89.疲労と思惑と修正
「そうですか、エレノア様がそんなことを……」
夕食を終え、アリアの自室を訪ねて今日エレノアに言われたことを伝えると、アリアはソファに深く腰掛けて、物憂げな表情だった。
「アリア、疲れていませんか?」
「少しだけ。明日はお休みですし、今夜ゆっくり眠れば大丈夫です」
にこりと笑ってそう言ったものの、やはり今夜のアリアはどこか疲労を滲ませている様子だった。
話は明日にしたほうがいいだろうかと思ったけれど、温かい紅茶を傾けると、アリアは真剣な表情でオーレリアを見つめた。
「オーレリア。私、オーレリアに、謝らなければいけません」
「どうかしたんですか?」
突然の言葉に驚くと、アリアは悔し気に、きゅっと唇を引き結んだ。
「今日のお茶会でも、かなり多くのご夫人からナプキンについて質問を受けました。中には断りきれない筋からの依頼もあって、高級ラインの増産をお願いすることになると思います」
「それなら、問題ありません。高級ラインはストックを切らさないようにしていますし、付与だけならすぐにできるので」
なんだそんなことかとほっとしたものの、アリアはゆるく、首を横に振る。
「女性しかいない場ではありましたが、花の時期に関係する製品で、あれだけの数の質問を受けたのは、相当強く影響が出ている証拠です。今だけの話ではなく、今後高級ラインの割合を相当増やすことになりますし、ナプキンの製造販売の計画そのものを考え直さなければならなくなると思います。――おそらく、かなり大きく」
こんなに早くナプキンが周知されるとは思っていなかったんです、とアリアは重たげに告げる。
「当初の予定は、今年の冬から来年の春にかけて冒険者を中心にじわじわと広がり、少しずつ一般にも需要が出てくるというものでした。私も貴族に働きかけ、同じ派閥の中から流行を広げていき、来年いっぱいくらいはその地ならしに、その間に縫製施設や付与術師の雇用、育成を進めて再来年から本格的な量産に入るというのが、ざっくりとした計画だったんですが」
その計画はもはや、ほぼ頓挫状態だとアリアの表情は暗いものだ。
「――私と、ウォーレンさんが婚約したからですね」
「それは一つの要因です。色々な要因が絡まった結果なので、それだけが理由じゃありません」
アリアはそう言ってくれるけれど、決定打になったのは間違いなく、時の人たるウォーレンのぽっと出の婚約者という知名度だろう。
婚約が調うまではエレノアも、できるだけ数が欲しいとは言っていたけれど、冒険者の枠を超えてまで高級ラインを卸してほしいとは言わなかった。
「オーレリア。ナプキンは、花の時期に関連するものという心理的なハンデがあります。一度使えばその良さは必ず理解されますが、逆に言うなら、最初に使ってみようというハードルがかなり高い製品です」
「はい」
こちらの世界では、花の時期や性に関わる問題は恥じらいが強く、慎み深い女性ほど厳重に隠すのが当たり前という空気がある。若ければ若いほどそうだ。
だからこそ、アリアも社交で話を振るメインにしているのは、結婚して子供もいる、ある程度年嵩の夫人だと聞いていた。
母親が使ってみて娘に勧めたり、それを見ていた高級使用人が自分も使ってみようかと興味を持つ。富裕層には、そうしてゆっくりと普及していくはずだった。
「グレミリオン卿が陞爵し侯爵になったことで、王党派、議会派の貴族はそれぞれ、関わりを持つかどうか選択を迫られている状態です」
王党派は、王族が政治と権力の中心であることを支持する派閥のことだ。
最近は特に領地経営や事業が上手く回っている経済力の高い貴族や、非常に富裕な庶民が中心の議会派に押され気味であるのだという。
なお、ウィンハルト家は代々議会派の派閥に所属しているそうだ。
「グレミリオン卿は王族籍から離脱して貴族になったという変わった経歴をお持ちの方です。王族籍を抜けた後は社交にも政治にも関わらず、貴族側も藪をつつかぬようにと、特に王妃殿下がご存命の頃は、グレミリオン家と積極的に関わろうとはしませんでした」
王族籍を抜けた後も王族を支持する立場ならば、王党派に。王家に何らかの遺恨を持ちつつ貴族として影響力を出すならば議会派になるのが自然な流れであったけれど、ウォーレンはその両方と距離を取っていたらしい。
実際、オーレリアの知るウォーレンは物腰が丁寧な冒険者であり、貴族らしい振る舞いなど一度も見たことがなかった。
「それが功績を認められ王により陞爵され、侯爵という高い身分を与えられた。これは、グレミリオン卿は今は亡き王妃とその母国への体面のみで一時的に王家を離れただけで、王家が袂を分かったわけではないと貴族は受け取ります。つまり王党派にとっては、新たに侯爵家が自分たちの派閥に加わったように思えるわけです」
「はい……」
「ですが、その婚約者であるオーレリアの後見人は、議会派の中でも古い家柄であるウィンハルト家です。相手は本家の次女が事業のパートナーに選んだ、すでに議会派の一部にはその製品を愛用している者もいて、これからも目覚ましい活躍が期待される優秀な付与術師。王党派に新たな高位貴族が加わるのを阻止するだけではなく、あわよくば議会派に取り込めるのではないか――という妄想を抱くのは、ある意味仕方のないことではあります」
ウォーレン自身が立場を明らかにしていない以上、家と家として正式に付き合うのは時期尚早ではあるけれど、薄くとも縁は作っておきたい。
その婚約者は付与術師であり、新しい製品を売り出し中である。しかもそれは女性だけが必要とするもので、家を率いる男性には明確に関わっていると言い切れない曖昧さは、将来的にウォーレンといい関係になれそうなら「うちの家内や娘も、婚約者殿の作ったものを愛用している」という一つの話の種にしやすいという意味で、「ちょうどいい」らしい。
「……なんというか、自分の話をされていると実感しにくいですね」
政治や貴族の思惑など、考えたこともなかった。
オーレリアは人の役に立ち、助けになるものを作っていきたいと思っているだけだし、アリアもそれでいいと言ってくれた。
ウォーレンはいい友人であり、多くの事情を抱え、体に不調が出るほど追い詰められている一面も持つ人だ。王家のしがらみから逃げたがっているのは、オーレリアの目から見ても明らかだった。
「人の印象なんて、勝手なものです。その人を知らない者ほど、見たいものを見て、都合のいい想像を膨らませるので」
ふっ、と冷笑し、アリアは次に、ゆっくりとオーレリアに頭を下げた。
「私がこの状況を読み切れなかったのが、今の混乱の大きな原因になっています。ごめんなさい、オーレリア」
「やめてくださいアリア! ――ウォーレンさんとの婚約は、私が自分で決めたことです。どんな結果になっても責任は私にありますし、アリアはむしろ巻き込まれた方じゃないですか」
「生産はオーレリアに任せているように、事業を回すのは私の役割です。どんなことになっても、上手くやるべきです」
一度唇を引き結び、膝の上で拳を握る。
「私とアリアは、パートナーですよね。何が起きたって、どちらか片方だけの責任というわけではないと思います」
「オーレリア……」
あの時、ウォーレンの助けになりたかったし、これ以上彼に苦しんでほしくなかった。
もしアリアに婚約を止められても、きっと自分はアリアを説得することを選んだだろう。
それが今の状況の引き金になったのならば、責任は自分にある。そのことでアリアに謝られては、身の置き場がなくなる思いだ。
「それに、前にアリアは言ったじゃないですか。べきって言葉は、好きじゃないって。人を縛る言葉だって。ここまでだって全部スムーズに来たわけではないですし、事業計画の見直しが必要なら、見直しましょう。私はアリアを信じているし、私にできることならいくらでも頑張りますから」
疲労の浮かんでいたアリアの水色の瞳に、輝きが戻ってくるのがわかる。
オーレリアが好きな、生命力にあふれたアリアの目だ。
「――ふふ、オーレリアには、敵いません」
笑って、もう一度お茶を飲んで、アリアは天井を仰ぐと、ふぅー、と尾を長く引く息を吐いた。
「柄にもなく、弱気になっていたみたいです。もう大丈夫。どうせならば逆境はチャンスにしてしまいましょう。当初の予定より、うんと稼ぎますよ!」
「はい!」
「とりあえず量産と、それを販売する場所を増やすのが急務ですね。縫製工場を私たちが管理するのは現実的ではないので、すでに工場を持っている商会と提携するのがいいと思います。エレノア様に借りを作ると後が怖いので、付与術師の雇用はそちらの商会と連携して進めていくのがいいでしょうね。それが整ったら貴族や冒険者ではない中間層にもこういうものがあると広く伝わる宣伝を打って――」
ぶつぶつと呟くアリアは、いつにも増して活き活きとしている。
先ほどまで浮かべていた疲れも、どこかに吹き飛んでしまったらしかった。




