズで、モニカは煙草の火をもみ消した。
「確かに、ナオキにはそれが足りないな。折角自由の国にいるんだから、好きなようにやればいいのに。この国で、どうして自分を押し殺す必要がある?」
僕はぎょっとして、いつの間にか僕達の側で、ジャケットの中をごそごそと探しているブライアンに気付く。
「いつから、そこにいたの」
「さっき」
さっきとは、どの辺りからを差すのだろうか、と僕はさあっと血の気が引いていくのを感じながら、飄々と煙草に火をつけるブライアンを見つめていた。
問いただすのも、怖い。
のんびりとした口調のブライアンは、キリンかアルパカを連想させるような、ふわんとした雰囲気に包まれていた。
僕はブライアンが、怒ったり、感情をむき出しにするところを見たことがなかった。
いつもにこにことして、当時まだ高校生気分の抜けない若い子達を見守っている、お父さん的なポジションにいた、と思う。といっても、彼もまだ二十四くらいだった。
あちらの人が二十を過ぎると、いきなりぐっと老け込んで落ち着いてしまうのは、不思議だ。
「解放だよ。だいたい、ナオキはあれこれと制約をつけ過ぎてるからなあ。こうしなきゃいけないとか、すごく多いだろ。なんで?」
「目に見える形で、結果が欲しいんだ。何でもいい。少しでも早く」
「だからそんなにストイックなの?」
そんなふうに見えているのか、と僕は少し嬉しい気分になるが、ぜーんぜん、とモニカが横から口を出す。
「ナオキは結構なろくでなしだから、さすがに今は気を引き締めて学生生活を送ってるだけよ。そうでないと、どこまでも調子にのって羽ばたいていくのよ。ねー?」
僕のかつての乱れた生活を熟知しているせいか、モニカの評価は辛口であった。
へー、とブライアンは呟き、「そういう時もあるよね、若いと」と一つ年下の僕に言った。
突然、ガラスの回転ドアから転げるようにティムがあらわれ、僕に「カービィが呼んでる」と言った。
最近は、カービィと会話をするのも億劫だったが、どうやら急ぎの用らしい。
わざわざ呼び出してまで、ピアノの話も無いだろうと思い、僕は「また何か修理するのかな」とティムに尋ねた。
「違う。君だけ奨学金のオーディションの申し込みをしてないから、早く来いって。もうすぐしめ切りだよ」
「やだ、どうして申し込みしてないの。お金無いって言ってるわりには、欲がないのね」
モニカが二本目の煙草を吸いながら、驚いて僕を見上げた。
「だってみんな受けるんでしょ、誰が貰ってもおかしくないし、貰える保証もない」
いいから早く行きなよ、とブライアン達に促され、渋々僕はカービィのオフィスに向かった。
カービィは狭い個室で壊れたケーブルの修理をしていた。
顔を上げて、僕に手元にあったオーディションの申し込み書を示し、署名をするようにと言った。
「申し訳ないんですけど、たった三単位分くらいにしかならない金額で、しかも狭き門をくぐるとなったら、俺はそんな労力、無駄にしたくない」
ここしばらくの精神的な戦いのせいか、彼に対する僕の口調は刺々しかった。
「やってみなきゃ、わからないだろう」
カービィはにやりとしながら、鉛筆で薄く囲んだ部分を指し示し、早く書いて、と言った。
僕はぶつくさ言いながら署名を済ませ、逃げるように出口に向かう。
そして控えに書かれたエントリーの曲が、既にカービィの手によって書き込まれていることに気付く。
All the thing you areだった。
またしても、と僕はカービィの嫌がらせにも等しい選曲に苛立ち、思わず個室に駆け足で戻る。
彼の姿は何処にも無く、僕が途方に暮れていると、二階から降りてきたロジャーに出くわした。
「出る気になったのかな」
まるで007のような、感情を表にあらわさないロジャーには、誰もが身構える。
もちろん僕もその一人だったが、ロジャーの吹くクラリネットやフルートは、007には似つかわしくないような、甘く優しい旋律を奏でた。
「どうしてこの曲なのかな。今の俺に、これが弾けるわけないのに。できれば他の曲にしたいんだけど」
「いいことを教えてあげようか。審査員のミス・ローナを落とすんだ」
ミス・ローナって、学生課のマネージャーですよね、と僕が言い、ロジャーはこくりとうなずいた。
言い方までもが諜報員っぽいな、と僕は思いながら、四十代前半のミス・ローナの姿を思い浮かべた。
「今の彼女は、ロマンティックな押しに弱い可能性はあるね。めいっぱい、泣きの演奏を聞かせてあげればいい。カービィは良しとしないかもしれないけど」
謎を残して、ロジャーはさっさと何処かへ姿を消してしまった。
その日、僕はもやもやしながら、久しぶりにテツヤさんとイタリアン・レストランで食事をしていた。
たいして美味しくもないミートボール・スパゲティを食べながら、甘いカプチーノを飲む。
「忙しそうでいいじゃん。あの事件から立ち直ったみたいだし。変なところで自分を責めるからな。俺は外道だって開き直ればいいんだよ。合わなかったから捨てた、でいいじゃん」
人聞きの悪いことを言う、と僕は慌てて首を振りながら否定した。
「じゃあさ、その子がものすごい好みで、しかも相性抜群だったら、捨てないでキープしてたろ」
うん、と僕が即答すると、「やっぱりそうじゃん」とテツヤさんは言った。
「落ち込んでたのだって、自分がかわいそうだからで、相手がかわいそうだからじゃないじゃん」
もっと酷いことを言われている、と僕は憮然としたが、実際、テツヤさんの言うとおりだ。
「水商売全員がそうだってわけじゃないけど、どこか、人の真剣な気持ちに寄り添えないんだよな。仕事がら、打算で人間関係作る人種だし」
否定のしようもない。いまだにそれを引きずっているつもりは毛頭なかったが、彼には今の僕が、そう見えているのだろうか。
「ただ、お前はもう、そうじゃないんだから。自分を守る方法は、他にもいっぱいあるんだよ。世の中の人間全員が、お前らみたいな考えだったら、寂しすぎね?」
「千沙もどこかしら、そういう打算的な部分があるからなあ。ああいう所には、長くいるもんじゃねえよ。まともな人間になりたかったら、尚更」
そういうテツヤさんだって、ホストだったじゃないか、と僕は言葉を飲み込み、「そうですね」としょんぼり言った。
「俺もたまに思うんだ。さんざんやりたい放題しておいて、いざ本当に誰かを好きになった時に、天罰が下るんじゃないかって。いつかしっぺ返しをくらうんじゃないかって、俺は時々思うよ」
もうくらったかもしれない、と僕はジェラルドの顔を思い浮かべ、一方で何故か暗くなるテツヤさんを黙って眺めていた。
一時の大金と引き換えに、何かを失くしてしまったと、僕も時々思う。
けれど千沙さんやテツヤさんも僕も、信念を持ってやっていたわけだし、恥じる必要はないのだ。
でも、何かあるたび、いちいち大げさに傷つき、身構えてしまうのは、僕が根本的に誰も信用していないからなのだろうか。
過去とは関係ない、と自分に言い聞かせつつも、そうなってしまった自分自身の選択に、後ろめたさや後悔が全くないわけではない。
僕はいつから、ろくでなしになったんだろう、とモニカやテツヤさんの言葉を思い出しながら、僕はビルの間を縫うように、夜のフリーウェイを走っていった。
***
一番最初とは、どういうことだろう、と僕はげんなりしながら、オーディション会場の扉を押した。
圧倒的に不利、と誰もが思うトップバッターを担い、僕は諦めてピアノの前に座る。
グランドピアノの蓋が開いていない、マイクの位置も変えねば、と僕はスタインウェイから一度離れて立ち上がり、中央の機材の前で腕組みしているクレイを手招きした。
「ついでに歌うんだろ。マイクは、それを使って」
審査員席のカービィが短く言い、クレイがそれを受けて僕を再び座らせ、勝手にマイクの位置を修正する。
なんでそこまで決めるんだよ、と僕はものすごい顔でカービィを睨みつけ、教授はにこにことして僕に微笑み返した。
さっさと終わらせて帰ろう、と観念した僕は数秒間目を閉じ、人々の視線を背中でシャットアウトする。
これが今の僕だ。
優しくなんてなれない。
自分が大事で、何が悪い。
悲しい、辛いと言いたいときだって、ある。
いつの日か 君をこの腕に抱き 幸せに満ち溢れ…
歌いながらも僕は、そんな日は、僕のような欠陥人間には、きっと来ない、と心の中で呟いた。
審査員席に向かって頭を下げ、おずおずと頭を上げた途端、僕はミス・ローナの顔にぎょっとした。
濃い化粧が涙と共に流れ、目の下が黒い筋となり、ピエロのメイクのようになっている。
ハンカチで目頭を押さえながら、ミス・ローナが震え声で「ブラボー」と言った。
まさか、本当にロジャーの言ったことが成功したのだろうか。
何がなんだかわからない、と僕はうろたえながら、ミス・ローナと握手を交わし、彼女は涙を拭きながら「最高だったわ」と言った。
***
オーディションから数週間が経ち、今度は僕らは、期末試験の準備に追われていた。
既にここでは、春の終わりと共に、早い夏が始まろうとしている。
一年で一番楽しみな、野生の藤の花がいたるところで咲き乱れていた。
帰宅途中の僕を呼びとめ、ロジャーが事務的な口調で「おめでとう」と言った。
「まだ非公式だけど、もう結果が出てるから。ミス・ローナは君しかいないと言っていたよ。よかったね」
「彼女にインパクトを与えられて何よりです。今回は順番に救われたのかな、一番なんて最悪だと思ってましたけど」
ロジャーはにこっとして僕と握手を交わし、でもどうして、と尋ねる僕に片目をつぶった。
「最近、婚約者と別れたばかりだと落ち込んでいたんだ。君の演奏に心を持っていかれたのかもしれない。悪いことばかりじゃ、ないだろう。人によって、評価の仕方は違う。ミス・ローナは、君の演奏が素晴らしいと思ったんだから、誇りに思わないと」
「でもカービィはきっと、まだ」
「そうだね、でもカービィだって、それを見越して、君をオーディションに参加させたのかもしれないよ。ミス・ローナの悲劇が、君にとってのチャンスに思えたんじゃないのかな」
おめでとう、とロジャーはもう一度言い、ご機嫌な足取りで自分のオフィスに戻っていった。
そうなのだろうか。
カービィの真意は、僕にはわかりかねたが、お礼を言うべきかもしれない、とスタジオのカービィを訪ねた。
「どうです、合格点は貰えますか?」
いつもより晴れやかな気持ちで、僕はカービィに話しかけることができた。
「まだまだだな。Cはあげるよ、とりあえず」
カービィは白い顎髭を撫でながら、すました顔で僕に笑いかけた。




