99.負債と婚約破棄と進む道
住み慣れたアパルトマンに戻り、荷解きは通いのメイドに任せてカルナバルで買い求めた中で一番気に入ったデイドレスを身に着け、丁寧に化粧をして辻馬車を頼み東区にあるヘンダーソン商会に向かったメリッサは、いつもと違う雰囲気に戸惑うことになった。
表通りに面した扉は閉ざされていて、鍵が掛けられている。たくさんいたはずの商会員や出入りの業者の姿も見当たらず、窓はカーテンが閉められていて、人の気配もしない。
思わず通りを振り返ってみたけれど、相変わらずこの辺りは人が多くごみごみとしていて、にぎやかだ。ヘンダーソン商会以外は普段と変わらない王都の東区の光景が広がっている。
今日はお休みなのだろうかと思ったけれど、平日の日中に休みはなかったはずだ。建物の裏手に回ればあれだけ嫌だった作業用の倉庫があり、そちらの鍵は開いていた。
中に入ると、こちらも人がおらず、がらんとしている。あれだけ積み上がっていた樽も木箱もきれいさっぱり無くなっていて、中央の作業台だけがぽつんと残されていた。
その変化に緊張で、手が冷たくなってくる。事務所に続くドアに手を掛けると、こちらもあっけなく開いた。
アルバートの執務室に向かい、少し迷ってノックをすると、彼の声で「どうぞ」と返事が返って来て、それに無性に、ほっとした。
「アルバートさん、ただいま帰りまし、た」
「ああ――メリッサ」
アルバートは顔を上げると、にこりと笑みを向けてくれる。けれどその目の下は濃いクマが浮いていて、頬も前回会った時から肉が落ち、げっそりと痩せている。
「どうしたんですか、アルバートさん!」
慌てて駆け寄ったものの、それ以上なんと声を掛けていいか分からない。
健康ではない様子なのは間違いない。まさか病気なのだろうか。それで、商会を閉めていたのか。
恰幅のよかった父が亡くなる前に、ひどく痩せていたのを思い出して嫌な予感に青ざめていると、アルバートは大丈夫です、と穏やかに告げる。
「実は先週、父が亡くなりました。弔いや商会の後始末で、忙しくしていました」
「お父様が……そんな」
アルバートは母親も早くに亡くしているはずだ。
父親はずっと寝付いていて、ヘンダーソン商会はもう長いこと実質アルバートが商会長として切り盛りしていると聞いていたけれど、それでも実の父を亡くす痛みに変わりがあるわけもない。
大変な時に傍にいられなかった申し訳なさに、ほろりと涙がこぼれる。
「お悔やみを申し上げます。あの、アルバートさん。私が、傍にいますから」
「いえ、それには及びません」
自分の経験から、こんな時は一人でいたくないものだと思っていたけれど、アルバートはあっさりと言った。
「ここを完全に閉める前に、あなたが戻ってきてくれてよかった。メリッサ、婚約破棄の手続きと、慰謝料の支払いについて相談しましょう」
それは、メリッサが思いもよらない言葉で。
アルバートが何を言っているのか、しばらく飲み込むことができなかった。
* * *
応接室に場所を移すと、アルバートは手ずからお茶を淹れてくれた。
彼がお茶を淹れてくれたのは、これが初めてだ。いつもは商会員の誰かしらが淹れてくれていたし、アルバートもメリッサもそれが当たり前だった。
アルバートのお茶を淹れる手際は丁寧で、紅茶も香りが立っている。カップに口をつけるとちゃんと茶葉が開いていて、美味しい。少なくとも自分が淹れたものより上手だと思う。
「美味しいです」
「よかった。久しぶりに淹れましたが、こういうことは指が覚えているものですね」
いつも皺のないフロックコートを身に着けているけれど、今日はシャツの上にベストを着ているだけで、そのシャツも二の腕の辺りまで腕まくりしている。まるで労働者階級の男性のような出で立ちに慣れずに、ちらりと彼を見ては目を逸らす。
「あの……婚約破棄って、どうしてですか。私が、大変な時に傍にいられなかったからですか?」
「ああ、いえ。そういうことではないんです」
やつれた様子なのに、今日のアルバートは始終穏やかだった。それまでの張りつめたような緊張感は鳴りを潜め、ずっと少し困ったような微笑みを浮かべている。
「実は、不渡りを出してしまいまして。納品が間に合わなかったことで取引していた商会の信頼を損なってしまい、貸し剥がしが起きました。債務手続きはなんとか終わりましたし、倒産は免れましたが、これまでのような事業は難しくなりました。この建物も、すでに売りに出す手続きに入っています」
「そんな……」
「商会員には多少の退職金も持たせられましたし、少なくて申し訳ありませんが、あなたへの慰謝料は残してあります。こんなことになって、本当に――」
「あの、アルバートさんは、これからどうするんですか!?」
言葉を奪うように身を乗り出して尋ねると、アルバートはふっ、と苦笑する。
「私は商人としての生き方しか知りません。幸い裏の作業小屋は手元に残りましたので、そこで改めて自分の商売をやっていこうと思います。何をするかは、まあ、これから考えます」
「あの……それで、どうして、私との婚約は破棄になるんでしょうか」
父親を亡くしたことは気の毒だし、商会が上手くいかなかったことも同情するけれど、アルバート自身が不治の病というわけではないし、全財産を失ったというわけでもなさそうだ。
慰謝料など渡さずとも、それも新しい事業の元手にすればいいではないか。
そう首を傾げると、アルバートは伏し目がちに首を左右に振る。
「私は、あなたに苦労はさせないと言って婚約をしましたが、その約束は守れそうにありません。それに、こうなったのは自分の不誠実の結果です。その結果に、あなたを巻き込むことはできない」
そう言って、アルバートはぽつりぽつりと、ここに至るまでの経緯を話してくれた。
アルバートの父が手堅く大きくなっていた商会の財政を傾けてしまったこと。
母は、そんな父を諫め朝から晩まで働いて、ある日の朝起きてこないと様子を見に行ったら、ベッドの上で冷たくなっていたこと。
アルバートが成人して間もなく、父も倒れて寝たきりになってしまい、それから十年近く、商会長代理として働き続けてきたこと。
父親の代で一度商会が凋落した時、近くにいた女性たちはみな、波が引くようにいなくなっていたこと。
メリッサの前にも付与術師と婚約していたけれど、その婚約者に不義理を働いてしまったことも。
「私は、祖父の時代に戻りたかった。周りに尊重され、一目置かれ、ヘンダーソン商会ならば大丈夫だと信頼されていたあの頃に。その気持ちが強すぎたんでしょうね。いつの間にか大切なものが、何も見えなくなってしまっていました」
「その、前の婚約者というのは……」
「今は王都で仕事をしているそうです。私が王都に放り出す形になって身を持ち崩してしまったのかと思ったのですが、自分の才能を活かして活躍しているようで」
その言葉にほっとして、メリッサは表情を曇らせる。
「アルバートさんが、そんなことをするとは、思えないんですが、なにかの間違いではないんですか?」
確かにアルバートは、婚約した早々右も左も分からない自分を倉庫に残して立ち去ったり、ろくにデートもしてくれなかったりと細やかな無粋が目立つ人ではあるけれど、暗くなるまで仕事をさせることはなかったし、夕方になれば必ずロバートか商会員にアパルトマンまで送らせていた。
女性を一人放り出すなんて、彼の流儀とは違う気がする。
「何を言っても、言い訳にしかなりません。結果は一人で王都まできた寄る辺のない女性を無責任に放り出した不誠実な男が私です。その分の慰謝料も支払うことになりましたが、幸い今は王都の土地は高く売れるので、商会の店舗の売却でなんとかなりました」
「……もう、決めたんですね」
拗ねるように言ったのに、アルバートはそれまで見せなかった、眉尻を落とし困ったような笑みを浮かべるばかりだ。
「はい。周りからみればひどい有様なのでしょうけれど、肩の荷が下りた気もするんです。もう失うものはなにもないことですし、自分の力だけでやっていこうと思います」
「分かりました。……慰謝料は、結構です。どちらが悪いという感じでもないですし」
「ですが、婚約のためにあなたは仕事を手放したわけですし」
「私、別にお金に困ってはいないんです。付与術師は仕事に困りませんし、また宮廷付与術師に戻れるとも思います。しばらくはのんびりして、その後のことは、心が動いたら決めます」
つん、とそっぽを向くと、アルバートは参ったな、と小さく呟いた。
「私、帰りますね」
「あ、辻馬車を」
「まだ昼間ですし、それくらい、自分でできます」
アルバートは一人で最後の片づけをしていたのだろう。
それくらい忙しく、自分に構っている時間はないはずだ。
「お茶、ごちそうさまでした。――アルバートさん、お元気で」
「はい、メリッサ……ガーバウンド嬢も」
その呼び方に呼吸が震えて、唇をぎゅっと引き締めて、お辞儀をして、そのまま商会を出た。
メリッサが通りを歩けば、自然と人が振り返る。艶のある長い灰色の髪、母譲りの白い肌と人目を惹く目鼻立ちを持つメリッサには、そんなのは日常の当たり前のことだった。
今日は、一番気に入ったドレスを着てきたのだ。靴だって下ろしたてだし、お化粧だって気合を入れた。
でもアルバートは、きっと、そんなことこれっぽっちも気づいていない。
まるで重たい荷物を下ろしてやっと素顔になれたような顔をして、慰謝料の分は残してあるからなんてあっさりと言えてしまうのだ。
「……っ」
――泣かない。
泣く理由がない。だって私は、自分の好きにするのだ。
欲しいものはちゃんと欲しがるし、手に入れる。
漠然と、美しい母のように生きたいと思っていた。
けれどどうやら、母がそう判断したように、自分にはその資質は欠けていたようだ。
水仕事をさせない人でも、信望して大切に扱ってくれる人でもない人を、欲しくなってしまった。
初めて自分を動かす情動を持て余しながら、辻馬車の駅を通り過ぎ、メリッサは歩き続ける。
それは初めて、自分で決めた道のような、そんな気がした。




