97.愛と花とチョコレート
「あなたに水仕事をさせない男性を選びなさい」
メリッサの母、クラリッサは娘の目から見ても息を呑むように美しい女性だった。
彼女が主役を張れば王都最大の劇場はチケットが取れない満席状態が当たり前で、その美貌と演技力、歌唱力は高位貴族に絶大な人気を誇り、多くの浮名を流したという。
他国の王族すら母を公妾にと望んだらしいが、そんな母が選んだのは裕福とはいえ男爵家の当主だった父で、与えられたのも王都の一等地とはいえアパルトマンの一室だった。
幼い頃はそのあたりの事情など考えたこともなく、二人とも多忙であまり傍にいてはもらえなかったものの、優しい父と美しい母の間で大事に育てられた。
そんな母に、メリッサがどうして父を選んだのかと聞いた時に、言われた言葉がそれだった。
水仕事は女の手を荒れさせる。本当に女を愛している男は、女に水仕事をさせたりしないものよ。美しい母は、優しい口調でそう続けた。
「メリッサ。あくせく働くのは、美しく生まれた女のすることではないの。美しく生まれなかった者が生きていくためにする仕事を奪ってはいけないわ。大切なのは、あなたがあなたの才能を活かすこと、それに誇りと喜びをもつこと、そして、あなたの誇りと喜びを支えることを喜びとする男を選ぶこと。だから私はあなたのお父様を選んだの」
妖艶に微笑みながらそう言われて、これほど美しい母が言うならそうなのだろうと、メリッサは納得した。
実際、父は母のすることに一切の意見も文句も言ったことはなかった。母がやりたいことを受け入れ、後押しし、賞賛した。
父の母への深い愛情と理解を見れば、母が選んだ道を疑う理由はなく、母は長年に亘り王都の歌姫と呼ばれ、今も昔も王都を代表する舞台女優である。
母から受け継いだ灰色のまっすぐな髪、琥珀色の瞳はメリッサの誇りであり、宝物でもある。子供の頃からよく母親似とも言われていた。
けれど、クラリッサのような舞台の上に立つ熱意も演技力も、メリッサには受け継がれなかった。
あなたの素直すぎるところはお父様に似たのね、と母にも苦笑交じりに言われるほどだ。歌だけは多少上手かったけれど、演技だけでなく板の下でも駆け引きが日常の女優になるのは性格的に難しいというのが、クラリッサの判断だった。
初等学校に通っている間に付与魔術の才能を認められ、高等学校に進み、父の伝手で複数の術式を買い与えられて卒業後は宮廷付与術師になったけれど、その頃父が亡くなり、母も活動の舞台を王都の外に変えたため、メリッサを取りまく環境は随分様変わりしてしまった。
両親は元々多忙な人たちだったので、一人で暮らすことには慣れていたけれど、自分で稼ぎ、自分で金銭の管理するような日常の細やかなことには慣れていない。母だってそんなことはしていなかった。
付与術師の仕事は単調で面白みがなく、淡々と過ぎていく日々は退屈だった。
夜会に出て軽やかに会話を楽しむことも、その存在を称賛されることもない。
宮廷付与術師の中では、突出した存在でもない。
父がいた頃は、ただそこにいるだけでメリッサはお姫様だった。
可愛い、母によく似て美しくなった、特別な存在だと褒めてくれた父はもういない。
高等学校にいた頃も、宮廷にも声を掛けてくる男性は多かったけれど、貴族出身の彼らは恋人に、愛人にという話ばかりで、真剣にメリッサを想っているわけではないことが透けて見えた。
母にとっての父のような存在が欲しい。
愛し、慈しみ、傅いて望みを全て叶えてくれる、存在そのものを肯定してくれる、そんな人が。
父と懇意にしていた商会の主から、いい男性がいるがよければ会ってみないかという話をもらったのは、漠然とそんなことを考えていた頃だった。
商会の跡取りで、病気の父親に代わりすでに商会を率いているのだという。商会の規模は中堅だが手堅い仕事をしていて、今後ますます商会を大きくしていくだろうということだった。
「真面目な青年なんですが、仕事に夢中になっている間に二十代も半ばになってしまったそうで、そろそろ身を固めさせた方がいいと長い付き合いの連中も言っていましてね。どこかによいお嬢さんはいないかという話になったんですが、メリッサ嬢は申し分ないと思うのですが」
そう言われて、会うだけ会ってみようと思って紹介を受けたのが、アルバート・ヘンダーソンだった。
年は6つほど上だと聞いていたけれど、落ち着いたたたずまいで、メリッサを前にしても紳士的な態度を崩さなかった。
母に似た顔と、全体的には細身ですらりとしているのに女性的なところばかり肉付きがいい体形は、年頃になってからというもの不躾な視線を向けられることが多かったけれど、アルバートの目からは、ねとねとと脂が滴るようないやらしい感じはまるで感じなかった。
高等学校や宮廷で自分に話しかけてくる男性とはまるで違う、落ち着いていて、静かに話す。一緒に商会を盛り立てていきたい、あなたに僕は不相応かもしれないが、精いっぱい大事にして、不自由はさせないと言ってくれた。
付き合いの長い商会長から聞いたと、メリッサの好きな花とチョコレートを後日届けてくれたのも、嬉しかった。
二年間の王立図書館への出向が決まったことも重なって、家事手伝いの女性に活けてもらった花を眺めながら少しずつチョコレートを食べて、その間にもうすっかり、宮廷付与術師を辞してアルバートと婚約しようと決めていた。
父の遺してくれた財産があるので、仕事にしがみつく必要はなかった。宮廷付与術師になったのも、嫁入り先に箔がつくからそのほうがいいだろうという父の勧めだったので、未練もない。
あくせく働くのは、美しく生まれなかった者たちの生きるための術だ。
アルバートは自分を大事にすると言ってくれた。きっと水に触れさせたりもしないだろう。
母にそう教えられたとおり、自分を一番愛してくれる人のもとへ行こう。
そして、母のように美しく、優雅に生きるのだ。
灰色の長い髪を垂らし、整えた指先で可愛らしくデコレーションされたチョコレートを摘みながら、メリッサはそんな未来を信じて疑うことはしなかった。




